消費の中のアイデンティティ
 消費によって欲求不満をまぎらす人のことを、精神医学では「買物依存症」とよぶ。
モノを手に入れることで不安を鎮め、生きる充実感の代償とする人のことである。
しかし、それは欲求不満の本当の解決になっていないので次々に買いものをしなければな
らない。依存症の人は、自分の行為の本当の原因を知ることを避け、知ることを怖れる。
知れば自分を変えなければならないのに変えられそうにないとわかっているからだ。
たとえば学業の成績不振、企業の中で出世コースにのりおくれた人、容姿が劣っていると
悩む人などが、その代償をモノの中に求める。本当の解決が自分自身をみつめる価値観の
転換にあり、外部からの評価にあるのではないのに、自分のアイデンティティが発見でき
ない人に多いという。あるいは自分の生活環境から脱出する勇気もないが、さりとて満足
もしていない、という人たちだ。
 しかし、キャロリン・ウェッソンも言うように、買物依存症をなおすのは、コカイン依
存症をなおすよりもずっと難しい。そのどちらもが脳の快楽中枢を刺激するので、不安や
ストレス、欲求不満の手近な解消法になるからだ。それが無意味だと悟ったとき、コカイ
ンには治療センターもあり、世間はコカインからの脱却を助け励まし、立ち直ればほめて
もくれる。
 しかし、買物(消費)依存症に対しては逆である。販売店もメディアも広告も「買え、
買え」と迫ってくる。
依存症から脱け出すのに味方してくれる世間はなく、ただ自分の人生の価値を根拠に闘う
ことしかないのである。むしろ依存症から脱却しようとすると「消費は美徳」「内需拡大」
「多様化による自由」などという非難に取り囲まれる。それが自我の未確立な子どもにと
ってどんな影響を及ばすか想像に難くない。

岩波講座「現代の教育1危機と改革」
『生活世界の変貌と教育』暉峻淑子 pp.88..89




豊かさの中の自信
 カネとモノに恵まれただけ、はたして子どもたちの可能性はひろがったのだろうか。
極貧の中では満足に教育をうけることができなかった時代にくらべれは、答はイエスである。
 しかし他の先進国の子どもたちに比べて、日本の子どもは、自分の可能性にかなり悲観
的である。自分の価値にめざめることこそが教育の目的であるのに日本の経済力は、子ど
もたちの豊かな自己実現の可能性を逆につぶしてしまっているとしか思えない。
それは教育の中に経済社会の激しい競争が持ちこまれているからである。
 子どもたちは社会で成功する重要な要素が「運やチャンス」と答えており(51.8%)、
その割合が他の経済の発達した国の青少年にくらべて、ずばぬけて高いのが注目される。
才能や努力をみとめてくれる社会への信頼があまり高くない、ということであろうか。
それとも点数による序列づけのあきらめに飼い馴らされたためであろうか。
知と体験の結合がないため、知が自信につながらないためだろうか。
岩波講座「現代の教育1危機と改革」
『生活世界の変貌と教育』暉峻淑子 pp.95..96





教育の目的
 ドイツのある教師は私に言った。
「日本の親や教師のように、安楽に暮らし、いばっていられるような座席を狙って、一流
校、一流企業をめざす教育をしていたら、どうして社会を変革できる力が生まれるのでし
ょう。子どもを見るとき、結果だけで子どもを見てはいけない。教育の目的は子どもが自
分の価値にめざめ、自分の判断力を高め、自分の力で問題を解決して社会をよりよい方向
に変えていくことでしょう。」

〜略〜

 競争に敗けエリートコースからはじき出されたら、悲惨な人生を送らなければならない、
と信じている大人たちは自分たちの社会を変えていく努力を怠って、そのニヒリズムを子
どもたちに押しつける。教育の世界の競争とたえざる選別、知識の丸暗記と素早さ、ミス
のなさ−それらが優秀さ、能力と勘違いされ、子どもはやる気をなくし、楽しくない学校
になってしまう。規則や管理されることや競争になれさせる教育とは、かつての軍国主義
教育と同質の、会社主義教育ではないか。

〜略〜

 幼児時代からの英才教育は、何の効果もなく、むしろ、考え方を固定化してしまう、と
いうマイナス結果が明治時代から何度も出されていて、幼児教育の世界では結着ずみのこ
とであるのに、親は子どもをそこに追いこみ、教師も手のかからない子、できる子を歓迎
する。子どもは教育の対象ではなく、管理と親の安心したい欲求の対象になっている。教
育の工業化現象である。阪神・淡路大震災の時に子どもが生きいきとし、学校は、定型化
した教育やきまりから解放されて楽しい学校になった、といわれることは何を意味するの
だろうか。
岩波講座「現代の教育1危機と改革」
『生活世界の変貌と教育』暉峻淑子 pp.102..104