◆「体験を重視する学習」を批判する論評を批判する◆
 「総合的な学習」には一般社会に拭いきれない誤解があるようだ。
 今日(2003.11.07)のある大新聞の社説にも次のように書かれていた。
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 (総合的な学習は)体験にこだわり、ものづくりや発表などの“イベ  ント重視”に走り、その結果の検証が
不十分なケースも多かった。
〜略〜
   その後、基礎学力の定着がないと総合的学習も成果が上がらないことが指摘され、教科の学習内容と関連付けた
   取り組みが、研究者などから求められた。
〜略〜
   教条的にとらえるのではなく、教科で学んだ知識の応用発展として位置づけることが大切だ。
〜略〜
総合的学習から体験学習の縛りをはずし、学校の判断で自由に使える時間にすることも、一つの考え方である。

                                                           2003.11.7
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 体験にこだわるのは、学力を自分の外側にある知識や技能をひたすらに受け容れる力としてのみではなく、自分自身と「自分を
とりまく世界」との往還を繰り返す「かかわり合う力」としてとらえることの重要さを認識するからである。

 知と体験の相互往還的なかかわり合いを通すからこそ、手応えのある「やはりそうか」というわかり直しが期待できるし、身体と頭
と心を総動員した「生きた知」「ほんものの知」として子どもの内に組織し直されるからである。
 そうした手応えのある学びは、「自己への気づき」を通して、「対象との関係への気づき」、さらには「他者への気づき」を生み出し、
体験をベースにした豊かな感性の育ちや科学的情報に裏付けられた知識を行動に結びつける強い動機になる。
 そうした文脈の中で「体験」が重視されるのであって、体験を重視することが目的化してはならないのである。もし、体験を重視する
ことが目的化しているように見えることがあれば、それは現場での実践を生み出した当該学校のとらえが浅薄であったとしか言いよ
うがない。やはり「体験」は重視されなければならないのである。

 知と体験の往還的なかかわりを重視するということは、教科の学習と総合的な学習が主従の関係にあるということを意味しない。
まして、教科の学習の発展として総合的な学習の時間が位置づけられるということでもない。総合的な学習は、「応用・発展」として
とらえられるべきものではないのである。
 総合的な学習で獲得した「ものの見方・考え方・取り組み方」が教科の学習に好ましい影響を及ぼしたり、そこで身をもって発見し
たこと・体験したこと・わかったことなどを教科という正統な学びで裏付けたり科学的・論理的・体系的な知として「そういうことか」
「なるほどそうか」と確かなものにしていったり、それがまた総合的な学習の場で生かされたりするといった「行ったり来たり」を通して
こそ「生きた学び」「意味のある学び」として子どもに実感されるのである。
 「体験」とは単に身体を使って「行動を起こすこと」「自分をとりまく環境とかかわること」を意味してはいないし、何かイベントに向け
た活動をすることを意味してもいないのである。

 しかし、そう受け取られかねない動きが学校現場にあったことも確かである。
 やりっぱなし、やらせっぱなしの活動はなかったか、発表やワークショップなどのイベントをしていれば総合学習としてふさわしい
活動になるだろうという安易なとらえはなかったか、といったことについて真摯に反省しなければならないことも事実であろう。
しかしそうだとしても、この大新聞は上のような意味で「総合的な学習の時間」の趣旨を取り間違えている。
 いや、学力低下を懸念する論調を改革当初から主張してきたという事情から考えると、故意にそうした取り違えをして「指導要領の
見直し」の風潮を煽り、知識記憶の量を競うかつての教育体制への逆戻りをめざしているのではないかと勘ぐりたくなるようなふしさ
えある。

 それはともかく、このような大新聞ですらこうした取り違えをするほどである。
 教えてもらって習うこと、自分にとっての意味はともかく覚えることが大切だと信じて勉強すること、そうした勉強を通して友だちより
も1点でも多くとって競争に打ち勝ち、より有名な高校や大学に入ることが学習の目的だと信じてがんばることが「学習」だととらえて
取り組んできた向きには、なおのこと「積極的に取り違え」たくなるのも無理からぬ話である。
 私たちは、子どものために「より確かな学びとはどのようなものか」について考え、日々の学習の中で、学んだ知識や技能、学ぶ
ためのスキル、学ぶことの楽しさなどが、自分の中に確実に育っていき、自分の生き方を拡げていると思えるような学習を構想した
いのであり、それが「学びを保障する」ということなのである。

 この大新聞をはじめとする「学力低下論者」は、執拗に基礎・基本の徹底を主張する。
 しかし、大切な基礎・基本だからこそ「自分にとって意味のある対象」として学び取っていくことが望まれる。
 可能な限り、意味を保留して「意義もわからないまま、ペーパーテストに備えて知識を積み上げていく」ような学習は避けられるべき
なのだ。
 そこで、と市川伸一(東大教授)は言う。
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そこで、目的的な行動の過程で、必要感をもって基礎・基本を学ぶという「基礎に降りていく学び」を学校でも
導入していくことが不可欠になってくる。
また、それが可能な時代になったのである。
  インターネット等を使えば低いコストで情報が手にはいるが、それらを理解しょう
  とすれば、国語の力や、理科・社会の知識が必要になる。
  外国の子どもたちとのコミュニケーションは電子メール等で簡単に行えるようになったが、
基礎的な英語力がなければ、伝えたいことも伝えられない。
統計的なデータを分析するソフトウェアは充実してきたが、数学的な原理がわからなければ適切
  な使い方はできない。
  しかし、「やりたいこと」があって、その実現のために基礎・基本があるという学びの文脈ができれば、
生徒たちは「ひとごと」でも「テストのためしかたなく」でも「はるか遠い将来のため」でもなく、
実質的な意義を実感しながら学ぶことができる。
  教科の時間でも、「基礎に降りていく学び」がまったくできないわけではないし、
  そうした興味深い実践も見られる。
  しかし、従来の教科の時間では、やはり教科内容を系統的に教えていくことが中心とならざるをえない面があった。
新教育課程で、自ら興味・関心をもったテーマを追究するという学習を保障する
「総合的な学習の時間」が創設されたことは、非常に大きな意味がある。

「学力低下論争」ちくま書房 2002.8 p.240
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 学校は、いや文部科学省は安易な「学力低下を懸念する論調」「教え込むことが教育の主たる目的であるとする論調」に惑わさ
れず、改革を推し進めていかなければならない。
 そこで必要になるのは、「どうすればよいか」という目先の方法論ではなく、多彩でアグレッシブでかつ確かな方途を生み出す基盤
となる確かな「考え」であり、より望ましい教育をめざそうとする一人ひとりの先生方と学校の志なのだ。
 教育者としての認識を新たにし、考えを深めることがあってこそ「生き生きとした学校」づくりの担い手として先生方が寄与できるの
であり、それがなければこうしたノスタルジックでヒステリックな動きには対抗できないし、子どものよりよい育ちに貢献できないだ
ろうと思われてならない。                                                      
                                                                       2003年11月8日



学ぶことの意味を問い直す
 先頃、中国の西安大学に留学していた日本人留学生と日本人教師が大学祭で不祥事を引き起こし、現地の大学生が猛烈な抗議デ
モをしているという報道がなされていた。
 あろうことか、学園祭で裸で踊った上、中国人を侮辱するようなコメントが書かれた看板様のものを掲げたという。裸で踊ることがどう
いう具合に文化的な行事である学園祭に結びつくのか、中国人を揶揄するようなコメントを掲げることに結びつくのか、まったく理解不能
である。

 日本の学生の大学というものに対する認識と中国の大学生のそれとの間に大きな開きがあるということの現れであろう。
 日本の大学はレジャーランド化してしまい、文化について考える場であるはずの学園祭もその文脈の中では単なる「お祭り騒ぎ」の場
としてしか日本の大学生に意識されていないのではないだろうか。
 それは、このニュースを取り扱ったワイドショーに出演していたコメンテーターの『大学祭は文字通りお祭りで、日本の大学なら笑って
すまされるところだろうが・・・』という言葉からも予想される。

 よく言われることだが、日本の大学は入学試験に合格して入学してしまえば卒業は保障されたようなもので、大学に入ることそれ自体
が目的化してしまい、その先にある本来の目的であるはずの「学問すること」「研究すること」を通して自己を育てることは二の次になっ
てしまっているということを如実に露呈してしまっているかのようである。

 親ですら、『大学に入学するまでがんばったのだし、就職してしまえば思うように自分の時間など持つことができないのだから、せめて
大学4年間は猶予の時間として持っても良いだろう』と考えているということも聞く。
 学校で学ぶのは、一面では社会に出て「役立つことのできる自分」に育つためでもある。

 にもかかわらず、自分を育てることを放棄するかのような姿勢は、社会に出るということ、あるいは社会で働くということが「辛いだけの
こと」「自分とは本来かかわりのないこと」だとする意識の現れではないか。だから、受験から解放された「今」だけが自分の時間である
し、社会に出てしまってからは自己を発揮できないだろう、規範の中で自分らしく振る舞えないだろう、だからモラトリアムの時間として
「今」を楽しんでおくことが先決だ、「今」ここにしか自分の居場所はないのだからと考えているのではないか。

 そうした意識は「学校選び」「会社選び」にも共通して働いているように思われる。
 自分が周りの環境にどう貢献できるということや自分を拡げ何を成し遂げるかということよりも、いかに安楽で誰よりも有利に安定した
地位と報酬を望み得る状況に自分を置けるようになるかが選択の基準であるかのように窺えるからである。

 自分が何をしたいか、何を学びたいかという観点からではなく、どうやら日本の若者には、高収入を得るためのより有利な就職先とそ
れに伴うステータスを勝ち取るためにどこであれ有名大学に進学することが学習の目的として強く意識されているようである。
 中には学ぶ意志はないが、就職に不利だろうから、あるいは社会的なステータスを得るには大学出身でなければならないから、といっ
た消極的な理由で大学をめざす若者もいる。
 そして有名なエリート大学に入るために進学校と呼ばれる高校をめざして小中学校時代を送ることが当然だと漠然と思っている若者
も多いはずである。
 いや極端な例では、一貫校の名門幼稚園にさえ入り込めればストレートに有名大学への線路が敷かれ、有利な道を歩めるとも言わ
れている。たった一度の幼い頃のテストに合格しさえすれば、その後の努力は不要もしくは軽減されるのだ、という意識が大学を頂点と
する教育界を見る目となっているのだ。
 そして幼い頃になめた苦しみの時間を取り戻すためにも、大学生はその4年間を必死になってレジャーに打ち込むのだ。

 そうした意識を親が持ち社会が容認する状況が続けば、日本の将来は決して明るいものではない。
 グレゴリー・クラーク(多摩大名誉学長)も、次のように指摘している。
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日本では、大学の質を判断するにはムードや伝統的評判に頼るしかない。
  そこでいわゆるエリート大学は、過去の評判に頼っているだけで良い学生が集まり、
  それがまた、自校の良い評判を守る。だから、しっかりした教育を提供しなければ
  ならないという責任を感じていない。
  こうしたエリート大学を卒業した人々は、日本を牛耳るエリート官僚になり、
  エリート政治家になり、エリートビジネスマンになる。
  しかしながら、彼らは適切な教育を受けていないエリートである。
  バブル崩壊後の財政・金融スキャンダルの主な原因は、当時の大蔵省のエリート
  官僚たちが金融や経済のことをほとんど知らなかったという理由によるところが
  大きい。エリート大学の経済学部を卒業したエリート官僚でも、バブル時とバブ
  ル以後にどういう経済政策をとるべきかを、的確に提示できなかった。
  日本は、この悲しむべき大学教育制度からの脱却を果たすことができるのか。


「なぜ日本の大学は変わらないのですか」東洋経済新報社 2003.9
               p.118..119
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 大学に入ることが主たる目的で、極論すれば、「○○大学出身」というカードを手に入れるために勉強し、いったん入学してしまえば、
それらは保障されることから学ぶ意味や学んだことがらなどはどこかに忘れ去って4年間を過ごす彼らが、大学で学ぶ権利を得て懸命
に学問に打ち込もうとしている外国人からどういう目で見られるかは想像に難くない。
 どこの大学を出たかではなく、何ができるかが求められるこの時代は、大学で何をしてきたか、どういう成長を遂げたか、どういう可能
性や発展性を「学問を通して」身につけてきたかこそが問われているはずなのに、未だにその短絡的な学歴神話は崩れていない。

 教育改革成功の鍵はどうやらその周辺にあるのではないだろうか。
 中には、受験術と学力を混同した「学力低下論者」が、受験の厳しさを若いうちにもっと味わわせ勉強する若い世代を育てるべきだ、と
声高に主張している。
 これではますます悪循環を増幅させるようなもので、今以上に学ぶことに意味を感じられない若者を増やすばかりだ。
 学ぶこととその後の優位な生活とは無関係だ、ということを社会はもっと強調して良いし、どこの大学出身であろうがその人の力量と
社会への貢献度はまったく別物であることを経済界・企業界は社会に対して主張して良い。学べることは人間にとって幸せなことである
が、今や生涯学習社会である。「いつでも」「誰でも」「どこでも」学べる社会になったのであるから、大学で学ばなくても自己実現をめざ
して学べる「幸せな生活」を送ることに何の支障もないのだ、ということを私たち大人が声を大にして子どもたちにわかってもらえるような
努力をすべきなのだ。

 受験のための準備=勉強ととらえてそれだけを目標としてくれば、合格した途端に学ぶ意欲も意味も見失ってしまうことは火を見るよ
りも明らかだ。
 そうした生活を幼いうちからしてきて、本当に「学ぶ」ことの意味や「未知なるもの」の不思議さに心をときめかすような学びの楽しさを味
わうことなど到底できないだろうと思われるからである。
 教育改革を成功させるには、まず大学入学制度を見直し、そこをめざすことが学習の主たる目的ではない、学ぶ意欲と意志があれば
誰でも入れるのだからいつ剥落してしまうかもしれない「術」や「一時的で不安定な受験のための知識」を身につける必要などはない、し
かし学ぶ意志のない者はどんどん大学から去っていって良いのだ、この社会はどこの大学を卒業したかにかかわらずそれぞれの個性
を発揮して誇りをもって充実した生き方で生きていける社会なのだから、ということを社会共通のコンセプトとして打ち出すことができる
かどうかが重要な鍵となる。

 教育とは、決して学校だけの問題ではない。
 まずもって社会がその価値観を変えることがなければならないのである。それは、子どもたちによりよい学びの環境を保障したい、と
いうことにとどまらず、私たち大人もお互いに教育し合っているし、学び続ける存在であることを考えると、社会全体の問題であり私たち
自身の問題であるとなおさら痛感せざるを得ないのである。
 そうした大きな動きが、(遠回りかも知れないが対処療法にならずに)幼稚な行動に走ってしまうような大学生を生まない教育環境づく
りにつながるのではないだろうか。
                                                                             2003.11.9




自己原因性の重要性を再認識する
 今年も各地の成人式で世の顰蹙をかう新成人の振る舞いがあったという。毎年のことながら、何と言うことかと慨嘆せざるを得ない。
 成人式をどうするかということもこれからの課題であろうが、どういう式典であろうが「公式の場」で大人げない振る舞いをしてしまう
こうした若者たちの社会人としての認識をどう育てるかということの方が、より根の深い、そして差し迫った問題ではないだろうか。

 市民としての意識が欠如しているのか、それとも市民となることへの抵抗感がそうさせるのか、また社会の中でごくふつうに生活して
いれば自然に育つところの常識に欠けているのか、といぶかしく感じ納得のいく説明を自分にできずとまどいを感じた人も多いのでは
ないだろうか。
 
 彼らをあのような行動に走らせるものは何なのだろうか。
 
 私は、現在の若者に共通して言える特徴の一つに「ウケること」を欲する傾向があるのではないかと考えている。何をおいても、「ウケ
ること」が自分の存在を確認することのできる証であり、時には自分を貶めてもでも自分が「おもしろい人間」であることをアピールした
がる様子は日常的によく見受けられる。他人に笑ってもらえること、笑ってもらえるような冗談を即座に思いつける人間であること、バカ
バカしいことを平然とやってのけて他人におもしろがってもらえる人間であることなどに異常な価値を認めているのではないと思われる
のである。

 そして、そうした価値観を生むもととなっているのは、「まじめさ」を嫌い、「平凡であること」を嫌い、「優等生」であることを嫌うという
若者独特の心情から発しているのではないかと推測される。「まじめ」であっては仲間に受け入れてもらえないし、ましてや「優等生」
であっては「いじめ」の対象ともなりかねない。
 だから、異常とも思える熱意をもって「ウケ」ることをねらい、「おもしろい」人間であることをアピールしたがるのである。

 「まじめ」に努力をしても、うまく行きそうもないし、努力すればするほど自分の能力のなさを認めざるを得ないかも知れない。
 そんな危険を冒してまで「まじめ」にコツコツとがんばるよりは、手の届きそうな「おもしろい」人間になることの方が自分の存在を確認
できる近道だとばかり手短な手段を選択しているのではないか。
 人間は誰でも「自分が無価値な人間ではない」ということを確認したいのである。
 さほど労せずして「ウケ」ることができれば、自分を認めてもらえるし、自分でも「自分がなかなかやるものだ」と思えるのであるから、
こんなうまい手はないのである。

 自分の行為が原因となって周りの環境を変えることができるという実感を「自己原因性の感覚」というが、人間はその「自己原因性の
感覚」を充たしたいという欲求があり、それを充たすことができれば、自分には「能力があり、存在する意味のある人間」であると自らを
認めることができる生き物なのだ。
 だから犯罪を犯した若者の多くが「目立ちたかった」「有名になれる思った」「大騒ぎになるのがうれしかった」と述懐するのだ。

 まじめにふつうにコツコツとやっていたのでは、とても目立つことなどはできそうもないが、それにしても自分が存在することの意味を
確認したいという心情と自律心や自立心、耐性の希薄さが相まってこうした騒動を引き起こしていると言えなくもない。
 そう考えると、彼らは「気の毒な存在」なのである。自信のなさがそうした行為に走らせてしまっているのだから。
 目立つことやウケることだけが「生きている証」ではない、ということをわかってもらえるような家庭教育、社会教育が必要だし、一方
ではやはり「自己原因性の感覚」が他で充たされるような「生き方」を考える機会が必要だと痛感させられるのである。

                                                                            2004.1.31 






日本の教育
 私たちは,明治維新による文明開化に伴う脱亜入欧政策(ヨーロッパに追いつけ追い越せ)によって,日本の学校教育の基礎が築
かれ,現在まで続く学校文化が形作られたと思いがちである。
 そして,そのあまり「それまでの日本の文化はヨーロッパの文化に比べて劣っていた」とか「日本の教育はヨーロッパに比べ遅れて
いた」と思いがちだ。

 しかし,江戸時代は寺子屋をはじめとする私塾の経営が盛んで,日本人の識字率はヨーロッパ諸国のそれに比べて非常に高く,
市民の子弟教育自体に非常に高い価値が与えられていたと言われている。
 江戸期の日本は全人口の2割が武士,5割近くが商人という人口比率だったようであるが,武士は言うに及ばず商人(丁稚などの
下働きも含めて)になるためには,読み書き・計算(算盤)ができるということが必須条件で,江戸時代を通じて市民の子弟のほとんど
が私塾通いをしたのだそうだ。

 学問的にも町人学問とでもいうべきものが沸騰し,例を挙げれば山片蟠桃は(世界の思潮から孤立していた当時の日本ということ
を考えると驚くばかりだが),早くから地動説を唱え,唯物論的な世界観に立った「夢の代(ゆめのしろ)」を編んでいる。
 また,蟠桃と親交があったと言われる間 重富(はざましげとみ)に至っては,質屋の主人でありながら学問を志し,その財力をもっ
て職工を養成し,自ら考案した天文観測の機器をつくったり天文台をつくったりしたという。
 甚だしい例では,傘職人の橋本宗吉などのように,傘に紋を描くだけの職人でありながら江戸の大槻玄沢に医学と蘭学を学び,
さらには電気にも関心を持ち日本の電気学の始祖とも言われるような働きもしている。
 最も有名な例では和算の関 敬和のように,当時のヨーロッパでさえ一般的でなかった微分・積分の計算を考え出している。

 であるから,日本には学問や教育に関する下地が既に成熟した形でできあがっていて,それだからこそ明治になって近代的な学校
をつくろうとした時でさえ,当時のヨーロッパでは実現の見込みさえ立っていなかった平等主義的な教育制度が、維新からわずか5年
後に採用され、藩校は全廃され,中教審答申が言うように「こうして、本人の努力次第で、上級の学校を卒業すれば将来の人生に展
望が開けるという『学歴主義』が、日本では、他の先進諸国よりも純粋なかたちで形成されるに至った。」のであろう。

 しかもエレン・ケイがその著『児童の世紀』(1900年)で言うように、「日本式のがらあきの部屋は、子どもを育てるのに理想的である
が、これに対しわたしたちの現代的な部屋は物がいっぱい置いてあって、子どもにとっては迷惑である。」「たとえば、日本のように、
穏やかな方法だけで教育が行われている国民は、男子が打擲や殴り合いで鍛えられなくても、剛健さが損なわれない。また、この
ような穏やかな教育方法は、自制心と思慮を喚起する点についても、同様に効果がないわけではない。むしろ反対に、日本ではこの
美徳が幼い子どものころから、強く心に焼きつけられているので、親切心がいかなる快さを人生に与えるかという経験が、日本で初め
て示されたほどだ。」と,むしろヨーロッパに日本の昔の教育のありようを取り入れようとしているふしさえ窺える。

 日本の教育は古くから欧米の教育に比べ立ち遅れ,管理的・抑圧的な面ばかりが強調され,その反省に立って今の教育改革が
あるのだと受け止めるむきが多いと思われるが,このエレン・ケイの指摘を見る限り「かつての教育はそうではなかった」と言えるし,
むしろ理想的な教育が行われていたようにさえ思われるのである。

 そのような教育が迷路に踏み込んでしまい,現在の教育界が抱える問題点の多くのもとをつくったのは,どうやら昭和初期からの
軍国主義におおわれた頃の教育体制・社会体制にあったのではないか,と思われるが,かつての日本の教育に見られた「穏やかな
方法で」「自制心と思慮を喚起する」ことを通し「親切心が快さを人生に与える」ことが実感できるような教育に立ち返ることをめざした
いものである。

 日本の教育というと抑圧的・管理的という非難ばかりが聞かれるが,日本は決して卑下することなく,江戸・明治・大正のかつての
教育や学問水準の高さを思い,その内容を見直し確かめることによって改革の進むべき道を誤らないようにしたいものである。







「よさに気づく」の周辺
この数年間、通信簿(通知票)の所見欄に「お友だちのよいところによく気がつき〜」という文章をよく見かけるようになった。
 友だちの「よさに気づく」とは、具体的にどういうことを指しているのだろうか。

 「良さ」「善さ」「好さ」など,どれをとっても「よさ」だと言えるが,ある価値基準に照らし合わせてどの程度「よいか」を見る
のではないという立場から,またさまざまな角度・視点からその子なりの,またはそのモノゴトなりの価値を見いだし認めよ
うとする立場から『よさ』と表記することが多い。

 「よさ」についてはともかく、互いに見つけ合うこと、認め合うことを核としたこれからの教育活動を充実させ、真に子どもの
発見として意識できるようなものとしていく意味から、特に「気づく」についての十分な理解が必要だとどうしても思われる。

 「気づく」ということは、その前提として「気づいていない」状態があるはずである。
 それは、「意識されていない状態」と言い換えることができるだろうが、いずれにしても「思ってもいない」「見えていない」
状態があるからこそ、見えていなかったことが初めて見えた、あるいはそのことを気持ちの上で意識した様子があってこそ
「気がつく」と表現できるはずだ。
 いわば、日常生活の中で看過していたこと、それとは意識していなかったことに自分なりの意味を感じ、新鮮な驚きの感
情をもって『そうだったのか』と改めて意識することが「気づく」の意味だと思われる。

 そう考えてみると、「友だちのよさに気づく」ということは、今まで見えていなかった友だちのよいところに新しく、または改
めて気がつくということであり、友だちを「再発見」する認識上の行為と言えるだろう。
 今まで○○さんは、こんな人だと思っていた。けれども今日話してみたら、もっと別の○○さんを見つけた、今までの○○
さんと違って見えた、というときに「再発見」がなされたと表現できるし,それが「気づく」の意味であると言ってよい。

 そのことは,もう周知のこと,評判になっていること,誰の目にも明らかなことをもってしては,「気づき」とは言えないし「気
づいた」当人も発見のよろこびを実感することは稀薄だということでもある。
今まで見えなかった,あるいは見過ごしていた何事かを自分の力で,自分の働きで発見できたことによってもたらされる
「快の感情」の重さに着目すれば,本来の「気づき」の場をよりよく設定できるのではないだろうか。

 今,これまで学校教育で重視されてきた「知能(IQ)」にとってかわって「知性」とか「情動知(EQ)」とか「身体知」などへの
転換が言われているが,それらは極言すれば「快の感情への志向」が「生き方の確立」に重要な働きをなすことに着目した
新しい動きである,と言うこともできる。
 「気づく」ことも「知る」ことも「わかったりできたりする」ことも,すべてそのことによって当人にもたらされる「自分の力の広が
りや世界の広がりの実感」に伴う「快の感情」がなければ,それ以降の行為に対する強い動機づけとはならないであろう。

 友だちの「よさに気づく」ということも,気づくことによって「それを発見できた自分」や「やさしい気持ちになれた自分」を見い
だすことで得られた「快感」を味わえるからこそ意味があるのではないだろうか。






「躾」について考える
 地球という限られた場では,まことに多種多様な生き物がお互いに関連し合いながら一つのシステム,つまり生態系を作り
上げて生きている。ある時は助け合い,ある時は生きるために戦いながら…。
 生き物の基本は,子孫を残し、種族を未来につなげていくことにあるが,そのためにはどの生き物も一生懸命である。
 鳥は子育てのために昆虫を捕らえ,その鳥の卵はより大きな動物に狙われるという具合である。

 ところで,こうした関係はそれぞれの生物の性質や行動を決めるDNAに書き込まれた情報に従ってできあがっていると言
われている。だから,親も子も同じ生き方をするのだそうだ。
 「スズメの学校」ではお母さん先生が鞭を振って「生きるのに必要なこと」を教えるが,お母さんが教えることはおばあさんが
教えたこととまったく同じだ。
 それだけ知っていれば,スズメはスズメとして立派に生きていける。
 しかも大事なことは,その生き方が生態系の一部としてぴたりとはまっているということ。

 それはスズメに限らない。それぞれの生き物が,いわゆる本能に従って生きている限り,生態系としてのシステム全体は
見事に機能し,破壊されることなく続いていく。
 ところが,人間という生き物は非常に特殊で,言葉や道具,技術を用いてそこから文化や文明を生み出すという「他の生物
と大きく異なる生き方」をする存在である。

 「大きく異なる」というのは,生態系の一員として分をわきまえるところからはずれた,という意味である。
 そこで,そのはずれた部分をどのようにするかについての「教育」が必要になったというのが実情のようである。
 もっともここで確認しておかなければならないのは,教育の前に「生き物」として自ずとわかることはわかっているという前提
があることである。
 スズメはスズメとしての生き方がわかっている,メダカはメダカとしての生き方がわかっている‥‥その仲間として,人間は
ヒトとしての生き方がわかっているはずなのだ。
  ところが,近年,私たちの生活は,それを忘れさせる環境の中で営まれている。

 空調のきいた病院で生まれ,冬でもマンションの中で温かく過ごせるといったように,自然とはまったく無関係であるかのご
とく暮らしている。
 本当は,自然から離れてなど暮らせるはずはないのに,都会育ちの子は野菜はスーパーで手に入るものという認識しか持
たないように「生態系の中での分をわきまえる」ことを意識せずに生活できるような環境の中で生きていけるのである。

 つまり,教育の前提となる「生き物としての準備」が不十分なのが現代の人間なのだ。
 そこへ生き物からはずれた部分だけをギューギュー詰め込んだらどうなるか。
 地球上の生態系の一員とは言えないとんでもないものができあがってしまうであろう。

 「躾」という言葉がある。自ずと本能的に自らの姿を美しく処すことのできる方法のことであるが,「美しく」とは,自然の一員
であることをわきまた姿という意味である。
 家庭も社会も,子どもがそれを身につけられるようなはたらきと責任を担う必要があるし,その基本があってこそ,まさに人
間らしい文化や文明を築いていけるはず。
「躾」を単に「親や大人の言うことを素直に受け入れることのできる下地づくり」などととらえてはいけない。





総合的な学習の課題
 ここで「課題」と言っているのは、総合的な学習が各学校でよりよく展開され、学習者である子どもにとって意味のあるものとして存在
するために、解決されなければならない課題である。

 ある研究者は、調べ方や学び方を身につけていない教師が「学び方」の育ちをめざす総合的な学習を指導することに問題があると
指摘している。
 教師自身が大学や短大で必ずしも調査方法論・科学的方法論などの調べ方・学び方を学んできているわけではないし、総合的な学習
についての理論も教員免許取得上の取得科目になっているわけでもないと言うのである。

 ある面ですこぶる的を射た指摘である。
 総合的な学習の時間では、子ども自らが自分や自分たちを取り巻く環境(モノ・ヒト・コト)に働きかけ、そこで見いだされた自分にとって
「わからないこと」「放っておけないこと」「重要なこと」などに頭と体と心をフル活用した解決への挑戦が核となる。
 そこでは、自分なりの「わかった」を求めて、さまざまな調査手段による学びが展開され、まさに子ども自身の手作りの学習が繰り広げ
られ、手応えのある「知」としての「わかり」や「わかり直し」、新たな「わからない」の発見による創造的で主体的な問いの認識がなされる
はずである。

 そうした学習では、子ども自身が調べる方策や手段を豊富に持っていること、調べたことが本当かどうか検証する手段を持っていること、
あるいはそれらを開発できたりすることが必要不可欠であり、結果として「調べ方」や「学び方」が身に付くであろうということが予想される
し、そうでなければ総合的な学習を展開する意味は半減する。
しかし、だからと言って総合的な学習で子どもの学びを指導する教師がそうした調査方法や科学的な検証方法について熟知していなけ
ればならないというわけでもあるまい。

「答え」を教える役目を教師が担ってはいないからである。
 また、子どもの活動をコントロールする役目を担っているわけでもない。
 総合的な学習においては、子どもが自分自身納得のいく「応え」(答えではない)を求めて手作りの学習を進める時間だからである。そこで教師に求められるのは、学習環境を整え、どうしたら子どもが自分の問いに気づき、追究の手を休めずに問い続けることができるようになるかに配慮して「学びをコーディネイト」することなのである。

 どうやら学校では、教師が答えを知っていると、子ども自身が問いにじっくりと取り組むのを待てずに、答えを示したがる傾向がある。
それは、「答え」に限らない。
解決に至る方法についても、指示しその通りにさせることが効率的だし正しい方法であると思いこみがちである。
 しかし、教えてしまえばその知識や技術は子どもにとっては「自分の外部にあるもの」として意識されてしまうおそれがある。
教えずに教えることこそ肝要で、たとえ教えたにしても子どもが自らの手で手に入れたものと思えるような学習の仕組みが必要である。
 「教えずに教える」ということは、何もせず手をこまねいてみていることではないのである。

 これからの学校で必要なのは、答えを示すこと教師ではなく、答えに至れると予想される道筋を示唆したり、解決のヒントを提示したり、
共に悩み考えたりすることのできる教師であろう。
 とりわけ、総合的な学習では現在の社会が抱えていて解決を模索しているところの難問(環境汚染や省エネ、循環型の社会の実現や
少子高齢化などの問題)にも踏み込んでいくことが予想される。
 それらは現時点では正解など出せそうもない、これから地球市民が全員で取り組むべき課題であり、その意味では教師が答えを準備
することは不可能だし、準備すべきではないことがらである。
解決できそうなヒントを共に考えることや示すことはできても、正解を示すことなど不可能なはずである。

 そこで大切になるのは、ものごとを見きわめ、考えて判断し、解決の方向を探る構えや動き出そうとする行動力、自己の行動を冷静に
コントロールしてよりよい方向に向かおうとする意志などであろう。
 そうした見方・考え方・取り組み方については、教師の方が一日の長がある。
 教師自身もわかったような気分になっているところの「子どもの課題」を我がコトとして真剣にとらえ、共に取り組む中で、子どもはその
後ろ姿を見、追究や探索の仕方はこのようなものかと感得したり、自分の活動に取り込もうとしたりするはずである。

 そう考えてみると、教師自身が探求の方法や検証の方法を持つということは、持っていないよりは持っていた方がよい、という程度にとら
えておいた方がよいのではないか。
 むしろ大切なのは、調査・探索したり検証したりして、「確かなもの」「よいもの」をめざしつくりあげようとする意欲や意志、問い続ける構えを教師自身が持っているかどうかということなのではないだろうか。




マニュアルに依らない「わかり」
 妻が介護の勉強を始めた。テキストで勉強し、添削テストを受け、さらにはスクーリングで講習を受け、今日は介護センターに実習をしに出かけた。

 介護対象となる老人がどのような身体状況であるかによって介護者の対処の仕方はさまざまであるということは容易に想像がつくが、講習会ではそうした一つ一つの事例と対処について『この場合にはこうしましょう』『この場合にはこうしてはいけません』といった指導を受けるのだそうである。
 受講者は、そうした個々の事例について対処の仕方を覚え、技術をマスターすべく何度も練習するのだという。

 しかし、介護センターに実習に出かけるにあたって不安でならない、と妻は言う。
勉強はしたが、実際に体の不自由な方を目の前にした場合た場合、これまでに勉強して覚えたことやテキストに書かれていたことの中から、今必要なことがらを思い起こし咄嗟に対応できるかどうか、きっと頭の中は真っ白になってしまって何も思い出せないのではないかという不安が頭を離れないというのである。
そして、それは「それぞれの事例について、なぜそうするのか、という問いを抜きにして勉強した結果」なのではないかと妻は言う。原理や原則をとらえ、こうした場合にはこれこれの理由でこうした方が良いのだということがわかれば(深く納得ができれば)、他の事例にも応用がきくだろうし、テキスト(マニュアル)に書かれていない事態が起こったにしても、考え得る最善の方策がとれるかも知れない、と言うのである。

 私も同感である。
 介護の勉強に限ったことではない。
 私たちの身の回りで行われる「お勉強」は、『なぜそうするのか』『なぜそうできればよいのか』という学習者の問いを棚上げし後回しにした個々ばらばらの知識を覚えることに終始する例が多い。

 よくしたもので、学習者もそうした勉強に慣らされてしまい、自ら問いを発してそこから帰納的にものごとの核をつかみだしたり、さらには演
繹的に活用したりすることのおもしろさを味わったり、そうした力を発揮しつつ伸ばすことよりも、教えてもらって覚えることの方が手っ取り早く
楽な近道だと感じ、それが勉強であると思っている例が多いように思われる。

 これでは応用の効かない、その意味では真に自らの血となり肉となる知性を身につける学習とはなり得ないであろう。学ぶことのおもしろさを味わい、その意味を実感するには、「なぜそう言えるのか」を問い、その根を帰納的に探り、他の例にも適用可能であるということを手応えをもって感じることがまずもって大事なのだ。

 そんなことを話していた折もおり、読売新聞のコラム「学びの時評」で語り部の平野啓子氏が次のように論じている文章に出会った。
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   真似をすることが芸の基本だといわれる。私が取り組む物語の「語り」も、初心者のうちは上手な人の語りロを、何の疑問も持たずに
   ひたすら真似る。
     〜略〜
   ただ、いつまでもこの方法をとると、新しい作品に取り組むときに、常に誰かの模範口誦がないと完成させられなくなってしまう。
   つまり、マニュアルが無いとできなくなるのだ。

   一方、真似しながらも、なぜ師匠や先輩はここで大きな間を取ったのだろう。なぜうたい上げたのか。
   なぜ…を繰り返すうちに文体の特徴に気づくほか、作品の心、作者の気持ち、さらに日本語の歴史や特質にまで目が向いてくる。

   こうして、ひとたび根っこを見つめると、全く初めての作品と出合っても、不思議と最初から自分で作り上げる努力をする。
   この過程でノウハウを発見し、作品への対応力が培われるのだ。古典、昔話、現代小説など、どんな作品であれ。
     〜略〜
   かつて、私が師匠の語り口をなぞるたびに、師匠から「真似をしちゃだめ。私の亜流になってしまうから」と言われた。
   それでも、師匠の語り口を求め続けていたと思うが、自分で考えるチャンスを与えて下さったお陰で足腰が強くなったような気がする。

   物事の原点から自分で何かを発見し作り上げる積み重ねは、苦しいけれど、やがて大きな喜びをもたらし、どんな困難も乗り越える力、
   知恵や勇気、信念となって体内に蓄積されていくのではないか。そこから、日本が誇る素晴らしい上質なものが生まれるような気がして   ならない。 (読売新聞 2004.5.10)
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 学校での「学び」を考える上で、示唆に富んだ文章であると強く思われる。



◆「ニート」について〜雑感〜◆
 フリーターと呼ばれる若者が増加の一途だという。
 しかし、フリーターは「働く意志」を持っている。定職に就かないだけの話なのだ。
 近年は、その「働く意志」さえ持ち合わせない若者が増えつつあるのだそうだ。
 ニート(Not In Education,Employment,Training)と呼ばれる若者たちである。
 つまり、長期にわたって教育にも職業にも訓練にも属さない若者たちのことであり、そうした若者が先進諸国で急増しつつあるのだという。

 日本では一方で、パラサイト・シングルという問題も指摘されて久しい。
 パラサイト・シングルとは、もともと寄生虫を指す言葉が転じて「食客,居候」などの意味で使われる「パラサイト」に、独身を意味する「シン
グル」を付け加えたものである。これは未婚(シングル)の若者がいつまでも親に寄生していて,自立しない現象を指しているが、これは定職
についているか、無職であるかといったことと無関係である。
一流企業に勤めていたり,官庁づとめや大学の先生の中にだってパラサイト・シングルはいるかも知れないからし、実際いるであろう。

 『パラサイト・シングル』と『フリーター』は定義が別であり、重なる部分と異なる部分があるのは当然のことである。フリーターだが親には寄生
していない人もいるであろう。
「フリーター」は約400万人だと言うが、問題はニートである。

 考えるに、現代社会は定職に就かずとも、多くを望まなければそこそこ生活していけてしまう社会なのだ。
 あくせくせずとも週に数日アルバイトで働けば、何とかなってしまう時代なのだ。それがフリーターを出現させ、増加させてきた最大の要因で
あろう。
 加えて不景気だとは言いながらも親が子の面倒を見るだけの経済的なゆとりを持っているのである。
 そうした環境がニートを出現させたのであろう。

 あくせく働かず、親のすねをかじって生きていけるのは結構なことのようにも見えるが、親が子の面倒を見ていられるうちはそれで良い。
 しかし、いずれ親も年をとる。
 若者もいつまでも若くはない。
 いつまでも親の傘の下で寄生していることなどできないのだ。

 そうした働くことを知らない世代や自立できない世代が社会を担う時代が来たときにこの世界はどうなってしまうのか。
 自立しようとする意志も働く意志も持ち合わせない若者の出現は、先進諸国の大きな問題の一つであり、日本でもその兆しが窺えるという。
 
 親のもっとも大きな役目は、子どもを自立に向かわせることであろう。
 自分の足で立って歩き、自分の力で自分の世界を切り拓き、自分を取り巻く社会の仕組みの中で他と協調しながら堂々と生きていこうとす
る子どもに育てるのが親の役目である。
 そのためには、親としての厳しさを持つことも覚悟しなければならないのである。
 子どもにとって辛いことを指摘することも、いずれ自分の手を離れたときに自力で立って歩けることを願うからなのだ。

 自分の衣の袖で子どもをかばい、何でもしてやり、甘やかし、放任し、挙げ句の果てには、我が子は自分の所有物ででもあるかのような親
の振るまいが、そうしたニートの出現に拍車をかけているのではないかと思われてならないのである。
 そうして育てられた自立できない人々が社会の主役になったとき、一番困るのは当人たちではないか。
 当人たちのためにも、責任ある社会の一員としての自覚を持った「おとな」になれるよう親が「親になる努力」を惜しんではならないのではないだろうか。



自立した学び手を育てるために
 私たちは、これまで「教えるプロ」としての教師像を追い求めてた。
 教え方の上手な先生になることが夢で、そのテクニックを身につけようと先輩の授業を盗み見たり、真似しようとしたりしたものである。
 そのような「教え方の技術(ワザ・テクニック)」も大事なことに違いないが、子ども自身が自分の力と意志・意欲で学びを創りあげていこうとする
授業を構成するには、もっと大切な何かがあると気がついたのは、教師生活を10年以上経た後だった。
 ことにこれからの教育に求められる「生涯学習社会で自立した学び手」として生き生きとたくましく学びを展開していける人間、つまり学校を離
れたときに答えの見えない問いに主体的に向き合っていこうとする人間を育てるには、「教えられて習うことに慣れた子ども」ではなく、自分の問
いに自分の持つあらゆる智恵と手段を発揮して立ち向かうことを楽しめるような「学ぶ力を持った子ども」に育てることがますます重要になるであ
ろう。
 
 一人の教師があらゆる分野の知識や技術を豊富に持っている専門家として、子どもの本質へと向かう鋭い追究に応えることはとうてい不可能
だ。そこで、それぞれの教師が得意な分野を受け持ってチームを組んで指導にあたれば、子どものさまざまな問いに応えられるであろう、という
T・T(チーム・ティーチング)に対するとらえがあるが、そうとらえてしまっては子どもの問いの数だけ専門的な知識を持った教師の数が必要にな
ってしまうであろう。
 それはT・Tの本来の姿ではないし、教師はそのような単に「教える存在」ではないはずである。
 教師は、自らが「学ぶ主体」として、納得のいく解を求めて探ったり調べたりつくったりすることをおもしろがれる存在として子どもの前に立つこ
と、そしてその姿をもって子どもを「学ぶことの楽しさ」に誘うこと、『こんなおもしろい世界があるぞ』と身をもって示すことでその機能を発揮すべ
きなのだ。

 その意味では「学びのコーディネーター」としてカリキュラムをつくっていける教師、その「学びの姿」に憧れられる教師が求められていると言っ
ても良い。
 橋勝(横浜国大教授)もフランスの哲学者R・ジラールの
三者関係論を引用して次のように指摘する。
********************************************************************************
 
生徒にとって教師とは、知識への媒介者であって、知識の所有者ではない。
  〜略〜
 模倣者(生徒)は、手本(教師)を模倣するのではなく、手本の欲望する
 世界に惹かれて、それを欲望するようになるのである。
  〜略〜
 ここでは、欲望の模倣ということが決定的になる。

********************************************************************************
 また、斎藤孝(明大教授)も
『学ぶことは他者のあこがれにあこがれることである』と主張している。(「子どもに伝えたい〈三つの力〉」NHKブックス)
 私は以前から「指導技術偏重」に潜む危険性を指摘してきた。
 子どもたちに「学ぶことの意味」や「学ぶことのおもしろさ」を実感としてわかってもらうためには、指導技術をもってではなく「学ぶ主体」として子
どもの前に立つことこそが重要なのだ。

 そこで思い出されるのは、吉田松陰である。
 何と言っても、松陰の「師」としての鮮烈な影響力の秘密はその人柄にあるのではないか、と種々の書籍を読むたびに思わされる。
 有名な話だが、彼が野山獄に投獄されたときも、同獄の人々がことごとく彼を慕い、ことごとく改心したと言われている。
 ある囚人に対しては、『君はどうやら書がうまい。我々は君を師匠にして書を学ぼうではないか。』と他の囚人たちに提案し、自ら座を下がってそ
の囚人を師として遇したと伝えられているし、俳句の得意な囚人がいれば、松陰は皆を説いてその囚人の弟子になり進んで教わったという話も
残されている。凶悪犯であっても、師匠に立てられた以上は凛然として師匠の気分になり、自分の長所を発見されたうれしさから懸命に講義に取
り組んだことは想像に難くない。
 そして、松陰自身は『自分にはあなたがたのような芸がないから』と言って、孟子を講義したと言われている。
 このように松陰は、(身分差別のやかましい時代であることを考え合わせると驚くほどに)人間をどこまでも平等なものとしてとらえていたようだ
が、この階級差別感のなさは松陰自身の人間に対する親切さと優しさに根づいているように思われる。
 松陰が学問の家系に生まれ、幼いときから評判の秀才であり、12・3才にしてすでに藩士の前で講義をするほどの実力の持ち主であることを
考えると、その隔てのなさは驚嘆に価する。どうやら松陰は現代風な言い方をすれば、誰に対しても平等にGentle(親切で優しい)に接すること
のできる、まさに「紳士(=Gentleman)」だったのではないかと思わざるを得ない。
そのGentleな態度が囚人をすら感奮させたのではないだろうか。
松下村塾に集まった弟子たちが奮い立たないはずはない。

 実際に松陰が松下村塾で弟子たちに指導をしたのは、3年に満たない短い期間だと言われているが、その短期間に松陰の影響を受けた弟子
たちが彼の死後、日本を回天させる原動力になったことを考えるとその影響力の大きさに驚かされるばかりである。
 松下村塾の塾生たちが起こした異様なばかりの昂揚は、松陰の優しさと親切によるばかいではない。塾生一人ひとりの資質を見抜く洞察眼の
鋭さがなければ、久坂玄瑞や高杉晋作といった上級武士はもとより、伊藤俊介などの足軽のような軽輩である塾生たちも自分の隠された力につ
いて気づくことなどできず、奮い立つこともなかったに違いない。
 松陰の眼を通して見ると、塾生の誰もが尋常一様の者ではなく、ある者は天才であり、ある者は不抜の義士であり、またある者は百世に一人と
いう烈士である、といった具合で、師としての松陰から指摘されてみればますますそのようになってしまう(そうなろうとしてしまう)というのが村塾
の雰囲気だったようだ。
松陰の不思議さと魅力はそこにあるが、その魅力は、弟子を「動かそう」としてそうしたのではなく、彼自身が真っ先に動こうとし、事実動いて結局
は『かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂』という感想に表されているように、自ら進んでその志操と思想に殉じたことにあ
るのではないか。
こういう師に接していては、弟子たちも尋常ではいられなくなるだろう。
 そう書いてしまうと一種のアジテータ(煽動家)のように受け取られかねないが、松陰の精神は人を煽動しようとするような、がらの悪い、下卑た
ものではなく、松陰にとっては、他人が動こうが動くまいがそんなことは問題ではなく、すべては自分の問題であり『自分はどうすべきか』といった
ことしか頭になかったもののようで、それが却って「人を動かす」隠れた力になっていたように思われる。

 どうやら松陰という人は、人々がその「人格的な魅力と機微」に触れた途端に走り出したくなってしまうような、そんな人であったようだ。
 私たちは、29才という若さで死んでしまったこの天才を真似ることなどできそうもないが、少なくても『どうして人々が(やむにやまれず)走り出し
てしまったか』ということについて、あるいは『(松陰の)何が人々を動かしたか』ということいついて考えてみる価値はあるだろうと思われる。

 「教える」ことによってではなく、自らの生き方を「示す」ことで、人々が自ら動き出したくなってしまうというのは、師としての最も望ましいあり方で
あると思われるし、今求められている教師像につながるものであると思われてならないからだ。
 どうやら松陰は私自身の「憧れの教師像」で、そうなれないことは痛いほどにわかっていても幾分でも近づいていけるようにと願っている「心の師」なのかも知れない。




教育の目的
 よく散歩をする道路に、どういうわけかゴミが目立つようになった。スナック菓子の袋やら缶コーヒーの空き缶などが、そこがゴミ捨て場でないこと
は明らかであるにもかかわらず投げ捨てられているのである。想像するに、菓子を食べながら、あるいは缶コーヒーを飲みながらそこを通りかかっ
た人が、空になった袋や缶をそこに投げ捨てていったと思われる。そうした行為をする人たちは、ゴミ捨て場ではない道ばたにそれらを投げ捨てる
ことに何の抵抗も感じないのだろうか。
  ゴミ捨て場と言えば、高速道路のサービスエリア内に設けられたゴミ箱に、自宅で出たゴミをわざわざ持ち込んで捨てていく人も多いと聞く。
迷惑な話である。

 人や社会に迷惑をかけても、それを迷惑と感じない人が増えたということなのだろうか。
 ある行為が他人(あるいは社会)に迷惑をかけるかも知れぬと感じる想像力や洞察力が欠けているとすれば、そうした行為にブレーキがかかるこ
とはあるまい。
 そういう人たちの口から『迷惑をかけなければ何をしてもいいだろう』などという言葉が聞かれるに至っては、何をか言わんやである。
 
 教育論議が盛んである。それは学力低下論者の著す「学力低下を防ぐため」「有名校にパスするため」のハウツーもののたぐいの本がよく書店
の棚をにぎわしていることからもよく窺える。そうした書籍が本当の意味で学力や教育についての考察をもとにそれらについて論じているかどうか
は別として、教育がこれほど注目された時代はなかったのではないだろうか。
 しかし、教育は学校教育だけでなされる作用ではない。
 また学校教育の目的もテストが終われば忘れてしまってもよいということを前提にしたかのようにものごとを一時的に記憶させることにあるので
はない。
 教育とは人間としてあるためのバックボーンを培う作用なのだ。

 高校や大学でほとんどの子女が学んでいるにもかかわらず、市民として成長することがなければその「人間としてのバックボーン」は育っておら
ず、教育の目的は達せられなかったと言っても過言ではあるまい。
 街中や電車の中など公共の場で他人に迷惑がかかるような行為を平然としてしまうような人間を育ててしまったとすれば、それは教育に何らか
の落ち度があったと言わざるを得まい。そしてそれは、繰り返すが学校教育のみにその責を負わせるべきことではない。
 教育は家庭・社会・学校という子どもの生活環境すべてがその責を負うべきことがらだからである。

 ところで、北海道大学で学び、直接の出会いはなかったにせよクラーク博士の建学の精神を色濃く受け継いだ内村鑑三と新渡戸稲造は、後に
優れた日本論を著している。
 新渡戸はアメリカで日本と日本人を紹介しようとして著した書物(後に日本語に訳され「武士道」という名で逆輸入されることになる)の中で、『武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり』、また『教育の主目的は・・・・品性の確立にあった』として社会の中に生きる自立した人間の根幹に「品性の確立」があるとし、それが教育の主たる目的だとしている。
 また、内村はほぼ同じ時期に「Japan & Japanese」と題するエッセイを著し、こちらは「代表的日本人」という邦訳名で日本に逆輸入されている。その中で内村は中江藤樹を紹介し、彼が「徳を修めることを最も重視し、それは素朴な村人たちの間にも浸透していた」としている。
 「徳」や「品性」という側面から教育について考えると、日本の教育いや現在の日本人に最も欠けているのはそれらではないか。知識や技術を教えることに傾く余り「生き方」について考える機会として教育をとらえることが希薄だったのではないだろうか。

 こう書いたからといって、徳目を重視して教条的にそれらを教える道徳教育に力を注ぐべきだと言っているのではない。知識や技術を学ぶにして
も、それが「生き方」に、人間としての成長につながらなければ学ぶ意味はないのである。
 自然や人間、社会の仕組みやものごとの成り立ちの不思議と見事さに触れ、感動し、見きわめようとするとき、人は自分自身の「在り方」について
関心を持ち自ずと考えさせられる。考え、実践し、つまずいたり成功したりする中で自己を振り返り確かめ、人は成長していくのである。
 考えることを抜きにした教育は教育とは言えない。それは訓練あるいは調教でしかない。

 「学校」の文字は、「学=学ぶ」と「校=かむがう(考える)」の二つの文字から成り立っており、まさに「まなんでかんがえる」場であり、決して「教え
られて習う」場所ではない。知識や技術あるいはその先にある「どう生きるか」について「かんがえる」ことの希薄な教育を社会全体で推し進めてし
まったことのツケが今の混沌とした社会を現出させてしまったことをまず反省しなければなるまい。
 子どもたちの学習意欲が減退してしまったことも、ニートの増加の問題にしても、モラルの欠如の問題にしても、それらは子どもの問題ではなく、
そうさせてしまっている社会の問題なのである。子どもの「よりよく生きよう」「よりよく生きたい」という気持ちを萎えさせてしまうような何かが大人社
会にあることこそが問題であることに気づくべきであり、「教育」はそこから出発しなければならないと痛感させられる。
 




読解力低下の報道に接して
 経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査の結果が公表され、報道では一斉に「読解力の低下」を問題として取り上げた。
 文部科学省は、読解力の低下を「読書量が落ちていること」「自分の意見を述べたり書いたりする授業の不足」に原因があるとしているようだ。
 その改善のために早急に指導資料をつくり、「朝の読書」の一層の拡大を促すという。
 そのような短絡的で対処療法的な対策で何か解決するのであろうか。

 読書を促すのは決して悪くはない。
 しかし子どもの立場に立ってみれば、「朝の読書の時間」を設定され、「さあ本を読みましょう」と言われて始業前の短い時間に読書をしたところで、
「進んで本に接しよう」とか「文章の機微を味わおう」という心持ちになれるかどうか疑わしいものがある。
 そのような思いつきにも似た、お手軽かつ強制的な読書が果たして読解力を培うことにつながるかどうか、もっと読書そのものについて根本から
見つめる必要があるのではないか。

 ついつい本に手が伸びてしまうのは「ものがたりのおもしろさ」に心をときめかせ「もっと先を知りたい」という気持ちがベースにあるからだろう。
ということは、子どもたちがそうした気持ちになれるような働きかけがまず何よりも肝要だということではないか。
 子どもたちは活字を通してストーリーの展開や登場人物の心の動き、文章のおもしろさを味わう力を持ち合わせていないわけではない。
あれだけ分厚い「ハリー・ポッター」を多くの子どもが心をわくわくさせて読了しているという事実がその何よりの証であろう。

 読書の欲求は何よりも物語の展開や論理の展開のおもしろさに心をわくわくさせてしまうことによって生じる。
だからこそ次のページをついつい繰ってしまうのである。
そうした心の動きを生むベースは「読み聞かせ」や「読み語り」(「語り」も含めて)にあるのではないか。
『お話聞かせて』とせがむ子どもの心は今も昔も同じであろう。
まずは親が、そして先生が子どもに語りかけることから始めるべきであろう。

 「物語り」を聞くことで子どもが想像力を働かせ、心を弾ませたり喜んだり悲しんだりすることは文字を通して未知の世界に触れる入り口となる。
そうしたことの積み重ねが知らず知らずのうちに行間の向こうにある何事かを推し量ったり読み解いたりする力、すなわち読解力の陶冶につながる
のであろう。
 そう考えてみると読解力とは、いわば読書活動の第一義の目的ではなく、副産物とでもいうべきものではないか。読書の第一義は、子どもにとって
何よりも「物語のおもしろさ」や「お話のおもしろさ」を味わい楽しむことなのである。
読解力が落ちていると思われるから読解力を身につけよう、そのためにこれから本をたくさん読みましょう、と言われて読書の楽しさを味わえるもの
ではない。
ましてそのような読書活動を通して読解力が本物の力として身につくなどということは期待できそうもない。

 入試の長文読解にはあるテクニックとコツがある。長文を最初から最後まで丹念に読み、設問に答えるようでは入試で合格点を取ることは難しい。
逆に言えば、テストで長文読解に正解を出せたからと言って、読解力に優れているとは決して言えないのである。
そんな力とも言えない力を手っ取り早く求めようとしているのなら別だが、本当に読書の楽しさを知ってもらおうとするなら、このような短絡的な対策
は出てこないはずである。
安易な方策は却って子どもたちを本から遠ざけてしまうのではないだろうか。
                                                                                   2004.12.13



「ステージに向かう音楽」と「場の音楽」
 音楽活動には2面性がある、と私は考えている。
 一つの側面は、ステージで発表することを意識した音楽活動、強いて名付ければ「ステージに向かう音楽」であり、もう一つの側面は、無目的にその場で楽しもうとする音楽活動、いわば「場の音楽」とでも言うべき性格の音楽活動である。

 音楽教師をしていると、音楽活動を考える時どうしても前者の側面にだけ目が向きがちであり、公式の場などの大きなものからクラスの中などの
小さな発表の場まで含めて、ステージ上で聴衆を前にして表現することを目的とした活動として音楽の活動や学習を考えがちである。
 そうした目的的な活動こそが表現しようとする強い動機付けになるはずだし、そうした動機付けに支えられてこそよりよい表現を求めて問い続ける
ことが可能になると固く信じ込んでいるからであるし、音楽するということは誰かに聴いてもらうことを前提としたものだと漠然ととらえているからでも
ある。
 確かに誰かに聴いてもらおう、誰かに伝えようとするからこそ、自分(あるいは自分たち)の表現をモニタリングし『こうしてみたらどうか』、『これでは
どうか』、『これでわかってもらえるか』と問いを発しながら「めざす表現」に近づこうとできるのであろう。
しかし、そうした目的(ステージ上で発表すること)を持たない音楽活動があることも見逃せないし、そうした活動が決して無意味なものではないこと
も事実である。

 家族でアンサンブルをして楽しむ、散歩をしながら歌を口ずさむ、一人でピアノなどの楽器を演奏して楽しむ、親子であるいは友だちと輪唱して遊
ぶ等々、いずれをとっても音楽の楽しみの重要な側面である。
 夕焼け空を見ながら親子で手をつないで「夕やけこやけで日が暮れて〜」と歌う姿と、誰に聴いてもらうでもないその歌からは親子の夕焼け空の
美しさへの共感のこもった生きた歌声と夕景の美しさを味わっている様子が想像される。
 学校からの帰り道、知っている限りの曲をリコーダーで吹きながら歩く姿からは、音楽と同化してまさに音と戯れ、一体化している様子が窺える。

 これらはすべて無目的な音楽活動である。無目的だから夢中にもなれる。時間の経つのも忘れて没頭してしまうことも予想される。
 私の家のはす向かいに建つ家には小学生の兄弟がいる。二人とも野球が大好きである。
休日ともなると二人でよく家の前の道路に出てきてキャッチボールをする。試合に出るため、あるいは試合で勝つための練習としてのそれではなく、
単に遊びとしてするのである。それでも声をかけ合って文字通り一生懸命遊ぶ。兄弟のうちどちらかが何かの具合で欠けると、ブロック塀に向かっ
て一人でボールを投げて的当て遊びのようなことを何時間も飽きずにしている。

 キャッチボールをするにしても的当てをするにしても、「今度はうまくいった」「思い通りに投げられた」「うまくボールをキャッチできた」などと知らず
知らずのうちに自己評価しながらしているのであろう。だからこそ飽くことなく何度でも挑戦するように無心で遊べるのだろう。
 この例に見るようにスポーツには「試合に向かうスポーツ」だけではなく「場のスポーツ」の姿があるように、音楽にも「ステージに向かう音楽」だけではなく「場の音楽」があると、思うのである。

 それはいわばスポーツや音楽を「PLAY」すること、すなわち「遊び」であり、その場で深く楽しむ姿として現れる側面である。
 そして、私はそうした「遊び」の中でこそ、そして無目的な「遊び」だからこそ、修行や訓練、あるいは誰かに指示されてする練習では得られないで
あろう大切な能力や資質が知らず知らずのうちに結果として身についていくのではないかと考えている。

 柳生力も次のように指摘している。
   目的をもって遊びを行なおうとするとき、遊びは失われてしまうであろう。
   遊びの夢中と無心と真面目がもたらす結果の大きさに着目すべきである。
                            『感受性はどこへ』音楽之友社

 私たちは、いたずらに発表をめざした活動という視点からのみ音楽の学習を仕組むのではなく、音楽にはそうした側面もあるということを認識し直
し、そうした視点に立って学習活動を仕組むこともこれからは重要になるであろう。
                             
                                                                                  2005年1月9日




「総合的な学習の時間」の見直し?
 今日の新聞は各紙第一面のトップに「総合的な学習の時間見直し・削減」記事が掲載していた。
 中山文部科学省が学力低下に歯止めをかけるために国語・数学などの主要教科の授業時間を確保し、併せて体験重視の総合的な学習の時間を
削減したい旨の発言をしたためだ。

 文部科学省大臣とはいえ、教育の専門職でも教育の研究職でもない一介の国会議員が、教育のありようについて思いつきで重大な発言をし、それ
がトップダウンで指導要領の見直しにまでつながるようでは、教育改革は頓挫をきたすであろう。
大臣としてあまりにも責任感がなさすぎはしないか。

 総合的な学習については、よく指摘されるように思ったような効果をあげていない学校も多いが、全国的に見れば着実にその効果を上げている学校
の実践例もまた多い。そうした学校では地道に実践と研究を積み重ね、「子どもにとってみのりある学習とは何か」という考察と研修をベースに子ども
の主体的な学習の姿を見事に具現化しているのである。

 逆に言えば、総合的な学習は一朝一夕に成果を見ることができないということであり、真摯な研修と考察を経なければ「何をしてよいかわからない」
「どうしてよいかわからない」状態に陥ってしまうのは当然のことなのだ。
すなわち、効果が上げられないのは「学習とは何か」「みのりある学習とはどういうことか」などということがらについて研究したり実践したりしながら
自家薬籠中のものと出来なかったことによるのだ。
ものの見方・考え方・取り組み方を育てよう、つまり「学ぶ力」を育てようとしているのにもかかわらず学校の教師にそうした経験が不足しているのでは
ないか。

 教えてもらったことを習い覚え、試験で合格点を採ればそれでよしとされた時代に育ち、自分の力で探り・調べ・確かめることで知の世界を広げたり
自分を拓いたりする経験がもしなければ、総合的な学習の意味やおもしろさなど到底伝えることもできないであろうし、そうした場を子どもたちに準備
し提供することなど不可能であろう。

 子どもにとっても教師にとっても「正解の書かれた教科書」「道筋の書かれた教科書」など存在しないのが総合的な学習だからだ。そしてまた、その
正解のないところに総合的な学習のおもしろさと意味があるのだ。教科書に書かれたことを覚えるのが学習だと信じてきた向きには(おそらく今回の
発言をした文科省大臣もそのお一人であろう)、人間の日常的な学びの場面では教科書に書かれていない(正解がない、もしくはないかも知れない)
事態と環境の中で、手探りで自分にとって意味のある解もしくは環境にとってよりよいと思われる解をつくりあげる過程で知の体系を築き上げることの
方が多い、ということをご存知ないのであろう。

 そして、そのように手探りで導き出され身につけた知恵は容易なことでは綻ばない。
また自分にとっての意味を棚上げして「覚えた」だけの知識は、不安定でいつ忘れられても不思議ではない。
試験という関門を過ぎればもう不必要な知識として体系から放出されてしまっても痛痒を感じないからである。
そうした不安定な知識を身につけさせることが「学力を高める」ということなのか。

 また「学力不足」とか「学力低下」というが、そう発言する人に限って「学力とは何か」ということについてきちんと論じていない傾向がある。
ある指導方法で実践したところ、単に計算が速くなったとか覚える力がついたとか試験でよい得点がとれるようになったとか、そのような次元でしか
「学力」について述べていないのである。それが生きて働く力としての「学力」なのだろうか。それが「学ぶ力」なのだろうか。
 このような次元の低い議論に引きずられて教育改革がその道半ばで頓挫してしまうのは何としても惜しい。
 一介の国会議員の発言に左右されず文部科学省が毅然として改革を推し進めて欲しいところである。
              
                                                                                     2004.1.19




「ゆとり教育」?は失敗か
 このところの学校教育に対する世論の動きを見ると、「このまま生活科や総合的な学習を柱としたゆとり教育を続けていては、学力低下は進むばかり
だ。もっと昔のように教科教育に力を入れなければ日本の将来は危うい」といった主張が目立つ。
 こうした主張を目にするにつけ、二重・三重の意味で学校教育に対する理解の低さを感じ、暗澹たる思いを抱かざるを得ない。

2002年から実施された新しい形の教育を「ゆとり教育」と名付けもてはやしたのは、現在学力低下について指摘し教育改革の動きを押しとどめ逆行させ
ようとしているマスコミそのものではなかったか。
 文部科学省の肩を持つわけではないが、指導要領では「ゆとり教育」などという言葉をどこでも使ってはいない。「ゆとりの中で生きる力を」と謳ってい
るだけで、そこで言われている「ゆとり」は「のんびり・ゆっくり」学習すればよいという意味合いでの表現ではないはずだ。
答えを急ぐ余り、学習者の意志や意欲、関心を棚上げし、じっくりと考える時間を取り上げ、とにもかくにも「覚えればよい」「できればよい」とした学習観、
極論すれば受験に対応できる力こそが学力であるといった学力観をベースにした学習観について反省し、より根源的な「学ぶ力」や「学ぼうとする力」を
重視して教育活動を展開しようという動きが、この教育改革の通奏低音としてあったはずだ。
 ところが、マスコミはこれを安易な解釈で「ゆとり教育」と名付け位置づけ、それが世の誤解をいっそう促進したことについてまず自己反省しなければならないのではないか。

 「ゆとり」とは、誤解されているように「のんびり」「ゆっくり」時間をかけて活動できるようにすることだ、といった浅薄なとらえとは無縁なものなのだ。
 それは一つには「答えを出すこと」を急がないということ。
 そしてもう一つには「我を忘れて無我夢中で」取り組めるようにすること。
 同じ長さの時間でも、人によってあるいはしていることによって比重が異なることを私たちは経験的に知っている。退屈な時間は長く感じられ、何事か
に熱中している時間や楽しい時間は短く感じられるということは、日常よく経験しているからである。
 私たちが学ぶためには、モノゴトに目をこらし、それとの新たな出会いを心の中で熟成する時間が必要で、この「間(ま)」の中で、じっくりと私たちは考
え、対象をイメージし、疑問や解決の糸口を見いだしたりしているはずである。答えを出すことに急ぐあまり「間」を軽視してしまうと「おもしろい追求」「意
味のある追求」としての「学び」は起きにくいし、当然主体的で意味のある学習とはなりにくいのである。

 しかもその「間」は物理的な時間の長さを意味しないことは周知の通りだ。
 短い時間であっても、自分にとって意味があり関心事であることに出会ったときには、それが充実した「問いの時間」になることを考えると、ありあまる
ほどの時間を準備することが「ゆとり」を生み出すとは到底思えない。「ゆとり」とは、熱中し集中できるような環境から生まれるものなのだ。
 このように「ゆとり」は「ゆるみ」とはまったく無縁なものであるにもかかわらず、どこでどう勘違いをしたものか、単に時間を与えればよいのかとか、学
習内容を削減すればよいのかといった次元でしか論じられていないのは、浅薄で安易な理解しかなされていないのではないかと思われてならないので
ある。
 つまり今回の教育改革を名指して「ゆとり教育」と呼ぶこと自体が大きな間違いであり、そうした曲解をもとに現在進行中の教育改革を論ずるのも間違
いなのだ。それが第一の指摘である。
 しかもこの状況がやっかいなことは、そうした曲解を下敷きに教育について考えようとしている人々が、一般社会のみならず、学校現場にも多数いると
いうことである。
 子どもの主体性を尊重するのだから、積極的に指導することを避けようとしたり、子どもの興味・関心が高まるのを手をこまねいて待とうとしたり、逆に
「○○メソッド」などの単なる指導法レベルに論議の次元を低め、それがまたもてはやされるという、教育の理念や理想、あるいは目的はどこへ行ったか
と思われるような状況が見て取れるからである。

 さらに、学校教育に対する社会の性急な期待が二つ目の指摘である。
 よきにつけ悪しきにつけ、教育の効果は一朝一夕に目に見えて出てくるものではない。 この教育改革の本当の効果がもたらされるには、もう数年か
かるはずだ。
ましてや、生涯学習社会に生きて働く力の育成をめざした今次の改革で、それが本当に生きて働く力となったかどうかは、現在小中学校で学ぶ子ども
たちが自分の足で立ち、社会に出て行ってからでなければ見えてこないはずのものである。
学ぶ力の育成をめざした今次の改革と学力の低下についての関係について結論を出すことは今の時点ではできないはずである。(学校と社会が「改革
のめざした意義」について十分な理解ができ、その方向に向かっていたとしても、である)
 学力低下を叫ぶ人間は、紙の上に書かれた問題(それはもともとただ一つの正解がある問題である)にどれだけ正しい回答を書けるかが学力を測る
モノサシだ、としている。

 しかし、これからの予測不可能で解決困難な問題が出来するであろうと思われる社会にあっては、どこにも正解などは見つかりそうもない。そうした中
で、よりよいと思われる解を見いだしたりつくりあげたりするときに発揮される力は、先生が後ろに隠し持っている唯一の正解を探り出すことの出来る力、
試験が終われば忘れてしまっても差し支えのない些末な知識とは別の「学ぶ力」「考える力」であり、「よさ」に向かって邁進し続けようとする「意志」「意
欲」などであろう。
 そうした力や構えは、一夜漬けのように身につくものではない。幾度ものトライ&エラーを繰り返し、こつこつと課題の解決に向かって努力する中で身
につくものなのだ。

 何を教育の理念として掲げ、そのために何をしていけばよいかの議論を脇に押しやり、単に計算能力が世界で何位に落ちてしまったからといって、そ
れを学力低下とみなすこと、それも安易に過ぎはしないか。そうした力を本当の学力と呼んで崇め奉ってよいかどうかも議論のわかれるところであろう。
 先日の読売新聞の投書欄「気流」に次のような記事を見つけた。投書主は、千葉県在住の会社経営者である。(読売新聞 2005.3.3)
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 私は高校卒業後「金型加工の技能工として勤務しました。その後、腕を磨いて独立し、小さいながらも会社の経営者となりました。
現在、十数人の社員を雇用し、日本の「もの作り立国」の基盤を支えています。
 私は、学校時代は成績が悪く、学力のないダメな生徒とされてきました。しかし、早くから技能を磨き、経営者となることを夢見て努力してきました。
 本来、社会や人生において、勉学や学力は多種多様なものだと思います。人間には様々な能力や個性、目的があり、社会も多様な人材を必要としています。しかし、文部科学省や教育界の関係者は、点数的価値観ばかり重視し、人間や社会に対して大変狭い考えしか持っていないように思えます。
 私の経験に照らし、勉学の目的とは、良い点数を取ることではないと断言できます。勉学とは、社会に貢献できる人間になるため、問題解決力や創造力、人間性を育成することだと思います。
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 こうした自信に満ちた声に謙虚に耳を傾けなければ、それこそ日本の将来は危ぶまれる。
 そもそも、人間は過去の失敗を踏まえて今を見直し、その都度方途や方策について検討・修正し、望ましい方向をめざして進んできたはずだ。しかし、反省が行きすぎて、以前と同じ場所にまで逆戻りしてしまうことはどうしても避けなければならない。
 受験勉強こそ「学習だ」とする人々は、本当に受験勉強のおかげで自分が幸せになり、併せて社会の人々も幸せになれたと思っているのだろうか。
一握りの自分は競争に競り勝った勝ち組の人間だと思いこんでいる人間のために多くの人々が苦しみと憤りを感じながら貢いでいるような(そのよい例
が社会保険庁であり、日本道路公団である)状況が本当によい状況と胸を張って言えるのだろうか。
気は確かか?と言いたくなるような論調が世を覆っている。

 「殺人」「振り込め詐欺」「ニートの増加」「少子高齢化」等々、目を覆いたくなるような問題山積の日本社会である。こうした中で教育の果たす役割は当
然重要であるが、それは学校教育のみならず社会全体に突きつけられた問題であることを私たちはもっと深く強く認識しなければなるまい。安易で浅薄
な学力論に惑わされず、子どもたちが将来を逞しく人間らしく生きていける人間に育つために、今私たちにできることは何か、どこに向かえばよいかの議
論を慎重にかつ真剣にしていくべきであろう。
そうした視点から教育改革を論じていかなければ、いずれまた腰の据わらない付け焼き刃の方向修正で教育を実践していくことになってしまい、また同様の失敗を繰り返し、そのツケが子どもに回されることになること必定である。




何とかしたい、学習意欲
 学力低下が叫ばれているが、その学力低下をもたらしている最大の要因は「学習意欲の低下」であろうと私は考えている。そのことについては、弊著「総
合学習時代の音楽科教育」の中で、またこの「評論」のページのあちこちで論じてきたつもりである。
 「生きること」と学習がますます乖離し、学ぶことに意味を見いだせなくなった子どもたちの学習意欲が衰えるのは火を見るより明らかである。学習意欲
が衰えれば、当然のことながら「学ぶ力」も発揮されず、ひいては「学んだ結果得た力」を測定してもよい結果をもたらさないであろう。

 昨日の各新聞は、日本・中国・アメリカの中・高校生の意識調査の報告を取り上げ、米・中国に対して日本の中・高生は「今が楽しければ」という享楽傾
向が強く、学校以外では勉強しないという割合も際だって高かったと報じている。(もう数年も前から他の調査で指摘されてきたことだからそれ自体も目新
しく驚くべきことではないのだが)
 それをあるテレビ局のニュースショーでは、「教育を何とかしなければ」という論調で声高に取り上げていた。そのニュースショーを見る限り、ここで言っ
ている「教育」は、どうやら「学校教育」のことであるらしい。しかし、「自分の将来が明るい」と希望が持てたり、「将来社会に出て役立つ人間になろう」と志
が持てたりして、そのために自分を成長させよう、そして最大限に自己を発揮しようという意志が持てるようになるには学校教育だけにその責任を負わせ
るべきではないと私は考えている。

 現在の日本社会を見て、子どもたちが将来に対して夢や希望が持てるだろうか。自分たちの将来は明るく輝いていると思えるだろうか。よさをめざして、
よりよい生き方を求めてがんばってみようという意欲が持てるだろうか。
 まっとうに生きる人々が穏やかで安心できる生活、生き甲斐のある生活、前向きで明るい生活をしていることを見せてやることが、何よりも子どもたちに
将来に対する期待や展望を獲得させることにつながるはずだ。期待や展望が持てるということは、知識として理解しわかるということではない。子どもたち
にそう実感してもらわなければならない。

 子どもたちが少なくても自分のよりよき成長のために努力しよう、がんばろうと思えるためには、そしてそこに「学ぶ意味」を見いだして学ぶ楽しさを味わ
いながら確かな学びを展開していくためには、学校や家庭だけではなく、日本社会全体が真に「よさ」の実現に向かって歩んでいる姿を展開して見せ、子
どもたちが自分も将来そうした社会の一員として貢献できるようになるのだという希望が感じられるようにする必要があるのだ。

 子どもの前でマネーゲームをして「楽に大金を手に入れる」場面を見せ、ときにそうしたことを賞賛したり、法に触れるようなきわどいことを大人が演じて
見せ、正直に生きることはばかばかしいことだとうそぶいてみたり、法に触れなければあるいは他人に迷惑をかけなければ何をやっても自由だと無言で社
会が教えたりしてはいないだろうか。
 連日のようにマスコミから流される情報の中には、大人にとってはおもしろおかしいかも知れないが、子どもにとっては「大人の社会とはこんなものか」と
いうことを学習してしまう悪しき機会になってしまうおそれのあるものが少なくないのだ。
 その結果、人間や社会に対する畏敬の念が持てなくなったり、自尊の感情が薄いにもかかわらず、「何とかなるさ」という根拠のない楽天的な感情を抱く
ようになったりしてしまい、ついにはとにもかくにも「今を楽しく生きていればよい」という刹那的な生き方に走ってしまう子どもたちが増えるのはやむを得な
いかも知れないのだ。

 そうしたことの責任を子どもに負わせたり、学校や家庭にのみ負わせたりするのは筋違いなのではないかと私は考えているのである。社会がより健全
な方向に動き出すことが何よりも大切で、そのことのみが子どもたちに積極的で前向きな意志・意欲を獲得してもらえる最良の環境たり得るのではないだ
ろうか。さらにそうしたことが学習への意欲を取り戻させる最短の道なのだということを私たち大人全員が再認識すべきなのではないだろうかと思われて
ならないのである。

 学力について論じる前に、学習意欲について論じることが必要で、学習意欲が持てるようにするために社会がどう変わればよいかについて論じ、その上
で社会が具体的に行動を起こさなければ子どもは本来の姿を取り戻せないであろう。もともと子どもは知りたがりで、したがりで、あらゆるものを好奇の目
で見、おそれを知らずに挑戦したがる存在なのだ。調査結果から現在の子どもたちを、意欲を後退させる何事かを「学んでしまった」「学ばされた」存在と
して見れば、社会の責任は大きいことがよくわかるであろう。




方法論からの脱却を
 書店の本棚を覗いて驚いた。広島県の校長をしているK氏の本が平積みになっているのだ。売れる、という証拠であろう。
 立ち読みで数ページ読んでみてさらに驚いた。目次の見出しに「本当の学力とは」とあるので、興味深くそのページをたどり、彼が「本当の学力」について
どのようにとらえ、どのように論じているのか、その論拠や検証はどのようなものか読み取ろうとしたのだが、そうした記述がどこにないのである。
 そこに書かれていたのは、もっぱら「新しい学力観」についてのネガティブな感想だけなのである。感想はもはや「論」とは言えない。
「私はこう思う」と思うのは勝手なのだが、何の根拠もなく(あるとすれば、教え子の多くを有名校に合格させたから、という受験指導の実績)、それを「本当
の」とあたかも種々の検証を通過した確たるもののように書き立てるのはいかがなものか。

  その項には次のような趣旨のことも書かれていていっそう驚かされた。
  『学校現場に影響を与えるのは、理念ではなく教育条件だ』、『一番問題なのは、教育を理念や思いだけで語ったこと』
  これらが新しい学力観批判と共に記されているということは、新しい学力観が単なる理念でしかなく、そのようなものは無用であるということが言いたい
のであろう。彼はどうやら具体に対する抽象、事実に対する思いといったものを「理念」と呼んでいるようである。
しかし、抽象や思いといったものは「理念」の形式上の一属性にしか過ぎない。それだけに着目して「理念」と規定することなどできないはずなのだが、彼
は大胆にもそう言い切り、教育の実践で最も大切にしなければならない「理念」を排除しようとしているかのようである。

  そうした姿勢が「本当の学力とは」と言いながら、まともにはっきりとした概念規定もせずに、従って本文のどこにも「本当の学力とは何か」についてまとまった記述もしない、多くの教え子を有名校に合格させたという経験をもとにした『これこそが教育』という「思いこみ」だけで考えを形成することにつながっ
ているのではないか。決定的なのは「何か」についての吟味がまったくなされていないことである。
  彼においては、理念を軽んじることと、「何か」の吟味を棚上げすることがリンクしているようである。
  理念を大切にしないから「本当の学力とは」と言いながら、その概念規定を明確にすることをしないのである。
  理念を大切にするなら、その理念と密接にかかわる「言葉」の概念規定は避けられないからだ。
  高久(筑波大名誉教授)は、『理念とは、「どうあるべきか、という最も根本的な考え方』であると言う。
  そうであるとすれば、なおさらその考えのベースとなる概念の定義を避けて通ることはできないはずなのだ。

  K氏は、「読み・書き・算」の力を基礎・基本ととらえているようであるが、学力の全体構造について考え、それを明確にし、「読み・書き・算」の力が学力
全体のどこにどんな形で位置づけられ、学力の他の諸要素とどう関連するかについて説明できなければ、それが「基礎・基本である」などと言えないはず
なのだが、理念を軽んじ概念規定を避ける姿勢からであろうか、そうした記述はどこにもない。

  「学力とは何か」という吟味も定義もせぬまま、彼は「読み・書き・算」の力を身につけさせることが肝要とばかり様々な指導方法のみを披瀝する。
「百マス計算」は巷間その最も有名なものである。それらを実践する主たる目的は、何と言っても受験に打ち勝つ力を育てることにあるようだ。唯一の答え
など見いだせそうもないこれからの変化の激しい社会に生きる子どもたちにとって、唯一の答えを覚え、ストックし、受験にパスすることがどれほどの意味
があるというのだろうか。
たとえ受験をパスしても、また不幸にも不成功に終わったからといって、その後の長い人生で成功者になるともならぬとも限らないのだ。

  少し前までは「記憶することが勉強であり、記憶量が学力である」とされていたし、社会もさほど変化の度合いも速さも激しくなかったので、それで済んで
いたかも知れない。しかしこれからはそうは行かない。物と情報に溢れ、難問山積のこれからの社会では覚えたことで対処できる保証はない。まして、生き
方の選択肢が増え、選択の自由も増大するであろうこれからの社会では、「どう生きるか」の裁量が大きくなり、否が応でも一人一人が人生のプランを設
計しつつ(設計し直しつつ)創造的に生きざるを得ない。レールを走るように、この上を走っていればある程度まで行けるという安心な基準がなくなり、生きる
ことが益々難しくなっていくであろう。

  かつて私たちは誰もがナイフを使って鉛筆をとぎ、鉈をふるって薪を割り、マッチで火をおこすなどのことができた。現在の子どもたちにそれができない
からと言って、『子どもたちの能力が衰えた』と嘆くだろうか。そのような作業の必要のない社会にあっては誰も嘆きもとがめはしないはずである。
  そうしたことと同じ過ちを「学力」について考える際にしてはいないだろうか。そのようなノスタルジックな基準で現在あるいは将来を眺めて悲観するような
過ちをおかしていないだろうか。

  そのようなノスタルジックな基準で学力を見る見方から抜け出し、「学力とは何か」を問い、教育とは学校とはどうあるべきかを吟味・検討し、その過程を
経て構築された「理念」をもとにしなければ、それを実現させるためのふさわしい方法は見つからないはずである。
内容(価値)に先立って方法が論じられることなどあろうはずがないからである。
  どこに向かうかがわからずに、向かう方法(徒歩で?車で?自転車で?)を論じても意味がないのと同じである。
  私たちはいたずらに方法(○○方式、○○メソッド)に走らず、まずは内容について考え・論じ・検討すべきなのである。
  方法論を脱却し価値論へと向かう道筋の中でしか、学校と教育の再生は望めないであろうと書店からの帰途つくづくと考えさせられた。

                                                                                   2005年06月08日



「評価」について考える
 学校教育において「評価」の問題を難しくしている一因に「評価と評定の混同」があるのではないかと強く思われる。
 教育活動における評価の第一の機能は、学習者の実態を把握したり、教育活動の成果や問題点を明確にして指導計画や学習の改善に資する情報を得たりするための働きであり、これが教育評価の本来の目的である。
 第二の機能として、学習を方向づけ学習意欲を促進する働きが考えられる。この中には、学習者自身が学習活動の成果をチェックしたり、第三者とチェックしあったりしてより確かな活動をめざす指針とするという自己評価の働きも含まれる。
 第三の機能として、題材や学年の終了時など一定期間を通じた学習活動の成果を把握する働きがある。その代表的でわかりやすいものが成績評価であり、指導要録に記述されるところの評定である。評定は、教育評価の中のほんの一部の機能でしかないのである。

 当然のことながら、こうした評価は学習指導の前、そして指導の中、さらに事後と適宜場を設けて行われるべきである。しかし、評価と評定を混同してしまうと学習後の評価に関心が向きがちである。「どの程度にできたのか(わかったのか)」「その序列はどうか」などの測定をすることにとらわれ、評価を自己の指導の改善に資するという視点がかすんでしまうという状況が生じる。また、ランクづけをすることに気を取られ、せっかくの個人内評価ですら、最終的には生かされなくなってしまうことも大いに予想される。

 評価を考える際に大いに参考になるのは、病院の医師の診断であると私は考えている。 医師は決して『あなたは胃が悪い』という判断を下すだけで活動を終えることはない。 続けて『あなたの今の胃の状況はこうこう。その原因はこうしたことが予想される。また、その治療法はこれとこれとこれが考えられる。その際はこうした薬の使用も有効だ。治療中に注意すべきことはこれこれ。経過がよければ治癒の見通しはこの程度。私もがんばるからあなたもがんばりましょう。』
少なくてもこの程度の診断と評価による見通しと励ましを与えてくれるはずだ。 
翻って学校における教育評価はどうであろうか。
『あなたはこれこれの力が劣っている。』と言っただけで評価をしたつもりになってはいないだろうか。『あなたは肺が悪い』と言い渡すのは診断ではないと同じように、「これだけできた(できない)」「ここがよい(わるい)」と判定することが評価ではないのだ。 
学習者が十分に理解できていないとすれば自分の指導のどこに問題があるのか、意欲的に学習を展開しそのねらいが十分に達成できたのなら自分の指導のどこがよかったのか、他で活かせるかどうかなどのことについて子細に検討し、計画を見直したり練り上げたりするための情報を得るのが評価の第一の目的なのだ。もちろん、それは題材を構成したり主題を設定したりする計画の段階でも言えることだ。

 他の多くの子はよくできたのにある少数の子がよくできなかった場合など、「みんなわかったのに」という思いが「なぜその子は理解ができないか」を洞察する視点を見失なわせ、自分の指導を見直すことを先送りして「能力不足」「努力不足」という判定を下し、その子にとっては意味のない「がんばれ」という励ましをむなしく送り続けることになるのも評価を評定と混同してしまうからなのだ。事前に学習者をよく理解していれば、理解力の十分でない学習者や独自の思考様式や学習スタイルを持った学習者、などに応じた指導計画を前もって立てることができたはずだし、その子に応じた手だてを準備して授業に臨めたはずなのだから。

 そう考えてみると、評価とは極言すれば理解のことなのかも知れない。
 指導者が学習者を理解し、その子の成長にとってよき方向、よき手段を共に考え、見通しをもって共に歩む働きと手がかりを評価と呼んでよいのではないだろうか。そのように評価をとらえ直すと、学習者が自分自身を見つめ、見直したり再認識したりする自己評価の働きがなおいっそう明確になるであろうし、その重要さもいっそう浮き彫りになる。
そのような「理解」を抜きにした判定を評価と言い換えてはならない。

                                                                                   2005年06月20日




幼児期の学習に学ぶ
 人間の子ども、なかんづく乳幼児は周囲にさかんに質問をあびせる姿から窺えるように、好奇心旺盛で学習意欲も旺盛である。
 ところが、小学校に入学し2年、3年と経つうちに学習意欲を失ってしまう児童も多い。
 乳幼児期の日常的な学びと小中学校での学びの異なる点はどこか、できれば乳幼児の時期に見せる「旺盛な学習意欲」を学校での学習にもそのまま
発揮して欲しいのにそうならないのはなぜか。

 2つの時期の学習は、どこがどう違うのだろうか。
 1年生に入ってきたばかりの子どもたちは学校に来るのがうれしくて、教室で勉強するのがうれしくてたまらないといった表情を見せるのに、数年も経たな
いうちにそのようないきいきした表情を見せなくなってしまう子どもたちもいる。

 乳幼児を抱えた親は、子どもたちの「なぜ?」「いつ?」「どうやって?」「ぼくも」の発言と行動があまりにも頻繁で文字どおり「うんざり」してしまうほどのつ
きあいをさせられる。幼稚園を卒園するまでの子どもたちは、自分をとりまく環境の不思議さに目を輝かせて新しい出会いを楽しみ、体全体で環境に触れ
ることでわき起こる疑問や行動への衝動を抑えきれずにいるかのようだ。
毎日のようにつきあわされる親はたまったものではない。
 本は読まされる、素朴で難しい疑問につきあわされる、落書きの後始末に追われる、おぼつかない足どりなのにあちこち行きたがることにもつきあわされ
る、洋服が汚れることもおかまいなしにする泥んこ遊びの後始末も大変、といった具合である。
親としては「いい加減にしてよ」と言いたくなることも少なくないが、子どもたちはその中でたくさんの生きた智恵を身につけていく。
今あることに熱中していたかと思うと、次の瞬間には他のことに関心が移ってしまうといったように、まったく「気まぐれ」とでも呼びたくなるほどに好奇心を
むき出しにしてあれこれ「興じる」から、親としては「もうたくさん」と音をあげたくなることもしばしばである。

 このように幼児期の日常的な学びの中では、「親の願い」や「親の期待」で学習がなされているという様相はまったく見受けらない。むしろ、主役の子ども
に親が振り回されるといった傾向が強いと言って良い。
 一方、小学校からの学校教育ではどうかと言えば、大人の論理が学びの核となる。
 ある一定の知識や技術を効率的に、そしてどの子にも同じように身につけて「欲しい」から、「このように学習しましょう」が子どもたちにまず求められる。
 つい昨日までは自分が行動の主役だったのに、自分の関心の向くことを夢中でできたのに、そして自分の疑問だけに答えてくれる親や幼稚園の先生が
いたのに、今日からは逆に先生の「言うこと」を良く聞き、長い時間を椅子の上で耐え、自分とはかかわりのないことを「覚えさせられ」、できたかできないか
の判定を絶えず気にし、みんなと同じことを同じようにすることを強いられる。そのことが徐々に「やる気」を失くさせていってしまうのではないだろうか。
 もちろん「けなげにも」先生の期待に応えようとする子どもも少なからずいる。中には「けなげ」なだけに先生の期待に応えようとしてがんばったにもかか
わらず応えきれず、「自分はダメな子かも知れない」と思いこみ落胆してしまう子どももいるかも知れない。

 乳幼児の親は「もういい加減にしてよ」と子どもを突き放すこともあるのに、学校の先生はさまざまに準備を施し、次から次へと知識や技術を提供する、と
いうことに決定的な大きな違いがあると言って良いであろう。
 幼児期には、自分の論理で自分なりのかかわり方で環境に働きかけ、自分なりの納得の仕方で知識を築き上げることが可能であったにもかかわらず、
学校に入学してからはそれでは困る、という大人の論理で学習を「仕組まれてしまう」ことがその違いの中味だと言えそうだ。
 「勉強」という言葉が示すように、「しいてつとめる」ことがなければ身につく学習とはなり得ないし、それに耐えることのできる「耐性」もよりよき学習者の大
切な資質であるというのが従来の学校の姿勢で、そこでは学習は楽しいことではなく、むしろ苦難に満ちた修行であり楽しいものではないことは当然、とい
う暗黙の了解があったのではないか。

 しかし、活発で旺盛な意欲につき動かされて行われる幼児の学習は、「しいてつとめ」ることによってなされているものではないにもかかわらず多くのこと
をよく「学んでいる」ということは明白な事実で、そのような学習の構えを学校での学習に転移することは決して不可能ではないであろうし、むしろ「しいてつ
とめる」学習こそが人間にとっては不自然な学びなのかも知れない。

 そこで必要になるのは何か、と言えば「学校が変わる」ということであろう。
 教育改革とは文字どおり「改革」であるから、マイナー・チェンジで済ませることではなく、ドラスティックなモデル・チェンジでなければならない。
 人間の学びが本来自分の興味や関心をそそる知的好奇心に支えられて強く動機づけられるものであると考えると、学習者の論理を大切にした学校の仕
組み(学校生活、授業のありようなど)を変革する指針を自分の中に持つことが求められているとも言えるが、その中味は「幼児を見る親の目を持つこと」
なのかも知れない。
                                                                                    2005/06/22




ズレを生かす
 知識や技能を獲得していく作業は、たとえてみれば『臓器や皮膚の移植のようなもの』と言えるのではないか、と近頃考えている。
 
 周知のように、人間は強い免疫力を生まれつき持っていて、外から細菌のように体によくないものが体内に入り込むと、それを『異物』として感知し、懸命に
排除し体を守ろうとする。
 その免疫力が強過ぎて、ことさら体に悪い影響を持たないようなものにまで反応してしまうのが花粉症などのアレルギー症状、逆に免疫が働かなくなって
しまうのが「免疫不全=HIV」だ。働かなくても困るし働きすぎても困るという微妙なバランスの上に成り立っているのが人間の健康だと言えそうである。
それはさておき、ばい菌やウィルスばかりでなく、輸血や皮膚・臓器の移植などでも人間の体は抗体反応を示すために強い拒絶反応が生じ、そのために命
を落とす場合すらある。
自分のものではないものが体内に入ると、それを『異物』として追い出そうとするのが抗体による拒絶反応だが、それは知識や技能を獲得する際でもよく起
きる。

 未知の状況や未知の知識に触れた時のことを想定してみよう。
 それは「触れたことのない状況」や「自分の体験とは異なる事象」であることから、自分が今まで持っていた「知の枠組み」と大きなズレがある『異物』と見る
ことができる。
知識の場合も、自分の持っていたものと異なるものを自分の内に取り込もうとした時には、免疫による抗体反応のような拒絶反応がよく起きる。
『そんなことあるわけないよ』とか『それ、本当?』といったような「素直に受け容れがたい」感覚がそれだ。教育心理や認知心理で言う「認知のズレ」であるが、その状態で無理矢理新しい状況に適合させようとすると、ひどい時には認識形成の破壊に結びつくと考えられている。

 1年生の教科書は、美しい挿し絵がふんだんに盛り込まれていて楽しく学習できるように配慮されている。
 ここで、ある先生の1年生の算数の授業の例をご紹介しよう。
 教科書には、1羽のハトが止まっている大きな木が描かれている。
 さらに、その木の下の地面には、落ちた木の実をついばんでいる3羽のハト、そしてハトを取り囲むようにキツネやタヌキなどの小動物が数匹描かれている。
 先生は「仲間を見つけて、その数を数えよう」と発問した。
 キツネやタヌキといった仲間探しができ、その数も「3匹、2匹」と、どの子も自信をもって答えられたそうだが、ハトを数えるところで先生と児童の間で齟齬
が生じてしまったという。ハトはどう数えても「4羽」なのに、ある子が「3羽」だと言い張ってきかないのだそうだ。
 いろいろと質問した揚げ句、その理由が判明した。
 「仲間」はその子の言う通り、3羽だったのだ。その子が言うには、木の枝に止まっているハトは「仲間はずれ」のハトで、地面にいる3羽のハトは仲良しだ
けれども、その1羽は仲良しの友だちではないから「仲間ではない」と言うのだ。
 先生はあくまでも「集合」の概念をわかりやすくするため「仲間」と言い換えていたのだが、子どもの生活の論理では「仲間」は「仲良し」のことで、そこに互
いの認識のズレがあったのだ。

 もしも、その先生が子どもの生活に根ざした意味に鈍感・無頓着で、子どもの発しているメッセージを敏感に受け止められなかったとしたら、そして無理矢
理に教科書の論理を押しつけようとしたら、子どもが自分で持っている意味構造を破壊することになってしまったであろう。
つまり、自分にマッチしない臓器の移植が『異物』扱いを受けて失敗するように、無理矢理に意味の移植をしても、マッチしない認識はしばらくすると認識構
造からはがれてしまい、忘却や抑圧が起きるのだ。無理矢理に移植しようとしないことが大切だが、実は学習にはこのような『移植時の抗体反応』はつきも
のなのだ。
 むしろ移植された認識は、当初は多くは『異物』として受け止められていると捉えた方が良いのかも知れない。
 そして、無理矢理に移植しようとすると、自分の体にマッチすること、なじむことだけが認識構造に取り入れられたり「受け容れ可能な形」に変えて取り入れ
られていくことが多い。つまり、誤った認識に陥ったり意味構造そのものを破壊したりすることにもつながってしまうおそれがあるのだ。

 しかし、問題をとらえる際の教師の認識と子どもの認識との間に「ズレが生じる」という状況は決して困ったことではない、と私は考えている。
 なぜなら、そのことを手がかりとして、教師は『ズレの背景や根拠』を洞察し究明することもできるだろうと考えているからだ。
 そのことによって、子どもの認識構造に触れることになり、教える側に大きな自己成長が起きるだろうと思われるからである。
 つまり、『ズレ』は忌避すべきものではなく、学ぶ子どもにとっても教える教師にとっても、次の成長へのエネルギーとして積極的に受け容れることができる
ものだろうと思われるのだ。

 例に挙げた「ハト」のような話は、学校の中では日常茶飯事目にすることのできる光景であろう。
 まずは、私たち自身が「学習指導とは、異物をやりとりしている行為である」と認識し直すこと、そして異物に象徴される「ズレ」こそが子どもの「わかる」を本
当に理解する手がかりとなることに改めて気づくことが大切なのだ。
 「わかる」とか「理解」するというのは、新しい認識がその人の認識構造にマッチし、うまく取り込まれてなじんだり腑に落ちたり納得できたりすることだと言
える。
 教えられて覚えることではなく、自分で学び取って自己内に知識を形づくっていくことがまさに求められているのであるから、それを阻害せず子どもの「わ
かる」に寄り添って「わかる」を支援していけるようにするためにも、「ズレ」を大いに生かして、子どもにとっての「わかる」を見きわめていきたいものである。
                                                                                     2005/06/23




「不登校」などにかかわって
 不登校の児童・生徒が13万人を越したという。(文部科学省発表、2002.12)
 一方で、いじめや校内暴力、非行などの問題が跡を絶たない、といった具合に学校はさまざまな問題を抱えている。
 その根っこにあるものは何だろうか、ということについてある側面から考えてみたい。
 私は、それらをつなぐキーワードは、「教育を受ける権利」ではないかと考えている。

 子どもたちは、本来の意味で「教育を受ける権利を行使する」という意識をもって学校に来て学習に取り組んでいるだろうか。あるいは、保護者や学校は
子どもの「教育を受ける権利を保証する」という意識をもって教育に取り組んでいるだろうか。
 教育を受けなければならない「義務」があるから、学齢に達すれば小学校に入学しなければならない、という誤った理解の仕方で「義務教育」をとらえてい
る人々はもうさすがにいないと思われる。しかし、社会に出て困らないように多少の困難を押してでも(実際は多少の困難などという生やさしいものではない
かも知れない。相変わらず受験競争による受験地獄は続いているのだろうから)高校や大学に入らなければならない、といった義務や強制・強迫の論理が
そこに働いていないと言いきれるだろうか。

 自分のしたいことの実現のために、つまり自分は学びたいから何として学校に入りたいのだ、そしていま学ぶ権利が行使でき、現実に学べていてその喜
びを実感できている、という感覚が充足されていれば不登校など起こりはしない、と思われるのだ。
 学校は「来なければならないところ」ではなく「行きたいところ」であるという前提に立つべきで、学ぶ必要がない、あるいは学びたくないという者は「来なくて
もよい」ということをはっきりと明言してもよいのではないだろうか。(少なくても、国民が共通に受けるべき権利を持つ「義務教育課程」以上の学校についてはという条件付きではあるが)

 それを表明するためには、人間がもともと持っている知的好奇心や自己実現への欲求が満たされ、生涯学習社会実現のためのインフラストラクチャーと
して学校を再構築していく必要がある。つまり、学校が単なる知識の伝習所としてではなく、「学び発見し、築き、表す」ことのできる学びがいの感じられる場
所、学ぶことの楽しさを味わえる場所として生まれ変わる必要があるということだ。
 学ぶことの楽しさを味わえる場所だからこそ、多少の困難を乗り超えてでも「行く権利」を行使したいと思えるだろうし、学ぶことの大切さやおもしろさを感じ
ながら生きていこうとする心も育つであろう。
 学校がそのように変わる一方で、社会が学歴という一元的な尺度で人間を見るのではなく、多面的な価値観で人間に対することができるよう変わる必要
がある。たとえば身体を駆使した技能を持つ人間も、芸術創作にその力を発揮する人間も、研究開発に努力を惜しまない人間も同じように尊重される多様
な価値観を持つ成熟した社会になることである。

 ヨーロッパのマイスター制度(徒弟制度)は、そのことを教えてくれる。大工の親方は非常な権威として人々に認知されるという。腕一本で叩きあげた親方
や職人は、どこそこの大学を出たなどというささやかな学歴とは別の意味で社会的に高い地位にあり、誰もが一目おく存在で、社会的にも大きな発言権を
持っているのだ。
 日本の社会もどこの学校を卒業したかなどという人間の本質とかかわりのない尺度で尊敬されたり蔑まれたりされない成熟した目を持つべきだ。
 誰も彼もが大学を出、ホワイトカラーをめざすのではなく、それぞれの適性と関心を軸に自分の生涯を築き社会に貢献することが尊重されれば、農業に
従事して社会の役に立とうとかモノづくりに専念して創造的に生きていこうなどとという独自の生き方をめざす子どもの育ちが期待できるはずなのである。

 知的な能力を広げることは楽しく大切なことであるが、大工の見習いとなって腕を磨くことと比べて優劣はなく、どこの大学を出ようがその後の生活でブル
ーカラーより得をすることもない、という社会になればそれぞれがそれぞれの適性を生かした生き方をめざせるようになるはずだ。そうなった時、学校に「行
く・行かない」が子どもの選択にまかされ、不登校などという一方的な見方から子どもを解放することができるのではないだろうか。
「不登校」という言葉からも「学校不適応」という言葉からも、「登校できない困った子ども」「適応できない困った子ども」という学校の一方的な論理が見え隠
れする。
 そのような学校の論理の中で子どもが学習するのではなく、どこまでも学習者自身の論理が優先されることが、すなわち「自分の権利を行使するために
学校に通って学びたい」という欲求を実現し保証するために社会が努力を惜しまない、という原則を貫くことがさまざまな問題解決のカギであることに私たち
自身が気付くこと、それが何よりも大事だと思われてならない。

 もちろん、社会の価値観や大人の価値観が即座にそのように変わるということは望むべくもない。しかし、これだけはすぐにでもできそうな気がする。
 『あなた方は、もともと知りたがりだしやりたがりだ。好奇心いっぱいで何にでも挑戦して自分のものにしようとするすばらしい力と可能性を持った存在だ。
そうできるように、あなた方の周りの大人は、お父さんやお母さんもそして先生もできるだけ力を貸そうとスタンバイしている。世界のあちらこちらで、勉強し
たい、本を読みたい、自分の手で手紙を書きたいと思ってもそうできないお友達がたくさんいるが、勉強したいときに勉強できるあなたがたはとても幸せなの
だ。その幸せを失くしてしまわないように、日本という国全体であなた方を守っている。十分その幸せをかみしめて味わおうではないか。』と呼びかけることで
ある。
 学校が子どもたちにとって「楽しいところ」「嬉しいところ」「来たいところ」「自分のしたいことを実現できる場」として実感でき、自分の権利で来ているのだと
いうことを子どもたちに伝え、学びという文化への参加を呼びかけることこそ大切なのだ。
 そうなった時、私たち教師は強い指導力を発揮して「ああしなさい」、「こうしなさい」、「こうしなければだめ」、「こうしてはいけない」などの指示や命令による
指導ではない真に子どもによりそった支援ができるようにもなるであろう。
多くの問題が、子ども自身が「学べる幸せや意味を実感できているかどうか」にかかわっていると思われてならないが、それらを解決するためにはまず学校
がそして私たち教師が、大人の論理(あるいは都合)で「教え、伝え、鍛える」という姿勢から抜け出すことが大事なのではないか。
 「教えられずに学んで」いける学びの環境を先生方の創意・工夫でつくりあげ、子どもの口から「教えて!」という言葉が発せられた時、遠慮がちに始めて
良いのが指導の本来のあり方だと考えているが、そのためにも「学べる幸せ」を常に言い続けて良いし自分の体験を通して語り続けて良いのだろうと思う次
第である。
                                                                                          2005.6.24




なぜ群れたがる?日本人
 日本は、『群の社会』なのだろうか。あらゆるところで、いろいろな人が仲間をつくって「群れて」いる(「群れようとして」いる)光景が見える。
 曰く「○○会」「○○県人会」「○○友の会」・・・。
 せっかく自分の生まれた県を離れて、遠い他県の大学に入学することができたのに、出身県の人たちでつくった「県人会」なるものがあって、その人たちとの
つきあいを余儀なくされ当惑してしまったという話も聞く。
 その上、大学を卒業して故郷に帰ったら「○○大学同窓会」なるものの存在を知らされ、同じ人たちとまたまた顔を合わせなければならず、いつまでおつきあ
いが続くのかと思うとうんざり。

 そのような集まりは、少なくても年に1度「懇親会」なるものをご丁寧に準備してくれていて『旧交を温ためましょう』と呼びかけて下さる。
 何かの都合で欠席するなどと言えば「つきあいの悪いやつ」というレッテルを貼られるのは必定。そこで何とか都合をやりくりして出かけてみても、古い顔を
つきあわせてただ何となく昔を懐古するだけの意味があるのかないのかわからない時間だけが流れ、もったいなかったなあという実感だけが残る、ということ
のくり返し。

 なぜ日本人はこんなに群れて行動したがるのだろう。また、なぜ自分だけで問題を解決しようとせずにみんなで相談して解決したがるのだろう。
 考えてみれば、私たちの社会はそのような「群れ」を基本として構成された組織の集合体のようである。
 身近には近所の家々で組織する班や区。
 学校にいけば同好会やサークル。
 卒業すれば同窓会。
 社会に出れば職種に応じて設けられる職種別の会や研修の会、研究会。
 なぜ一人で行動しようとしないのか?と素朴な疑問をぶつけたくなるほどにさまざまな会に所属したり所属を余儀なくされる。
 ひょっとすると「やれやれ、これでようやく一人でいられる」と安心して死ねたとしても、あの世にも「日本人会」やら「○○市出身者の会」などがあって、死後
の無聊をなぐさめ合う懇親の集いがあったりするのではないかと心配したくなるほど仲間づくりが盛んである。こんなことではおちおち死ぬこともできない。
困ったものである。

 ところで、学校教育を含めた教育という作用の目的の一つは、『自立』を促すということであり、その『自立』とは『一人立ち』のことであるから、他に依存せず
に自分流をつくりあげ『独立独歩』の精神で生きていけるようにするということのはずだ。
 一方でそう言いながらせっせと組織づくりを行い、「みんなといっしょに仲良く、相談し合い協力し合う」ことを求めるような社会を肯定するかのような教育を施
すのは、一見矛盾しているように見える?
 現行の指導要領でも、生涯学習社会で生きて働く力や構えの柱の一つとして、『他とともに』が強調されている。『自立』という概念とこの『他とともに』という概
念は、一見相反する内容のように見うけられるし、矛盾したことを学校教育に要求しているかのようにも思われる。

 しかし、と私は思う。
 本来、教育が担うべき役割は『一人立ち』できる人間を育むことであり、その目的達成のために「みんなで考え、相談し、解決したり影響を及ぼし合ったりす
ること」が有効なのだと認識することが大事なのだ。
『他とともに』は、そういった文脈の中で意味を持つのであって、『自立』を阻害してはならないし、『他とともに』が『自立』に優先してはならず、集団で取り組む
ことが個の喪失につながるようではその趣旨が生かされないのだ。

 個々がそれぞれに独自の光を放ち、輝きを持つことがまず望まれていて、その結果、集団としての美しさがいっそう増したり、そのことに触発されて個々が
磨かれその輝きが益々深まっていくことが望まれている、と考えるとわかりやすいだろうか。
 紅葉が美しいのは、一枚一枚の葉のそれぞれが赤や黄色、橙や茜で彩られ、それぞれがそのままで美しいのだ。
 そのようなさまざまな彩りの個が群となった結果、美しい景観をつくりだしていると言えるが、そこでは一見異色に思える松の緑ですら美しさをつくりだす上で
大切な役割を担っている。
そしてもっと重要なことは、それはあくまでも結果としての美しさであって、集団としての美しさを醸し出すことが目的ではないということ。
だから、まずそれぞれが他に依存しない独自の輝きを持つことの大切さこそ強調されるべきで、「みんなで寄り集まって美しい景色をつくろうよ。そのためには
一人一人が美しくなろうね」という発想とは立場を異にしているのだ。
みんなで考えを出し合ったり検討し合ったり、力を合わせて一つのものをつくりあげたりするのも、そのことによって一人一人が「自分に気づき」「益々自分の
よさを高め」て自己を確立できるチャンスとして大切にされるべきだという文脈の中でとらえられなければならない。

 音楽で友達と合わせてアンサンブルをするのも、『自分だけでは足りないところ、できないことを誰かに補ってもらう』ためにするのではない。
 アンサンブルは、自分と違う友達の個性と出会うことによって『自分を確認する』ことにあるのだ。
 自分に気づき、自分を確認することで育つ「ポジティブな自己概念」の形成は、他の存在やその尊さを認める社会性の育ちにつながると考られるが、そう考
えると個の確立を先送りにしてまず社会性を身につけようという発想は、本末転倒だ。

 もともとこのことは、あれかこれかという二者択一の対象として論じられるべきものではないだろう。
 言ってみれば互いに影響を及ぼし合うという意味で、どちらも大切なことではあるが、より良い社会(成熟した大人文化の社会)をつくりあげるのは組織への
帰属意識や依存意識ではなく、一人一人が自分の足で自分の力で確かに歩んでいく本当の意味での『自立への意識』『個の確立』なのではないかとつくづく
思われるのだ。
 他に対する思いやりややさしさも『自分の大切さ』が十分に認識されているからこそ生まれる心情であることを考えると、益々そう思わざるを得ない。
                                                                                        2005/06/24




「生きる力」について考える
 牛や羊、そして馬といった草食動物の多くは、生まれて一時間もすれば自分の足でしっかり大地を踏み締め、おぼつかない足取りであっても自分の力で歩くことができます。肉食動物の脅威から少しでも身を守ることの必要性からそのような力をもって生まれてくるのだ、と言われています。
すなわち、生まれ落ちたその時から「生きて」いけるように、母親の胎内で「生きるための力」を十分身につけ、ある程度成熟した姿で生まれてくるのだというのです。

 一方、人間の子どもは一人でものが食べられるようになるまで、ずいぶんと多くの時間を費やさなければなりません。
立ち上がるのにおおよそ一年、安定した歩行ができるようになるまでさらに一年といった具合ですが、社会で独り立ちしていけるようになるには更に多くの気の遠くなるような年月を費やさなければなりません。
 つまり、人間は牛や馬などのように母親の胎内で十分に育ち、生きる力を身につけた上で生まれてくる生き物ではないということです。

 そう考えると人間は他の動物と比べてはるかに「不利」で「弱い」存在のように思われるのですが、実はそのことが人間の最大の特徴で他の動物に比べて優位に立てた理由であるらしいのです。
 つまり、生まれてから独り立ちできるまでの期間が、他の動物と比べて驚くほど長いということは、母親の胎内で母親から「受け継がなかった」部分が多いということで、それは「より多く学べる余地を残していることだ」というのです。
 よくしたもので、そのような人間の赤ん坊は「受け継いでいない多くの部分」について学習できる能力を他の動物に比べて頗る多く持っているらしいのです。そして、そのことは「自然環境の急激な変化」や「思いがけない未知の事件との遭遇」などに際して対処できる「学習能力」とその経験の応用を可能にし、他の動物に見られない数多くの資質の獲得に役立ってきたのである、というのです。

 ポリネシアには「アタオコロイノナ」という神様がいます。
 「アタオコロイノナ」という舌をかみそうなその名前の意味は、「何だかよくわからないもの」なのだそうですが、人間はその「何だかよくわからないもの」を探しに天国からこの地上に生まれ降ち、「何だかよくわからないもの」を探し回って見つからないまま年をとり、「何だかよくわからないもの」がひょっとすると別の世界にいるかもしれないと別世界(あの世)にでかけていっている。ずいぶんたくさんの人が探しにでかけたが、まだ誰も帰ってこない、だからまだ「アタオコロイノナ」は見つかっていないらしいというのです。
おもしろい話でしょう?

 「何だかわからないもの」、つまり人間が母親から知識として受け継がなかった多くの「未知のものごと」を探し、身につけるために「生きているようだ」ということを人々は漠然と意識していたのでしょうか。
そして神様は、そのことに必要な「学ぶ力」だけはしっかりと人間の血の中に植え付けてくれたもののようです。

 「知りたいという欲求」や欲求を充足させる「学べる力」とその学習したことを「転移・活用」し、更に能力の幅を広げる旺盛な欲求など、それらはすべて母親の胎内で「母親から受け継がなかった多くのこと」があるからこそで、それこそが人間が他の動物を引き離している最大の徴(しるし)であるというのです。
 ですから(三段論法のようで気後れし恥ずかしいのですが、勇気を奮い起こして言えば)、人間にとっての「生きる力」とは「学べる余地を持ち、学びとろうとする、あるいは学びとれる力や態度」であると言えるでしょう。
                                                                                      2005/06/24




子どもたちがよりよい生き方をめざせるように
 多様な価値観ということが言われて久しいが、価値観が多様化しているどころか、価値観が崩壊してしまった感のある現在の日本。
何が良くて何が悪いのか、何に価値があるのかが見えにくい社会になってしまったのだ。
 かつて、ベルリンの壁が取り壊され東西ドイツが新生ドイツとして生まれ変わり、ソ連がペレストロイカによって崩壊しロシアになった時には、それまでの二元的な価値、既に在った価値観から解き放たれて新しい価値づくりの世界史が始まると期待したものだ。
 そこでは、新しい価値を生み出すために一旦は価値の混沌化が起きて当然だし、生み出す苦しみを全世界で味わうことになるかも知れないと漠然と思いながらも、これからどんな社会になっていくのかと期待したりしたりもした。
 しかし、日本の国は期待とは逆の方向に進んでいるようにしか思えない。
 なぜ、こんな社会になってしまったのかと不思議でならなかったが、ふとこんなことを考えてみた。

 この10数年の間に、日本はさまざまな事件や事故を経験した。
阪神・淡路大震災に見舞われた神戸の町は、力強く復興しましたが、あの震災の被災者の多くは何の補償もないばかりか、仮設住宅さえ追い出されそうな雲行き。
 被災者の多くは、「国とはなんとあてにならないものか」と落胆していることだろう。 落胆する以上に国を「恨む」気持ちも強いかも知れない。その心情は、神戸の被災者ばかりではなく、「もしも自分の所で起きていたら、自分もあのような仕打ちに会うのかも知れない」という国家への不信の念が日本国中を覆ってしまったと言っても過言ではない。

さらに追い打ちをかけるように起きた一連のオーム事件。
ここでも国は被害者に何もしてくれなかった。
 むしろ加害者であるオームの関係者を裁ききれないでいる状態だ。ずいぶんと長い時間が経過したにもかかわらず、裁判は一向に進展していないようにも見受けられる。
確かに犯人も「人権」を持った人間ではあるが、彼らによって将来を絶たれてしまった坂本弁護士一家やサリンで殺害あるいは有形無形の傷を負わされた多くの人々の人権はどこへ行ってしまったのか、といぶかりたくなるような「妙な人権社会」になってしまった感がある。
 ここでも国民は「国はあてにならない。自分の身は自分で守らなければ。」という思いを強くしたであろう。

 そしてさらに、バブルがはじけた揚げ句の大不況。また、少子化による年金の先延ばしや消費税の値上げ、北朝鮮による拉致被害者救出の無策ぶりなど、国は国民のために何かしてくれるどころか国民を置き去りにする、あるいは苦しめる方向に走り続けた。まったくもって国は「あてにならない」という姿をさらして見せ続けたのである。
 そしてさらに驚くことに、年金や税金の無駄遣いの実態が明らかになり、国民が頼りにすべき「官僚」と「行政」が自分たちの私腹を肥やすためのさまざまな工作を行っていたことが白日の下にさらされ、国家に対する失望はその頂点を極めたのだ。

 そうなると「民」の多くは何を考えるか?
国があてにならない、頼りがいがないとすれば、「自分の身は自分で守る」以外になく、そのためにはなりふりかまわず倫理観などかなぐり捨てて「自分さえ良ければ良い」という生き方をしていくようになる。人間としての価値観など捨ててしまえ、と思ったとしても無理はない。きれいごとは言っていられない、というのが偽らざる実感なのかも知れない。「何をしてもいいじゃない?誰にも迷惑をかけていないんだから」と言い放つ女子高校生の心情も、そのような社会の変化を背景にしているのは明らかだ。

価値観の崩壊による「よりよい生き方への志向」「将来への期待」の喪失、これがいま日本の抱えている最大の問題だと言って過言ではない。
 そのような中で、これから生きていく子どもを育てなければならないのだから、学校は大きな大きな重荷を背負わされたようなものだ。
 だがそれだからこそ学校の存在意義も逆に大きく浮かび上がってくるとも考えられる。
 純真で新鮮で敏感な子どもたちが、「志(モラール)」を持ってたくましく生き抜いていけるように、寄り添っていくのは意味深いものがあるし、そのような子どもに接することで最も良い影響を受けているのが私たち教師であるということを考えた時、よい恩返しの意味でがんばってみようと思いたくなるのは私一人ではないはずだ。
誰かの価値を基準に「生きていく」人間ではなく、自分なりによさを求めて生きていけるように育てたいものであるが、そのためには私たち教師が積極的に価値を求めて生きていく主体者として子どもに接していくことこそ大切なのではないかと切に思われる。

                                                                                2005/06/25




評価について考える2
 私たち教師は、評価を活かし、評価を通して自らの指導を絶えず点検し、修正し、改善することに意を用いてきた。
 評価の中心的役割は、何と言っても「指導の点検と改善」にこそあるからであり、指導は評価と本来的に一体のものだからである。そのことについては、誰も異論をさしはさまないであろうし、そのように努めてきたはずである。
しかしここで改めて考えておかなければならないことがある。
そのように指導と評価が一体となり、評価が指導の改善に役立つためには、学習の主題や学習の目標などが評価可能なものになっていなければならないということである。
せっかく評価を指導の改善に活かし役立てようとしても、目標や内容があいまいで不明確であれば評価のしようがなく、どこをどう改善すればよいのかが見えてこないからである。

 例えば、仮に想定した次の5つの目標の内、評価可能な具体性をもったものはどれであろうか。
  1.与えられた文の中で、わからない文字や語句に注意することができる。
  2.与えられた何組かの数値を棒グラフに表すことができる。
  3.天秤の取り扱い方を理解する。
  4.熱は金属では伝わりやすく、水や空気では伝わりにくいことを知らせる。
  5.水泳で低い台から飛び込みをすることができるようにする。

 目標が「明確である」ということは、一言で言えばそれが達成できたかどうかについて、人々の間で意見の不一致が起こらないということだ。先生同士は言うに及ばず、先生と子どもの間、子どもと子どもの間にもである。
 さらに言えば、達成できたかどうかに関して、先生が容易に見極められるだけでなく、学習者である子ども自身が判断できる、ということが要求される。
 ところで、上に挙げた5つの目標のうち、そのような意味で明確だと言えるものはたった一つしかない。それは「2」の目標である。
 なぜか。順に考えてみたい。

 まず「1」のついて。
 文末が「できる」となっていることから、これは明確な目標となり得ると見る向きもあろう。しかし、子どもが「注意することができる」ように変化したかどうか、それを何によって判断するのかと言えば、おそらく人々の間で意見の不一致が起こるであろう。
 「2」についてはどうか。
 子どもにこういう行動ができるようになったかどうかは、数値を与えて棒グラフを描かせてみればわかることだし、描かせてみてできなければ目標を達成できなかったとみなすことができることから、この目標は明確な目標であると言えるであろう。
 ただし、より正確な目標を、と言うなら次のようになるかも知れない。
   与えられた何組かの数値を棒グラフに表すことができる。
   ただし、数値は自然数の範囲とする。また、棒グラフは方眼紙に描くものとする。
 「3」が不明確な目標であることは容易にわかであろう。
 なぜなら、子どもがそのことを「理解した」かどうかを、私たちは直接に知ることなどできないからだ。理解という言葉は、至極便利な言葉であるが、極めて多義で人によってその解釈が異なるということも言える。
 「4」についても同様で、実際に子どもが「知ったかどうか」を私たちが何で知るのか、意見の不一致が予想される。このことから、不明確な目標と言えると思われる。
 「5」も明確な目標と判断されがちである。
 しかし、「低い」とか「高い」というのは相対的な概念で、たとえ5メートルの高さであっても低いと言えば言えるし、1メートルでも高いと言えば言える。
 それゆえ、この目標を明確にしようと思えば、台の高さを「○センチ以上○センチ以下」というように限定しなければならないはずだ。その範囲の高さの台から飛び込みができたかどうかについてなら、先生であれ子ども自身であれ判断可能だからである。

 目標を明確にするということは、とりもなおさず「評価」が可能になるということ。
 他者による評価も自己による評価も、目標が明確に示されるということがあってはじめて可能になる。
 実際にやってみると口で言うほど容易ではないが、学習者自身が「メタ認知能力」を働かせつつ伸ばしていくことでしか、自律的な学習をめざす「自己学習能力」やその構えは育っていかないであろう。
 自分が自分に気づき、自分を認識し、自分なりの課題を把握できるようになるためには、自分自身が判断し問題を捉え、方策を考え出すことのできるような習慣が必要だ。
そのためにも日々の学習の目標について、どうしたら明確なそれとして子どもに提示できるか、子どもとつくっていけるかについて考えていきたいものだし、そうすることによってこそ教師自身の学習指導を点検・改善が可能なのだということ、さらには評価の意味はそこにこそあるということを再確認したいものである。
                                                                                       2005/07/01





「場の音楽」再考

 先に「音楽の二面性」と題して、音楽には「ステージに向かう音楽」と「場の音楽」の二側面があるのではないか、と述べた。その中で、ステージ上で聴衆を前にして表現することを意識した音楽活動(ステージに向かう音楽)にどうしても目が向きがちだが、音楽の学習を構想する際には、無目的だからこそ夢中になれる、時間の経つのも忘れて音や音楽と戯れ遊んだり一体化できると思われる無目的な音楽活動(場の音楽)にももっと着目すべきではないかといったことを述べた。
 それは、誰かから強いられて行うのではない、一人ひとりが、主体的・自主的に行うところの「楽しい活動」と言ってよいであろうが、「楽しい」と言ってもその依って来たるところは人さまざまであろう。

 社会学者のチハイ・チクセントミハイは『Beyond Boredom and Anxiety』(『楽しみの社会学ー不安と倦怠を越えて』思想社)において「楽しさ」には次のような8つの場合と順位があることを明らかにしている。

 1 それを経験することや技能を用いることの楽しさ
 2 活動それ自体−活動の型、その行為、その活動が生み出す世界

 3 個人的技能の発達
 4 友情、交友
 5 競争、他者と自分との比較
 6 自己の理想の追求
 7 情緒的解放
 8 権威、尊敬、人気


 ミハイは、ロック・クライミング、作曲、モダン・ダンス、チェス、バスケットボールなどの分野で活動する人々172人を対象にして調査した結果、上のように
分けられることを見いだしたのである。
 活動が楽しい理由の順位は上に列挙したようになるという。すなわち、「それを経験することや技能を用いることの楽しさ」が最上位の楽しさであり、続いて
「活動それ自体」が2位にランクされている。ここで注目したいのは、その2項目が「個人の技能の発達」や「競争」などよりも上位にランク付けされていると
いうことである。さらに「権威、尊敬、人気」が最下位の楽しさとして位置づけられていることにも着目したい。

 ミハイは1と2は内発的理由、他の6つは外発的理由だと言っている。
新井郁夫(上越教育大教授)の言葉を借りれば、1と2は「ある楽しさ」であり、それ以外は「持つ楽しさ」であるということになるが、どうやら現代社会は、金銭、
権力、地位、名声、快楽の追求といった「持つ」文化によって支配されている感が強い。また、「他者と比較して優位に立つ」ということも現代社会では声高に言
われないまでも欲求の対象としてあるように見受けられるが、これも「持つ文化」の象徴であろう。
 しかし、ミハイも指摘しているように、このような社会においても、これらの価値、すなわち「持つ文化」には目もくれず「ある楽しさ」を追求している人々、「ある
楽しさ」を味わおうとする人々が存在するということは注目すべきであるし、「ある楽しさ」こそが人間の生き生きとした生き方を表出させる最も大きな要因だとい
うことの表れなのではないかとさえ思わされる。

 そう考えてみると、誰かに聴いてもらうためでもなく、またコンクール等でよい評価を得るためでもない音楽活動、音楽の「ある楽しさ」を精一杯楽しむことで音楽に直接触れ、向き合うことのできる「場の音楽」の持つ意味がさらに浮き彫りになると思われるのだ。

                                                                                       2005/07/01




「読解力」について再び
 先に「読解力低下の報道に接して」の中で、本当の意味での読解力を養いたいのであれば、何よりも物語のおもしろさを味わってもらう必要があり、その
ベースには「読み聞かせ」「語り聞かせ」を聴く体験が欠かせないであろうという趣旨で次のように書いた。

  ついつい本に手が伸びてしまうのは「ものがたりのおもしろさ」に心をときめかせ、「もっと先を知りたい」という気持ちがベースにあるからだろう。
  ということは、子どもたちがそうした気持ちになれるような働きかけがまず何よりも肝要だということではないか。
  子どもたちは活字を通してストーリーの展開や登場人物の心の動き、文章のおもしろさを味わう力を持ち合わせていないわけではない。
  あれだけ分厚い「ハリー・ポッター」を多くの子どもが心をわくわくさせて読了しているという事実がその何よりの証であろう。
  読書の欲求は何よりも物語の展開や論理の展開のおもしろさに心をわくわくさせてしまうことによって生じる。だからこそ次のページをついつい繰ってしま
  うのである。
  そうした心の動きを生むベースは「読み聞かせ」や「読み語り」(「語り」も含めて)にあるのではないか。
  『お話聞かせて』とせがむ子どもの心は今も昔も同じであろう。

 そうしたところ、昨日(2005.7.21)附けの読売新聞「編集手帳」に次のような記述があった。
*************************************************************************************  
国会では「文字・活字文化振興法案」が衆院を通過したが、活字文化のもとをたどれば読書体験に、
さらにたどれば幼い頃に聴いた物語に行き着くだろう。

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 両親やまわりの大人が語って聴かせる「物語」は、想像をかきたて物語の世界に心を遊ばせるだけではなく、語り手と聴き手がコミュニケーションをとりながら話を展開していく様式をとっていることから、無理なく自然に「受容・共感・理解・洞察」などの姿勢を育むことも期待できる。
 そうした楽しい経験としての「物語」「ファンタジー」との接触、気持ちの高揚、感動や喜びがあるからこそ、文字を通して未知の世界に足を運ぼうとする気持ちが自然に芽生え、それが進んで読書をしようという意欲につながるのだ。

 さらに、そうした楽しい経験がベースにあるから、一つひとつの言葉や文章の持つ美しさや豊かさに驚きと感動を覚えたり、不思議な力に目覚めたりもする。
 そのような文章との出会いを通して、私たちは漢語を含めた国語を有効なコミュニケーションの手段として使いこなすことができるようになったり、行間に埋められたものまでも読み解いて理解したりすることができるようになるのだ。
 
 そうした経験は、半ば強制的に決められた「読書の時間」から得られるというよりも、むしろ寝床の中とか午後のお茶の時間などのようなごく日常的な生活の
場面でより有効に積み重ねられていくものではないだろうか。「読書の時間」がそうした経験の入り口として有効に働かないとは言わないが、もともと読書が自分の「楽しみ」のためのものであり、そうであってこそ心をくつろげて本の内容そのものに触れるチャンスとなるはずなのだ。
 内容の豊かさ、深さ、美しさなどの魅力に触れるからこそ、睡眠時間も忘れて「もっと先を」とむさぼるように読みたくなる気持ちに駆られるし、それこそが読書
の楽しみなのだ。そして楽しむからこそ、知らず知らずのうちに副産物として国語力や読解力、理解力、想像力などが身に付くのだ。
 先日、行きつけの書店の本棚をみて驚いた。シリーズものなのであろうか。
「あらすじで読む世界の名作」といったたぐいの本がある一角を占めているのである。

 すじを知るために本を手にしようという読書人はまずいないであろう。
 すじがきはどこまでもすじがきであり、内容そのものではないからである。私たちが読みたいのは、著者(作者)によって選び抜かれた言葉で綴られた話の展開であり、場面場面の描写であり、それらの向こうに見える考えであり、生きる姿勢なのである。
だからこそ、もうすでに読んでしまったあらすじも結末もわかっている本であっても、幾度も繰り返し読んで飽きず、その楽しさを味わうことができるのであろう。
 それはあらすじを読むことでは決して得られない。そうした本が出版され流通するということは、活字文化・文字文化を出版社自らが崩壊させる一翼を担っていることにならないか、と言ったら大袈裟であろうか。また、こうした本を読むことによって知識として文学を理解することはできても、文学に触れる楽しさやおもしろさにはたどりつかないであろう、と思われるのだ。

安易な方策に目を奪われずに、本当に読書好きな子どもを育てるために大人に何ができるか、何をすべきか真剣に考えなければなるまい。
                                                                                          2005/07/22

 




ブームにしたくない日本語ブーム
 

今や空前の日本語ブームである。どこの書店でも日本語にかかわる出版物が平積みにされている。あるものは、日本語の乱れや誤用を指摘し、あるものは日本語を見直そうとし、あるものは日本語を活用することによる効用について語る、といった具合にさまざまなコンセプトをもって著されているものの、日本語を素材としている点では共通している。
 このように日本語を素材としたものがこれほど多く出版されたことはかつてなかったような気がする。まさにブームである。 

 老人が若者の言葉の乱れや誤用に違和感を覚え、間違いを指摘し「なげかわしい」と嘆くのは今に始まったことではないが、私が心配するのは現代人はおおまかで過激な表現をして少しも不思議を感じていないように見受けられる、ということである。
多くの青年が口にする『すごいおいしい』『すごい楽しい』の「すごい」が「すごく」の誤用であることは言うまでもないが、何にでも「すごい」をつけたり『超○○』と「超」をつけて甚だしいようすを表現する人々は多い。若い人たちばかりではない。この数年は若者の影響を受けてか年配の人たちの中にもそのような言葉遣いをする人が目につく。
 新聞を繰れば、週刊誌の広告には『激ヤセ』『極ウマ』などの過激な表現が目立つ。
ひょっとすると、過激な上にも過激な言葉を使わなければそのようすが伝わらないとでも思っているかのようでもある。
 笑い話のようだが、プロ野球が開幕してから何試合も経過していないのに、あるテレビ局のアナウンサーは何を興奮してしまったのか、『今日の試合がこのカードの天王山。』と放送してしまったとか。天王山とはもともと羽柴秀吉が明智光秀を戦で負かせた地名に由来し、最終決戦の『ここぞ』というときに使われる言葉であることは言うまでもない。それが「言葉のプロ」であるべきテレビ局のアナウンサーが、シーズンが始まったばかりであるにもかかわらず「大袈裟」にそう表現してしまったというのは、上の例と通じるものがあると思われる。

 また驚くことに、せっかくおいしいものを食べているのに、『やばい!』『超やばい!』と口々に叫んでいる人々がいる。「やばい」という言葉自体が決して社会の表通りに出てきてよい言葉ではない。もともとが「悪事が明るみに出そうでまずい」とか「失敗が表沙汰になりそうでまずい」というような負の状況を言い表そうとした世の裏側の人間が使ってきた隠語のようなものである。決して肯定的な意味で使われる言葉ではない。
 しかし、言いたいことはわかる。『こんなおいしいものを食べたら、自分が虜になってしまいそうでこわい。これはあまり好ましくない状態だ。それほどにおいしい。』ということを過剰なばかりの表現を用いて言わんとしているのであろう。しかし、そう考えてみても「誉められた言葉遣い」とはどうしても思えない。

 さらに若者の多くは、どうやらほんの些細なことに対してでも「ムカツク」らしい。
 ひょっとすると「ムカツク」以外に自分の不快な気分を表現するすべを持たないかのように、程度の差を無視して「ムカツイ」ているを言う。これでは、「軽くイライラ」しているのか、「ひどく腹を立て」ているのか、「相手を殴り飛ばしたいくらい」怒っているのか、その程度がよくわからない。
 程度の差と言えば、このところよく耳にするのは「ビミョー」という言葉。判断に困る、判断を放棄したい、判断すること自体考えたこともない、あいまいにしておきたい、というときに「ビミョー」と独特のイントネーションで表現する。
 語彙がどんどん少なくなっていき、その分表現が一様になったり、上記の例のように過激になったり、ものごとをきちんと表現できなかったりする傾向がこれからますます強くなっていってしまうのであろうか。

 大雑把で粗雑な、しかも過激な表現でしかものごとを表現できなくなってしまったとき、人間の思考も粗雑なものになっていかざるを得ない。
人間は言葉でものを(当然のことだが)考えるからである。
 自分の思いを適切な言葉で伝えることができなければ、伝わらないことで憤り、過激な言葉で相手を罵ってしまったり、身体的な傷を負わせてしまったりするというおそれもある。言葉を大切にしなければ、コミュニケーションに不具合が生じることは必定だ。
 そのように、短絡的に思考し、安易な結論に安心(あんじん)し、すぐに行動に結びつけてしまうという近頃の若者の傾向は、「言葉を粗末に扱い」「粗雑な言葉による粗雑な思考」しかできなくなったということに遠因がある。
 大島清(京大名誉教授)は次のように言っている。
 「ことば」は本来五感、そして語感を持っている。決して無味乾燥な記号ではない。
 「ことば」は、歩いてきた道によって人それぞれに彩られているものである。つまり、「ことば」は人生そのものであり、その人そのものだ。
  〜略〜
 語感は、そのまま全身の運動(リズム)となる。「ことば」は決して体から切り離されたものではない。だからこそ、「死ね」「殺す」などの乱れたことばを使う子どもは、そのことで大切なものを失いつつある。
 それを避けるためには、まず「ことば」を大切にすることだ。「ことば」はすべての始まりである。したがって「ことば」磨きは人間磨きとなる。そこに教育の原点がある。

 先に述べたように大ブームとでも呼べるような「日本語ブーム」である。これを一過性のブームとして終わらせず、日本人が育て磨いてきた美しい「日本語」、豊かな表現力を持った「日本語」を大切にし、いっそう豊かにしていく社会であり続ける努力のスタートラインとしたいものだと痛切に思う次第である。
 もちろん、日本という社会が日本語の美しさや豊かさを見直し、それをアピールしていくことも必要だが、何と言っても家庭における会話の不足が日常語を学ぶ機会として最適である。アニメや漫画、ゲームといった擬態語の世界にばかり触れていてはコミュニケーションに役立つ言葉を磨く機会とはなりにくい。なりにくいどころか、かえって磨くことから遠ざかってしまう。親子・兄弟姉妹のむつまじい会話の中にこそ言葉磨きの原点がある。そうした身近な機会こそ大切にしたいものである。


                                                                                        2005/09/02




自己評価の重視を

 私は小中学生の頃、『わかった、理解できた』と思えていないにもかかわらず、テストでよい点数を取ることができ、しかも先生に『がんばったね』などと褒められたりすることもよくあり、勉強やテスト、それに付随する成績に何となく手応えのなさを感じていた。 
 テストで高得点を取ったことを自慢しているのではない。そうではなく、確かな手応えを伴って『わかった、理解できた』と思えることが少なかったということを思い返しているのである。しかしまぐれなのか偶然なのか中途半端な高得点を取ってしまうことが重なったためか、成績は決して悪くはなかったのである。
 通信簿などに『よく理解できています』などと書かれているのを見ると、『そうではないのだが』と思うことがよくあり、後年『小中学校の成績などあてになるものではない』と思う一因になっているような気がする。

 『わかった・わからない』という理解の程度と内容は、テストという断片を切り取るようにして診断する手段ではかほどさように見えにくいものであり、第三者には容易に推測できないものだと言えるかも知れない。
 『わかった』かどうか一番よく把握できているのは学習者本人であり、その意味では、第三者が『君はよくわかっている(わかっていない)』と軽々に判断するのは避けられるべきなのかも知れない。テストでよい点数が取れたからと言って確かに理解できているとは限らないからである。
 何よりも大切なのは、学習者本人がまるで歯車と歯車ががっちりと組み合わさったかのような「確かさ」を感じることができ、『なるほどそうか』『これこれこうだからこうなるのだ』『だからこの場合はこうなのか』と曖昧さを脱することができたり、自分なりの言葉で説明したりすることができる『わかる』を味わうことなのだ。
 本来、子どもは(というより人間は)『わかりたい』存在なのだ。
 以前読んだ本の中に、以下のような文章があった。

○不思議や疑問はいっぱいあった。でもいつのまにか感じなくなっていた。だって、 覚えるだけでいい点とれたから。(木戸小百合、学生、22才、愛知県)
○先生へ
 「わかんない」から「つまんない」
 「つまんない」から「やる気がない」
 そんな私の態度に、先生ムカついているんでしょ!?
 だけどね先生、私だって「わかりたい」んだよ(Y・M、16才、山口県)
            「何とかしなくちゃ今の教育」ライフ企画 p.18..19

  『わかりたい』という欲求を充足させ、『わかる』ことをめざして取り組む中でこそ、「学習することを学習する」こと、すなわち「問うことを学ぶ(学問)」も可能になる。 そしてそこでは、自分のとった手段についてそれが適切だったか、達成状況はどうか、未だ不明なことは何か、克服されるべきことは何か、といったことについて「ついつい」自省的に振り返り確かめたくなってしまう心の動きが生じるものである。それは換言すれば「自己評価」をするということである。
 先日の読売新聞「学びの時評」欄で堀田力(さわやか福祉財団理事長)が長野県真田町の習熟度別クラス編成の実践事例を挙げ、次のような提言を寄せていた。

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  〜略〜
  数学・英語は生徒たちの習熟度に応じてクラスをABCに分ける。
  これは危険な作業であって、Cクラスに入れられた者は時としてやる気をなくし、
  Aクラスの生徒をいじめたり、非行に走ったりする。
  ところが、真田町ではそういう現象はないという。
  「どのクラスに入るかは、生徒たちがまったく任意に、自分の意思で決めるから
  です」というのが答えであった。
  子どもたちであっても、自分で決めたことの責任は自分で取るのである。

                                               2005.12.05
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 ここでは「責任」ということばを用いて説明をしているが、自分の『ほんとうにわかりたいこと』を目の前にしたとき、大人であっても子どもであっても「自分はそのことについてどの程度に理解できているか」について謙虚に真摯に受け止め、本当の理解を求めて動き出そうとするものである。
『わかった』かのように振る舞ってみても、あるいはそのように自分をごまかそうとしても、ほんとうの理解にはたどり着けないことがわかっているからである。
 自分の判断(自己理解)に立った自己の意志でクラスを選ぶということによって、そうした心の動きが無理なく保障されるということは想像に難くない。
 『わかる』ということが目的であるから、学習の過程でどのクラスにいたかということは問題ではない、要は最終的に結果として『わかる』にたどりつければよいのだ、という指導者と学習者共通の理解があるからこそこの町の子どもたちは「自分の意志で」クラスを選ぶことができるのであろう。
 仮に、自分の判断ではなく、第三者(例えば教師)の判断で、『あなたはAクラス』『あなたはCクラス』と言い渡され、そのクラスで学習することを余儀なくされた場合のことを考えると、この例のように成果を上げることができたかどうか疑わしい。
 子どもは「自分なりの納得(わかる)」を求めているのである。
 この例はそうした欲求にうまく応えられたよい例だと思われる。

 そこで大きなエンジンとして働いているのは、自己理解すなわち自己評価であることは言うまでもない。
 これからの学校ではメタ認知、モニタリングとも呼ばれる「自己評価」が大切にされなければならないし、自己評価することのできる子どもを育てなければならないとつくづく思うのである。なぜならば、生涯学習社会で生きて働くもっとも重要な力の一つだからである。

 




年頭に際して考える

 教育に寄せられる期待は、社会の変化や動きに伴う経済界・産業界からの要請と無縁ではないらしい。人間が自己の成長のために「学ぶことを学ぶ」という学習の本質と経済的な発展に貢献するために学ぶということが、ときに結果として合致することはあるだろう。 しかし、物質的に豊かな社会の実現のために学ぶ、あるいはそうした社会の実現に寄与できる人間を育てることが教育の目的であるから、そうした社会の要請に教育は応えるべきだとする経済界・産業界の動きは一面的な見方でしかない。

 新年を迎え、あるテレビ局のワイドショーで高額な福袋が例年になく注目されているという報道をしていた。また他の局ではある
デパートの福袋を購入しようという大勢の人々の様子も放送されていた。そして口をそろえたように『不景気は脱した』と、そのことがすこぶる喜ばしいことのように伝えていた。
 こうしたことからもモノを「持つ」ことが豊かさの象徴であるとする思いこみが未だに日本社会を覆っているように見受けられる。

 近江商人の哲学として伝わる言葉に「三方よし」があるという。「売り手、買い手、世の中」の三方にとってよい商売をすることこそが商人としてあるべき姿として望まれたということであろう。
 昨年暮れから世の中を震撼とさせたマンションやホテルの強度偽装の問題は、売り手やつくり手の自己のみを富まそうとしたエゴが引き起こした問題であると言える。
 80年代のバブルが崩壊し、浮薄な風潮がもたらす痛手から苦い教訓を得たにもかかわらず、相も変わらず「持つ」ことに執着する心情は根強いようで、株価の上下に一喜一憂したり、景気の回復に躍起になったり、GDPを伸ばすことが至上命題であるかのように訴えたりする姿が目につく。

 モノを「持つ」ことに対する欲望には限りがない。すでに満たされているにもかかわらず、そのことに気づかずなお他人と同じモノを「持とう」、できればそれ以上に「持とう」とするこだわりの心が不満を生み、持てなければ『もうだめだ』『不幸きわまりない』という思いこみにまで人を追い込んでしまいかねないことが懸念される。
 経済大国と呼ばれ、自らもそれを誇り、モノが豊かにいきわたり、それらを持つことができ享受できたからと言って、幸せを実感でき心まで豊かになれたか、そしてそのことによって成熟した市民になり得たかと言えばそうは言えないし、モノを渇望する心がいっそう激しくなったという意味で却って「貧困さ」を露呈してしまったということについてはつい十数年前のことを振り返ればすぐにわかることだ。

 「持つ」文化が地球規模で森林の減少や砂漠化、希少動物絶滅化の危機、外来種による在来種の駆逐、水産資源の枯渇といった自然破壊の動きを助長し、温暖化を招き、ひいては人間自身にしっぺがえしが来るといった「持続可能な社会」をめざす動きとは対極の悪しき影響をもたらしてきた。
 この冬の東北・北陸地方の大雪による災害も、聞くところでは地球温暖化を遠因とした極地付近の海水温の上昇とそれに伴う低気圧の発生、及びジェット気流の変化なども一因として考えられるという。

 「持つ」文化の命題は、他よりも優位に立つこと、他との競争に勝つことである。
 そうした考えが教育界にも波及し、「持つ」ことに軸足のかかった教育を施すべきだとする要請に応えようとするならば、教育はもとより社会にとって危ういことになるのではないかと懸念される。
 そうした「持つ」ことにウェイトをおき、「持つ」という一元的な価値観に縛られた「持つ」文化からもうそろそろ抜け出す必要があるのではないか。持続可能な社会をめざし、他との共生を図ろうとするなら、「持つ」文化から「在る」文化への転換が必要だと思うからである。一人一人の人間が自覚ある市民として自己を成長させ、「世の中よし」に貢献できるようになるためにこそ教育の大切さが浮き彫りになる。自分の外側に衣服やアクセサリをまとうように知や技を身につけるのではなく、自分の内に「在る」ものとして知や徳を育てることのできるような人間の育成をこそめざすべきであろう。

 身にまとったものはいつ剥落しても不思議ではないが、自分の内に「共に在る」ものは容易に失われることはない。昔からよく言われるように『メッキは剥げる』のである。
 対象と共に在ることこそ、人に生き甲斐ややり甲斐を感じさせるものであり、人間としてのよりよい成長をうながすものであることを考えると、社会の一面的な要請に応えることとは別の次元で教育の本質を見きわめ、めざす方向を見誤らないようにしたいものである。




考えることの大切さ
 私たちは、身の回りでさまざまな出来事が起きたりそれに伴い環境に変化がもたらされたりすると、何とかその状況や原因を「わかろう」とし、考えをめぐらすものである。
 『どうしてこのようなことが起きるのか』『このような事態を引き起こす人の心情とはどのようなものか』『何がそうした行為に走らせたのか』と自分が納得できる説明を求めて、あれやこれやと考えたり、考える手がかりを得ようとする。

 神戸で榊原事件が起きたときもさまざまな解釈や説明がなされたが、あの少年はどうしてあの事件を引き起こしたのか、あの事件はいったい何だったのか、といったことについて深いところで納得している人は決して多くはないであろう。
 つい数ヶ月前に、高校生の少女が母親に毒を盛って殺害しようとした事件が起きたときも、学校では優秀で将来優れた科学者になるかも知れないと思われたほどの少女が、実の母親を殺害しようとした動機は何だったのかについてさまざまに言われたにもかかわらず、わからずじまいであった。

 そうした不可解な事態が起こると、よくその道の専門家が何とかその原因を説明しようとして「○○症候群」によるものだと訴えることが多い。
 「○○障害」「○○症候群」と名前をつけて説明されると「わかった」かのような気分にはなるものの、その実ほんとうのところではわかっていないということは多いのではないだろうか。
 私たち人間は、「わからないこと」に対して根元的な怖れを抱く存在のようであるが、専門家と言われる人から『これは「○○障害」によるものだ』と説明されると、とりあえず「わからない」ままにしておくこともできないという抑圧から逃れることができ、不安を解消することもできるのだが、実は納得できていないことが多いと思われるからである。

 名前をつけ、わかったかのように思わせてくれる説明は、そうした意味で「見て見ぬ振り」をし、安心を得るための応急措置のようなものなのかも知れない。
 いま自分が持っている知識や説明、解釈では解き明かせない(説き明かせない)ものについては、とりあえず「わかったかのような気分」にしてくれる「○○障害」
「○○症候群」などの名前を用いた説明で「わかった」ことにしておこうという、「わからない」恐怖から逃れる手段となっているのではないかと思われるのである。
 わけのわからない不可解な出来事に遭遇すると、どうやらそれに対する驚きと恐れのために、一瞬目をふさぎ「わかったかのような気分」にしてくれる説明を得て思考停止の状態になってしまうのではないか、とも思われる。
 であるから、ある事態に名前をつけてひとくくりにする、ということはそうした危険をはらんでいるということも私たちは覚悟しておく必要がある。

 それはともかく、科学(脳やこころの科学も含めて)が人間のすべてを説明できているわけではない。音楽を聴くと心地よいと感じるのはなぜか、という問いにさえ十分な説明がなされていないのが現状で、もともと人間とは「未だにわからないもの」「そう単純に説明しきれないもの」なのだという前提に立たなければ、本当の意味など見えてこないのかも知れない。
 見た目には同じ人間の姿をし、同じ言語を持ち、同じ行動様式を持ち、同じように喜び、悲しむからこそ余計に見えにくくなっていることもあるかも知れないのだ。
 理解不能だからこそ理解しようと努めるのであって、安易な解釈、「わかったかのような説明」で「わかったかのような気分」になって安堵せず、「実はわからないのが当然なのだ」ということを前提に、『ほんとうはどうなんだ?』と自らの納得を求めて自らの力で考えることが必要なのではないだろうか。
そうできてはじめて、借りものの言葉ではなく自らの言葉で説明(説き明かす)することが可能になり、意味のある「わかり」に達することができるからである。




「変な日本」について考える

 今日(2006.01.11)の朝日新聞の一面トップに次のような記事が掲載されていた。

   小中高校で、授業や補習、進路指導などを予備校や進学塾に任せる「外注化」が首都圏を中心に広がっている。東京都港区の区立中や
   江東区の区立小では塾の先生が教える。高校の場合はさらに進み、大手予備校が大学進学向けの授業などに講師を派遣し、受験用の
   カリキュラムづくりも請け負うところもある。「学力低下」が指摘されるなか、成績向上などの実績で特色づくりに熱心な学校側と、少子化で
   冷え込む市場の拡大を目指す塾・予備校側の利害が一致している。


その記事の中では、江東区のある小学校で、驚くことに高学年の算数の正規授業で塾の講師が年間の算数の授業のうち半分近い時間を担当して教えると伝えている。
 言わずもがなのことであるが、塾の講師は教育の専門職ではない。彼らは、入試合格の請負人として、受験のワザと策を子どもたちに伝える「技術」に長けてはいるかも知れない。しかし、教育に対する深い理解と考えを基盤に「生きて働く力」としての真の学力を育てる教育活動が展開できるとは思えないし、それを期待するのは間違いである。
 教育の専門職としての教師の何よりの務めは、子どもを「学びに導くこと」である。
 「学ぶ」とは、単にペーパーテストでよい点数をとるために習い覚え、記憶することではない。ましてテストが終わってしまえば「もう必要のない知識」として忘れ去られてよい個々バラバラの知識をため込むことでもない。
 ものの見方や考え方を自ら養い、生涯にわたって「問い続け」「学び続け」ることのできる力を身につける行為である。そして学んだことが「生き方」「人間としての在り方」にまで影響が及ぶような「知性」あるいは「人間としての智恵」を自らの内に育んでいく活動なのである。

 義務教育諸学校の教師はもとより高校の教師は、そのために研鑽と研修・研究を積み重ねてきたはずであり、そのことに関して専門職としての誇りも持っているはずである。
 受験のワザを備えた子どもを育てることが学校教育の目的であるとするならいざ知らず、教育行政がこうしたことを認め、あるいは推進しているとするなら、学校教育そのものについての理解がすこぶる浅薄であることを露呈していることの現われではないか。
 行政までもがこのような底の浅い理解しかできていないとすれば、何ということかと慨嘆せざるを得ない。
 何か日本は「おかしい」「変な」状況に陥っている。

 「おかしい」と言えば、今日のTVニュースショーでは、各局とも「ミナミマグロの漁獲高が制限されることになった。大トロが高騰する。食べられなくなるのでは。」といった趣旨の報道をしていた。
 これも変ではないか。
 どうしてもマグロを食べなければ生きていけないのであればいざ知らず、たとえマグロが高嶺の花になったところで何も困らないではないか。
 日本、オーストラリア、ニュージーランド、韓国で締結しているみなみまぐろ保存委員会は、絶滅の危機にあるとして漁獲高を制限しようとしているようである。

 ある資料によれば、日本は約220万トンのマグロ類漁獲量のうち約3割を食べる世界一の消費国であるという。うち9割の50〜60万トンが刺し身用で、日本で高い単価で消費するため、世界中から日本市場へ輸出されているのだそうだ。さらに、そうした日本の消費拡大に引きずられる形で問題が起きており、昨年はトルコや中国では違反操業をしてまで日本へ輸出をし、それが発覚したという。

 情けないことではないか。日本人は、おのれの食欲を満たすために、世界中の海産資源を枯渇させても見て見ぬ振りをしようとしているのだ。その証拠が、今日のニュースのように『高騰して大トロが食せなくなったら困る』といった論調によるメディアの大騒ぎなのだ。聞くところでは、マグロに限らない。エビも日本が最大の消費国で、日本に輸出するために世界各国がしのぎを削って漁獲量を確保しようとしているらしい。資源の枯渇が懸念されることから、漁獲高を制限しても日本に高く輸出できることから不法な操業をする業者が後を絶たないという。

 牛肉も大トロも大きなエビも、いわば贅沢品ではないか。それらを食べられなければ命を失うといったものではない。食べるものは身の回りを見渡せば、自分の身の丈にあったふさわしい食べ物がいくらでもあるではないか。なぜ、そんなに大騒ぎをして扇動しようとするのか。
 日本人が向かおうとしているところに『ちょっと待てよ、おかしくはないか』と疑念を抱くのは私独りではあるまい。
 このような社会で育つ子どもが志を高く持って堂々たる市民として生きていけるようになるとは思いにくいのが現在の我が国の状況であるし、こうした国を「愛する
心」が自然と育つとは思えない。愛国心の育成が新しく策定される教育基本法に盛り込まれようとしているようであるが、国を愛する心は『愛しなさい』と言われて
持てるようなものではない。その国で生活し、その国のよさが実感できてはじめて自然に芽生えるものなのだ。
 どうも日本という国は、さまざまな事柄が短絡的にそして安易に進行してしまう危うい国、「変な国」であるように思えてならない。




競争主義を見直す視点を
 
 一人の一級建築士により構造計算書が偽造されたことが発覚したことから始まったいわゆる「耐震偽装問題」は、年が明けてもその疑惑が解明されぬばかりか全容が未だ見えない状況である。
 いくつかの企業が組織だって、そして悪意をもってしたことかどうかは別として、自己の目先の利益を求めることにのみ拘泥し、顧客の安心や安全を脇に押しやって企業活動を展開したことによる当然の帰結なのであろうが、これは企業として当然持つべきはずであるところの「倫理の欠如」が引き起こした問題であるともいえよう。

 そうした中、今度はライブドアによる証券取引法違反事件がマスコミをにぎわしている。
  「ヒルズ族」「時代の寵児」「勝ち組」ともてはやされたIT企業の青年社長が、『金と数字は皆の共通言語。一番分かりやすい物差しだ』として「もうけのカラクリ」を駆使し、世の中を欺いてまで自社にそして自己に利益をもたらすことに躍起となったことが、こうした事件の背景にあることは疑いようがない。
 そもそもIT企業とは、ITを生かして生産的な活動をし、生産活動を通して産み出される製品によって社会に貢献する企業を指すのであって、実態のない株のやりとりで利を生むことを目的とした「ITを活用するだけの企業」を指す言葉ではない。
 ましてや、その利で他の企業を買収し、そこで生まれた利を自己に換言して自らを利する企業のことを指していう言葉でないことは言うまでもない。
 ライブドアのような会社をIT企業と呼ぶのがふさわしいかどうかは措くとして、これら二つの事件の根底に共通項としてあるのは、浅薄な「新自由主義」に立つ考え方ではないかと思われる。

 新自由主義(neoliberalism)とは、政府の機能の縮小(ダウンサイジング)と、大幅な規制緩和、市場原理の重視を特徴とする経済思想であり、そこでは政府の過度な民間介入を批判して、個人の自由と責任に基づく競争と市場原理に重きが置かれるという、市場万能、競争万能の思想である。
まさに現在の日本はその風潮のまっただ中にいるのだ。
 大幅な規制緩和により、「官から民へ」の流れが強調され、『民でできることは民へ』が合い言葉となったことは記憶に新しい。
 「官」ならば第三者の立場で厳しく評価し、社会にとって不都合なことを排除したり制限・制止することが期待できるが、「民」にあずければ企業の論理が働き、社会にとって不都合なことであっても自社の利益を優先しようとの考えが働かないとも限らない。市場における自由競争とはそうした危険を大いに孕んでいるのだ。
 
 今回の「耐震偽装問題」も検査機関が民間企業であってもしっかりその機能を果たしていれば何件かは防げたのではないか。
 また、個人の自由な競争が標榜されたことが、あらゆる手段を駆使し自社をそして自己を利することが「勝ち組の証」であり、そうした競争に負けたものは淘汰されて当然の「負け組」であるとの考えを生み出す土壌になっている。そうしたことが、実態のないものをやりとりし、そこで生じた利がまた利を生むカラクリを考え出し、何をしても「勝てばよい」とする例の青年社長のような存在を生み出す基盤となっている。

 そうしたことから、これら二つの事件の背景は同じだと考えられるのだが、新自由主義について、「国民の生存権の保障」を、「『サービス』という名の営利事業」に変えたとの指摘がある。つまり、従来は民(=大企業)だと撤退する準公共財の供給事業を官が補完していたが、新自由主義はそれを否定し、「民(=大企業)こそ絶対だ」という単一の発想に基づいているという指摘である。
 小泉政権下で進められた小選挙区制の導入、平成の市町村合併、郵政省の民営化などの構造改革もそうした流れの一環で行われていることなのだ。
 その流れの中では、人材派遣に象徴される労働者の使い捨て、「不良債権の処理」と称した中小企業潰しが横行し、「大企業は盛えて民(=労働者)は滅ぶ、首都は盛えて地方は滅ぶ」の二極分化が急速に進むと予想する論者もいるという。
 そして日本国内の評価とは全く正反対に、新自由主義的な政策で国民経済が回復した国は実際には存在していないし、債務国の再建策として新自由主義的な経済政策を推し進めていたIMFも、2005年、その理論的な誤りを認めているというのだ。

 このような動きは政治・経済の範疇だけの話ではない。教育界も無関係ではないのである。
 その象徴的な動きは、2004年10月5日の閣議後の記者会見で、当時の中山文部科学省が『学校でもこどもたちが競争意識を高め…切磋琢磨する風潮を高めたい』という趣旨の発言を行ったり、さまざまなメディアが「ゆとり教育(この言葉が現行の指導要領の趣旨にふさわしいかどうかは別にして)」を批判し「競争の教育」を無批判に礼賛している状況からも窺える。
 イギリスではサッチャー政権下でこうした競争主義に基づく教育改革が行われたが、その弊害が浮き彫りになり、その反省のもとで大きな変化の兆しが見られるという。
 競争がほんとうに学力を保障し学びを助長することになるかどうか、私たちはしっかり見据えて教育に当たらなければなるまい。




「競争原理」に立つ教育の危うさ

 残念なことに、これから日本の教育や学校は否応なく「競争」せざるを得ない時代になりそうな気配が濃厚である。それは、中央教育審議会に提出された前中山文科省の私案「甦れ、日本!」からも強く窺える。
 そこでは、これからの時代は『国際的「知」の大競争時代』であるから、国家戦略としての教育を展開しなければならないとし、具体的には「競争意識を涵養」し「全国学力テストを実施」するなどして「学力を世界のトップに押し上げ」ること、教員の質の向上などを柱として挙げている。
 つまり、競争させれば学力が向上するという発想がベースにあり、これからの教育改革の中心理念として「競争」が据えられたということである。
そこで考えなければならないのは、ほんとうに競争させれば学力は向上するのだろうか、ということであろう。
 
 ここで思い起こされるのは、政府の推し進めてきた新自由主義に基づく市場の競争原理がライブドアの堀江前社長に象徴される「金銭至上主義」がまかり通り、一方では自社に利益をもたらそうと数社がからんで起こした「耐震偽装問題」が出来するなど、人間の価値観や行動基準にまで大きな影を落としてきたことである。
 自由に競争することを是とする新自由主義のもとでは、「勝ち組」になることが求められ、勝つためならあらゆる手段をつくして(時には法の不備を利用し民を欺いても)良いではないか、それを考え出せないのは愚かな「負け組」の証であるとするような誤った考えを持つ市民を現出させることも危惧される。
 人が「生きる」ということは、決して「勝ち負け」の次元で論じられるべきではないにもかかわらず、「競争」が建前として認められれば、どうしても「勝ち負け」に目が奪われ、他に勝つことが大切なこととして意識されてしまうことは止むを得ないし、上に挙げた二つの事件もそうした背景と深く関わっているという認識を持つべきである。

 そして重要なことは、教育改革で言われるところの「競争」と市場の競争原理で言われるところのそれと、分野は異なるとは言え全く無関係ではない、ということである。
 前文科省の言うところの「知の大競争時代」とは、単に「知」をめぐる競争ではない。 それは、「国際的」と冠されているように国家間のサバイバル競争を意味し、他国と競い合って「世界のトップ」に立とうというねらいを持っている。しかも、私たちの目に見える形で求められるのは「国内における競争」であり「学校内における競争」ということになるであろうことは避けられまい。
国内の学校同士を競い合わせ、学校に教育向上や教育改善の努力をうながし、全国の水準向上をめざそうとしたのがイギリスのサッチャー政権であった。そのためにナショナル・カリキュラムを導入し、それに基づいて全国統一テストによる学校評価を実施し、学校種ごとに全国ランクづけをし、毎年それが新聞などで公表されたという。トップ10とかワースト10などの学校も掲載され、成績が悪く生徒を集められない学校も「閉校しそうな学校」として実名で発表されたと言われている。

 その結果、それぞれの学校は他の学校よりも「良い」学校となり、生徒(親)から選ばれる学校となるための競争に走らざるを得ない状況に追い込まれたという。
 競い合うことで、どの学校も同じように教育効果を上げることが出来ればそれに越したことはないが、競争は自ずと差別化を生み、学校間格差の拡大が弊害として浮き彫りにならざるを得ない。また、競争に勝つために、自校の成績を上げるために好ましくない成績の生徒を安易に切り捨て退学させる学校が現れたり、校長自らが全国テストの答案を捏造したりするという異常な事態も生じたという。
 何よりも教育体制が「テスト志向」となることで、学校の教育文化に好ましくない弊害が出てきたという。
 学校にも生徒にも『他に勝つ』ことが強いプレッシャーとなってのしかかり、互いに孤立してしまったのである。そうした「競争原理」による弊害から見直しを迫られているのが今のイギリスの現状であると言われている。

 一方、競争原理によらない教育を展開しているフィンランドは、2003年の調査で読解力と科学的リテラシーで世界一となり、数学的リテラシーでも問題解決能力でも優秀な成績を修めている。
 フィンランドでは、それまで実施されてきた習熟度別クラス編成を1985年に完全に廃止したとも言われている。競争に依らず、日本がこれからいっそうの導入を図ろうとしている習熟度別クラスにも依らず、なぜそのような高い学習能力を養うことができているのだろうか。
 フィンランドでは「なぜ学ぶのか」ということが重視され、学習とは児童生徒が自分の人生に必要な知識を自ら求め、知識を構成していく活動として意味づけられているという。 社会の中で自分の将来を考え、社会的意義を意識しながら学習をすれば、当然競争などしなくても自然に学習できるであろうし、ここで求められているのが社会的実践能力であり、テストで期待される「正答が一つに限定される知識」ではなく、正答がいくつもあるものなので、互いに教え合いながら学んでいくことが可能になる。
 学びの目的はよい高校やよい大学に入ることといった無味乾燥なものではなく、自分の将来を築き上げることと直接結びついており、「生きる」ことと密接不離なものとして意識されていることが力強い学習への動機となっていることが窺える。

 もともと「学ぶ」ということは、他者との関係で強化されるものではなく、対象と自己との関係で強く動機づけられるものである。対象の持つよさに感動し、驚き、不思議さに目覚め、それが動機となって対象に働きかけ・働き返される活動を通して自己との関係をつくり上げていくことが「学び」なのである。
 切磋琢磨とは、「競い合い」「相手に勝つ」ことではなく、互いに磨き合って「君も僕も共に」対象により近づこうとする姿をいう言葉である。競争意識を涵養し、サバイバルな競争に打ち勝つことをめざしていたのでは、ほんとうの意味での「知力・体力・品格・教養」を備えた日本人を育てることは到底かなわないであろう。
 安易な競争を学校に持ち込むことでさまざまな弊害が予想されるし、それが教育本来の目的、例えば新渡戸稲造の言う「品性の確立」、司馬遼太郎の言う「たのもしい人格」を育てる上で、決して好ましくない影を落とすであろうこと、対極に立つ方向に向かってしまうであろうことは想像に難くない。



教育基本法改正について考える
 

 教育基本法を変えようという動きがある。
 文部科学省のホームページでは、次のように述べられている。
    ***************************************************************************************
     教育基本法は、すべての教育法令の根本ともいうべき法律で、全体で11条から成ります。昭和22年の
     制定から現在に至るまでの58年間、一度も改正されていません。
     この教育基本法について、中央教育審議会は、平成15年3月、今日的な観点から教育の重要な理念
     や視点を明確にすることが大切であり、そのために教育基本法を改正することが必要であるとする答申
     をまとめました。
     文部科学省では、現在、この答申を踏まえ、教育基本法の改正についての国民的な理解を深める取組
     を行っているところです。
    ***************************************************************************************
 教育基本法は、戦後民主主義をスタートさせるに当たって「高い理想」を掲げ「高い理念」を見事に盛り込んだ世界に誇ってよい 法律である。
 それは、『われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。』という「前文」からも窺える。

 他の法律では見られない「前文」を特別にそして例外的に持っているということは、この法律は憲法と同等、あるいはそれに準じるもの、教育に関して言えば憲法と同列に位置づけられてしかるべきものなのだ。
それだけではない。この法律にこめられた内容は、当時でも今でも「教育思想の最高の到達点」を示したものであり、まさに世界に誇ってよい法律なのだ。

 その第一条には、「教育の目的」として次のように掲げられている。
  『教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任   を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。』
 今言われている教育基本法改正の趣旨は、「今の子どもは、倫理観が希薄で自己中心的になってしまっている。望ましい国民に育てるために、愛国心や道徳心、奉仕の精神や社会国家に尽くす心を養うべきだ」という観点で構築されている。
その意味で「国家・社会の一員」を育てるということに教育の目的の根幹を置いていると言って良い。
 しかし、教育基本法ではそれを「国家及び社会の形成者」という言葉で表現しており、日本という国及び社会の担い手であり、つくりあげていく主体としての人間の育ちをめざしていると言える。

 1989年に発布され、日本も1994年に批准した「子どもの権利条約」でもベースに流れている理念は、端的に言えば「子どもであっても、それは保護されたり監督されたりするだけの存在ではなく、一人の独立した主体であり、市民としての権利も自由も持ち、国や社会を担っていく力を持った存在である」ということだろう。
 その「子どもの権利条約」発布に先立つこと42年も前に、「国家及び社会の形成者」という言葉を用いて主権者としての子どもの育ちを保障しようとしたということ一事をもってしても、この法律が高い理想と理念、教育観に基づいて制定されたということがわかる。

 それでは、この誇るべき特別なそして憲法を除いたどの法律よりも上位にある法律を変えなければならない事情、あるいは「今日的な観点」と何なのだろうか。
 つきつめてみるとそれは「愛国心の育成」という問題なのではないかと思われる。
 歴代の文部大臣、あるいは政府の中枢にいた人たち、また自民党の政治家などが一貫して言い続けてきたのが「教育基本法は戦後、占領軍から押しつけられたものだから欠けているものがある。それは愛国心の問題だ」ということだ。愛国心を「国を愛する心」と言い替えてみたところで中身は変わらない。何とかして「国を愛させたい」のである。
 国を愛させ、国家の一員として愛する国のためなら自己犠牲も惜しまない、国の管理や統制にも従順な国民としての人間を育てたいという意図が露骨に見える。

 国を愛する心というものは、『愛しなさい』『愛すべきものだ』と言われて芽生えるものではない。それは自然に育つところの心情だからだ。『この国に生まれて良かった』『この国で生きることができて幸せだ』と実感できてはじめて自ずと生まれる心情なのである。そうなるためには、国が「愛される国」「生まれて良かったと思える国」になることが先決であるはずなのに、それを棚上げして『愛しなさい』というのは本末転倒である。
 それは、この国がほんとうの意味での「愛国心の育成」などめざしていないことの証でもある。「愛国心」という錦の御旗のかげに何か違う意図が見えて仕方がないのである。 他の国との競争(政治面や経済面で)に打ち勝って、アメリカと共同して世界秩序を守るような国になりたい、国際貢献ができるような国になりたい、軍事面でも貢献ができればなお良い。そのためには教育が必要だ。それも世界をリードできるような一握りのエリートがいれば良い。競争に勝てないような人間は負け組として従順であればよい。そうした格差はあって当然だ。などのうわついた日本の現在の姿や議論の端々から垣間見えるのは、教育を国の都合、あるいはそれを支える経済界の都合で舵取りをしようとする意図のようなものだ。

 そうしたことに不都合だからといって、世界に誇るべき平和憲法、その精神を色濃く受け継いだ教育基本法を簡単に変えてしまって良いのだろうか。また、そのようなうわついた議論をもとにした論理でほんとうに「国民の理解」が得られると文部科学省は本気で考えているのだろうか。
私は政治家ではないし、政治というものをニュートラルな態度で見ているものの一人だが、日本で起きている社会問題、教育の問題、家庭の問題は教育基本法を変えたからといって解決できるものではないと切実に思っている。とりわけ「愛国心の育成」などは法律で何とかできる問題ではない。ほんとうの愛国心を持ってもらいたければ、国が国民に愛されるようにならなければならないし、国民を守れるような国に日本がならなければなるまい。国家の基本は何よりも「国民を守る」ことなのだから。




小学校への英語教育導入について考える
 小学校に英語教育を導入し必修化しようとの動きが急である。
 文部科学省は、中央教育審議会の専門部会が小学校の英語教育必修化を提言したことを受け、来年に向けて改訂作業が行われ学習指導要領に盛り込まれる見通しである。

 提言によると、5、6年生を対象に週一時間程度の英語の授業を想定しているようだ。 グローバル化が必至のこれからの社会では、英会話にたけ外国人とコミュニケーションを図ることができ、世界で活躍できる人間が望まれるとの考えによるようである。 
 確かに英語は国際語である。そして日本の英語教育は「会話力」がずっと議論の的になってきた。
 しかし、英語は話せても肝腎の「主張=言いたいこと」がなければ、そして「考える力」がなければ自分の考えを相手に理解してもらうことは難しいであろう。
  「会話力」をつけさえすれば何とかなる、というような底の浅い理屈で学習指導要領改訂がなされるのだとすれば日本の教育は危うい。
 仮に「英語をネイティブのように自国語のように自在に操って聞き話すことができる」人間が尊ばれるのだとすれば、英語の通訳が最も尊ばれる人間であり、その通訳の力を借りて意見を述べている当の人間はそれ以下だということになってしまう。
 言語は「考え・まとめ・伝える」手段である。そして同時に人間にとってアイデンティティの基となる文化そのものなのだ。

 江戸期に漂流民となりアメリカ人に保護され、アメリカで教育を受けたジョン万次郎が市民として対等に遇され、航海の勉強をして一人前の船乗りとして市民から敬愛を受けたのは英語を覚え話せたからというだけではない。それ以上に少年時代に生きた日本で受けた文化のバックボーンがあったからだ。
しかも彼は漁民である。漁民とは言いながら付近の漁師に雇われて鰹釣りの手伝いをするといった程度の少年漁師である。
 しかし、彼はアメリカの学友が『万次郎は恥ずかしがり屋で物静かな少年だったが、それでいて立ち居振る舞いは堂々として、紳士らしく、またABCから高等数学までクラスの成績はトップレベルだった』と述懐しているように、文化に支えられた人間としての確かさを持っていたからこそ敬愛されたのだろう。
万次郎が生活したフェアヘブンの人々は「万次郎は、今でもフェアヘブンの誇りだ」というように、町の高等学校では郷土史の時間に万次郎のことを学ぶのだそうだ。
 それはひとえに万次郎の人間性や知性、教養など人間としての資質に因るものだ。
 だからこそ英語を用いても自分の考えを話すことができ、それで町の誇る一人前の船乗りとして認められたのだ。
 単に英会話ができたというだけのことではないのだ。
 
 それは、やはり江戸末期に伊勢白子から船出し、十年にわたるロシア漂流の記録「北槎聞略」を書き残した大黒屋光太夫にしても同様である。
 光太夫がイルクーツクで日本語学校教師に迎えられたり、ロシア皇帝エカテリーナに拝謁を許されたりしたのも、(ロシア側に日本を望もうとする事情があったにしても)彼が非常にしっかりした人柄であったこと、鋭い観察眼や確かな考えを持っていたことに因るところが大きいであろう。

 他国語で話せることが偉いのではなく、たとえ片言であっても自分の考えや信念をしっかり語れること、その方が偉いのだということは上の二つの事例を見ればわかることだ。
 内容のない日本人が得意の英語で軽薄なことを言ったりすれば、尊敬されるどころか軽侮されることは疑いようがない。
 「英語か日本語か」といった二者択一の議論をするつもりはないが、母国語はすべての知的活動の基盤である。
 粗雑な日本語をもってしては粗雑な思考しかできはすまい。
 国語を学ぶということ(それは他国語でも同じことだが)は、ものの受け止め方、見方、考え方を学ぶということなのだ。
 それは誰しも経験したことであろうが、英語を学ぶ過程で『なるほど、イギリス人やアメリカ人はこう捉えているのか』と気づかされたことが多々あったし、それで考え方を理解できたことが多かったことからも窺える。
 言語は単に「伝達の道具(あるいは手段)」ではないのだ。

 そして「英語がうまければ国際人になれる」という現在の風潮は大きな誤解だということに私たちは早く気づかなければなるまい。
 国際人になろうとすれば、自分の国の歴史や文化は言うに及ばず他国・他民族の歴史や文化についての深い理解をすること、そしてそれらについて高い見識を持つことの方がよほど大切なのだ。
 (余談であるが『見聞を広める』と言いながら、訪れてきたはずのハワイの場所を世界地図上で指し示すことができない若者たちの姿は何をかいわんやであるが、見聞を広めることが見識を持つことにつながらなければ何の意味もない。が、それはさておき。)
 そこで、私たちは確かな日本語でしっかり考え、わかり、語り、伝え合うことを通して自分を築き上げていくことができるような教育活動を展開しなければならない、と考えるのである。

 まずは『ヤバイ』『キモイ』『ビミョー』『ウザイ』などの形容詞や形容動詞に類すると思われる若者言葉、果ては擬態語・擬音でしかものごとを語れない人間を育ててしまったことに対して猛省しなければならないであろう。そのような言葉とも言えないような言葉では、ものごとの本質を見極めたり解き明かしたり説明したりすることなどできそうもない。そればかりか、思考し体系的な考えとして組み上げていくことなど思いも寄らないからである。
 日常的に日本語を使って話しているからといって、日本語の達人だと言えないのは現在の日本語ブームでも明らかなのであるから、「国語」については軽視したりせずよく学ぶべきなのだ。
 海外の人々と物怖じせずに会話のできる人間に育てたいという思いもわからなくはないが、英語教育を導入・展開することで肝腎の「国語」について学ぶ時間が圧迫されることがあるとすれば、ますます日本の教育は危うくなってしまうのではないだろうかとつくづく思われるのである。

 


出生率低下の報道に接して
 
 昨日発表された2005年の人口動態統計(厚生労働省)によると出生率が1・25と前年より0・04ポイント低下し、過去最低を更新したという。
 読売新聞の記事では、『少子化が今後も進展すれば、年金をはじめとする社会保障制度の基盤が揺らぎ、経済にも悪影響が出るのは必至で、政府は少子化対策への一層の取り組みが求められそうだ』としている。
 テレビ各局もニュース番組でこのことを取り上げ『何とかしなくては』というトーンでこのことを報道していた。
 中でもおかしかったのは、いくつかの県や市で実施されている「少子化対策」。
 中には、5人目の子どもを出産した家庭に10万円の出産祝い金を出す例や、子どもが学齢に達して小学校に入学する折に何グラムかの金のメダルを贈呈する、などといったほんの思いつきのような対策が紹介されていて気は確かかと疑いたくなるようなものもある。
 ごほうびやお金をもらえるからといって子どもを産もうと思ってもらえる、と本気で考えているのだろうか。子どもを産もうとしない理由を金銭的・物質的な困難さに因るものだと考えているから、そのような小手先の発想しか持てないのだ。少なくても数十年前の日本人は金銭的・物質的に今ほど豊かでなかったにもかかわらず、子どもを持ちたいと思い、その願いが叶って自分たちの子どもが生まれることを素直に喜べたものだ。繰り返して言うが、子育てにかかる費用を潤沢に持っていたわけでもないのに、である。
 むしろ現在の方がその当時に比べれば家庭生活は豊かであるにもかかわらず、産もうとしない、産む選択ができない、できれば産みたくない、と考えているとすれば経済的な事情が障害になっているとはとても思えない。そうした心情は何に起因するのかということを考えなければ有効な対策など生まれないであろう。
困ったことに政府も各地の行政組織も出生率が下がると「年金などの保障制度や経済に悪影響が出る」といった具合に、「自分たちが困るから」何とかしなければといったご都合主義でこの問題を論じようとしているように見受けられる。
 私たち大人の社会は、生まれてくる子どもたちのために「何がしてやれるか」を考えるべきであるのに、大人の都合のために産んでくれと言わんばかりである。
 
 現在のような日本社会で子どもを産んで、その子が幸せに育ってくれるだろうか、子どもが育って「この国に生まれてよかった」と思えるだろうか、この国で子孫を繁栄させていこうとその子たちが積極的に思えるような日本という国であり続けるだろうか、といった不安や懸念が心情の底深くにあるとしたら、一時的な金銭やご褒美につられて子どもを産もうとすることなど及びもつかない。
 私にはどうしても、その不安や懸念が現在のような出生率の低下を生む最大の要因であるとしか思えない。
 子育てはかつての社会に比べればいっそう難しくなってきている。せっかく生まれた子どもも安全な環境の中で安心して育つという保障もない。自分たちが育ってきた過去よりももっと厳しい競争社会の中で苦しい思いをさせてしまうかも知れない。親としての負担も大変そうだ。そうした思いが逡巡を生み、「子どもを産まない」心情を生じさせているように思われるのだ。
 親自身が「この国に生まれ育ってよかった」と思えなければ、子どもにその幸せを受け継がせようという気持ちなど起きそうにない。
 
 そう考えてみると、これは愛国心の教育と通じるものがある。
 愛国心を持ちなさいという教育が何の意味も持たないと同様、「この国に生まれ育ってよかった」「この国の国民でよかった」という自然に生じる心情がなければ、「我が子にも同じ幸せを」と思って子どもを産もうという気にはなれないであろう。
 長い遠回りの道であっても、まず何よりも日本という社会が国民にとって好ましい社会となることこそこの問題解決のカギであろう。
 断じて目先のそして安易な「カネとモノ」で解決できる問題ではない。
 仮に親になる覚悟もないまま、そうしたご褒美(カネとモノ)につられて子どもを産んだとしても、その子を「大切な我が子」として慈しみ、しかもときに厳しく自立への道へ誘うことのできる親になれるかどうか、疑わしいものがある。
またそのような事情で生まれ育った子どもが社会を担う自立した市民となれるかどうかも大いに疑問である。そしてそうした市民で構成される社会が「よりよい社会」となるかどうか、将来のことは不確定であるがあまり期待できそうにない。
 安易なそして思いつきのような対処療法、そして大人の都合でひねりだすような対策しか講じられないような貧弱な頭脳しか持たない政府、行政組織でないことを願うばかりである。

 





勝ち組・負け組?
 
 一昨日のこと、朝刊を開いてみて驚いた。
 紙面下段の書籍の広告に『わが子を「下流社会」の住人にしないための情報と解決策〜教育格差〜』と大きな文字が躍っているのだ。 
 著者はこれまで受験のための学力こそ真の学力とばかり『受験勉強をさせることが大切』だと主張してきたW氏。しかも彼によれば『受験勉強は要領』であり、その要領さえ身につければ東大合格も夢ではない、と言う。受験勉強のカギは「要領」であり、それを身につけることこそ「学力をつけること」であるとする主張からは、ほんとうの学びに子どもを誘おうとする思想は窺えない。
 さらに日頃から彼が声高に主張する『親の意識が子ども命運を決め、勝ち組にする決め手となる』という理屈から察するに、彼にとっての学習はどこまでも社会で優位に立つための方便でしかないとしか思えない。わが子を負け組にさせないためによい学校に進学させることが親の務めで、子どもが学習するのもその受験競争に勝ち残るためにすることだ、と言いたいのであろう。
 それが考える力や創造する力、生きる上でよりよく働く力となるかどうかなどは問題ではない、とにもかくにも受験を勝ち抜くための「要領」を身につけることこそ肝要だと言わんばかりのこれまでの主張から生み出された著書のタイトルは、まじめに教育について考えているとは思えないようなものばかりである。
 いわく『「見せかけ」からはじめる速効ステップアップ仕事術 』『人は見かけで決まる 頭を良く見せるための心理学 』『能力を高める受験勉強の技術』『受験は要領 中学受験編 合格を勝ち取るために親がすべきこと』『和田式高2からの受験術 勉強は要領だ! 学校のやり方に従わない“要領勉強術”』『能力を高める受験勉強の技術』等々。

 見かけや見せかけが大切だとする彼の思考は、真理を探究しものごとの本質に迫り、そのことによって問うことを学びつつ自らの生き方について考えることが学問だとする高邁な理想とは相容れないものがある。学ぶことを「要領」と「術」というきわめて俗なレベルにひきずり降ろし、その俗なレベルでのみ「能力」をとらえ論じようとする姿勢そのものが「見かけや見せかけだけでよい」とする主張とリンクしているかのようである。
 しかも高校や大学で学ぶことですら、勝ち組になるための方便であるとしているように、多元的であるはずの幸福論も、彼にとっては一元的な「勝ち組、負け組」という二律背反の価値論でしか考察し得ないようである。
 一時的に受験に失敗したからと言って、生涯不幸な生活を余儀なくされるわけでもないし、仮に受験に成功したからと言って幸福な一生を送れる保障などないにもかかわらず、懐古的な学力論で(しかも先に見たように底の浅い学力論)一元的な価値観に子どもたちを、そして親を追い込もうとする彼の目的は何のであろうか。

 そのような中、奈良で父親から強いプレッシャーをかけられ続けた高校1年生の男子が自宅に放火し、母親と弟・妹の3人が焼死するという事件が起きた。
 事件を起こした少年は小学校では秀才と言われ何をやっても優秀な成績を収め「スーパーマン」と賞賛されたと伝えられている。彼は父の職業である医師になることを望み、一方父親は自宅の勉強室をICU(集中治療室)と名付けて厳しく学習指導にあたったとも伝えられている。
 少年も父親も「医師」になることこそ「勝ち組」となることだと信じ、少年も健気にがんばったのであろうが、がんばりが常に成功に結びつくとは限らない。家の中でありながら心が安らぐ場所ではなかったであろう集中治療室と名付けられた勉強部屋で、父親に殴られ叱責をうけながらの勉強、しかも思うように自己の成果が自覚できずに取り組む勉強は幸せを予感させるようなものでなかったであろうことは容易に想像がつく。
 彼が通学していた小中一貫の私立学校は、塾に通うことを控えるよう指導していたにもかかわらず、父親の強い指示でその指導に反して塾に通って受験勉強をしていたという。
 父親の一元的な価値観が少年への強い統制を生み、それが血のつながりはないとは言え母親と弟・妹を死に追いやるような切羽詰まった心境に彼の少年を追い込んだことは疑いようがない。
 父親の浅薄な価値観と切羽詰まった上でのこととは言え子どもの短絡的な現状逃避の行為は、ひとえに「学習=受験勉強」「合格=成功」「成功=勝ち組=幸福」という単純な図式による思考が生んだ結果でしかない。

 このような残念な事件を目の前にしてあのW氏は何を思い、何を考えるのだろうか。
 彼の考えるような二律背反の一元的な価値観と通じるものが、一人の少年を追い込み重大な罪を犯させ、3人が突然生命を断たれるという悲惨な事件の背景にあったとすれば、これまでのように声を大にして「勝ち組こそ成功者」「成功に導くのは親」とばかり親の統制を求めるような言い方はできないはずだ。
 そして何よりも人生の目的は決して「勝ち組・負け組」などという観点から論じられるべきものではないし、人間がものごとの本質に迫りそれを知りたいと願い学ぶのも、そのような取るに足りない目的や実利的な目的のためでは決してないということは言うまでもない。「下流社会=負け組=不幸せ」という短絡的な思考に基づいたW氏の論法に乗ってはならないし、まともな教育者なら決して議論の対象とはしないであろう。
 嘆かわしいことであるとつくづく思わざるを得ない。



小学校での英語必修化について考える

 行きつけの書店で新しい新書を見つけた。タイトルは『危うし!小学校英語』。
 著者は、英語の同時通訳者を経て現在は立教大学で教鞭を執っている鳥飼玖美子氏。
 文科省が小学校での英語教育を必修化しようとしているのは周知のことだが、いわば英語の専門家と言えるこの人がそのことについて警鐘を鳴らしているのだ。
 すなわち、多くの日本人が抱いている『幼いうちから英語に接しなければコミュニケーションに使える英語は身に付かない』という思いは大きな誤解であるとさまざまなデータをもとに指摘し、早期教育が必要だとする風潮とそれに追従した形で英語を小学校で必修化しようとする文科省の動きについて懸念しているのだ。

 英語についてはまったくの素人であるが、この指摘は重大であると思われる。
 文科省がこうした方針を打ち出したのは、日本国民の英語力を底上げし、「仕事で使える英語」を学ばせるべきだとする実業界からの要請と『やっぱり英語は話せた方がいいんじゃないか』といった程度の親の願望にも似た要望によるものであり、いわば確固たる方針や理念(例えば国際理解に対する理念、あるいは学校教育をどうするかといった考えなど)とは無縁な、目先の、そして教育に対する無理解な世論がそこで形成され、文科省もそれに乗ってしまったというのが実情ではないかと思われるのだ。

 私も中学校から大学の教養課程まで含めると計8年間英語を授業で学んだものの、流暢に英語を操り自在に外国人と会話をしている人を見かけるとうらやましさを感じるし、心のどこかで「読み書き訳す」だけの英語の学習では不十分だと思わないでもない。
 しかしそれは私たちの英語の勉強が「自分の言いたいこと」とは切り離した状況で文章を訳すこと、そのために単語を覚え文法を学ぶことに傾斜のかかった勉強が主だったことに依るところが大きいと考えている。
 
英語に限らず、どの国の言語を駆使した会話を身につけようが、大切なことは「言いたいことがある、伝えたいことがある」という具体的な欲求がベースにあることではないか。
 そしてそのためには「言いたいこと、伝えたいこと」の中味こそ重要で、意味の希薄なことをただべらべらと言い表すのでは対話にはならないことは言うまでもない。

 そこで、「言いたいこと」を的確に表現することと併せて、「言いたいこと」の中味を吟味・検討・省察する力も重要になるはずだ。
 
そう考えると、自分の言葉で考え、まとめ、相手が理解できるように(し易いように)話を組み立てるという力が「会話力」の大切な要素としてあることに気づかされる。
 それゆえ母国語でしっかり考え確かな表現ができることの方がよほど大事なことで、安易に英語の早期教育を施したところで、迂闊なことを英語で平気で口走る人間を育てるだけのことではないかとも根っこの部分で思っている。

 母国語の日本語でさえ正しく使えているとは限らないし、ただでさえ粗雑な表現が蔓延している状況である。
 粗雑な言葉からは粗雑な考えしか生まれない。なぜなら私たちは「言葉」でものごとを考えているからだ。

 英語教育を、いや英会話教育を叫ぶ前にもっと大切な母国語教育を真剣に考えるべきではないか。早期教育に依らずとも必要な状況におかれれば、あるいは学ぶ意志があれば、晩学であっても、いやむしろ晩学の方が確かな英語力は身につくようだ。
 それは、福沢諭吉や新渡戸稲造の例を見てもわかる。彼らはもともと学問の経歴を持ち、学力も相当高かったからではないかと言うのなら、ジョン万次郎や浜田彦蔵の例もある。
彼らは幼少時に何の教育も受けていない。乗っていた漁船が漂流し、アメリカ人に助けられて後、英語の環境におかれその生活の中で英語を身につけたのだ。

 このように教育に対する理念や理想とはかけ離れた「英語教育導入を求める風潮」を生んでいるのは、先に書いたように「英語を仕事で使える即戦力を持つ人間」が欲しいという実業界からの要請が一方にある。世界に伍して戦える企業としての競争力を獲得し、経済的に有利に立ちたいという願いがそこにはある。
 そして一方では、自分の英語学習が何の役にも立っていない、もっと英語を聞き分ける耳を育てること、そのためには早期の教育が必要だ、というコンプレックスから来る親の要望がある。つまり、「英語への怨念」あるいは「英語への憧れ」がないまぜになった焦燥感がそこにはあるように見受けられる。

 そして最も危惧されるのは、両者に共通している焦燥感が「他に勝ちたい」「他よりも優位に立ちたい」という願望をベースにしていることだ。
 競争の原理を教育に持ち込もうという政策とそれらがうまくかみ合い、この英語の必修化という動きを加速させていることは疑いようがない。つまり、これは教育論ではないところの全く別のまことに浅薄な論理による動きであり、ここに「教育」に対する高邁な理想や理念といったものは見つけにくい。
 そうしたことでますますプレッシャーを感じ、教育とは全く異なる次元で学習への意欲を喪失してしまう子どもたちが増えることを懸念するのは私一人ではあるまい。
 最もとばっちりを受けるのは子どもたちなのだ。

 



小中学校の「通信簿」?
 今朝の新聞報道によると、文部科学省は小中学校の学校運営や授業の指導状況などについて「評定1」から「評定5」までの5段階で評価していく方針を決めたという。
 各学校の実力を見極め、教育の質の向上につなげることが目的だという。
 学校評価については、各学校が説明責任を果たすべくこれまでも取り組んできたことである。そのために学校評議員制度が取り入れられ、さらに教職員による自己評価のほか、保護者らによる外部評価を得て改善の方向に歩み出したばかりである。
 それに対して今回は、文科省が設定した「学校における教育」「学校の管理運営」「保護者、地域住民との連携」の3分野、計18項目の評価項目について指標と評価規準をもとに5段階で評価し、将来的には公表も検討するというものだ。
 その評価規準とは次のようなものであるという。

 「多くの児童生徒が集中して学習に取り組んでいる」「教室内は清掃、整理整頓され、掲示物も適切」ならば「評定3」。
「全国的に見てもすばらしい取り組みで、他の学校の参考になる」なら「評定5」。
 「取り組みが全く行われておらず、成果がほとんどない」なら「評定1」。
 
 そして具体的な評価は、 「学校と直接かかわりのない第三者」が行うのだという。
 学校の自己評価はあてにならないということだろうか。
 学校と直接かかわりのない第三者が行う、ということは地域や学校の実情について不案内な者が表面的な状況、目に見えやすい状況のみで判断し、5段階の枠の中にはめこむようにして評価してしまうおそれがある。
 この報道からは見えてこないが、その「第三者」が教育について深い理解を持たない者であるとすると、評価そのものが「理解」に基づかない冷たいもの、地道な教育作用を無視したものになってしまうおそれがある。本来教育とは地道な作用である。教職員が児童生徒と向き合い、学校や親の手を離れたときに自立した学び手として生きていけることをめざし「いま何をなすべきか」を考え、根比べのような地味な活動にコツコツと取り組み、そうした積み重ねが10年後、20年後に結実するという息の長い作業であり、短期間では結果が出ないことの方が多いものだ。
 むしろ短期間で結果が見えてしまうようなことは、付け焼き刃のようにいずれ剥落してしまうおそれのある表面的なものでしかないということも言える。

 よい評価を得るためには、そうした付け焼き刃のような目に見える力や態度だけを伸ばすことも不可能ではないし、もっと言えば学校教育は外部からのよい評価を得るための活動ではないのである。何よりも「子どもにとってのよき成長」を願い、そのために評判や評価とはかかわりのないところで地べたをはいずり回るような、地味で、ときには児童生徒と真剣にわたりあう仕事なのである。
コンクールですばらしい成績をおさめた学校の音楽の授業が、派手ではないが子どもが主体的に音楽の活動に取り組めるような学習をめざしてコツコツと熱心に授業づくりに取り組んでいる学校の音楽の授業よりも優っているという保障がないのと同様、子どものよき成長を願う取り組みと外部の評価とは別物であることが多い。
評価の観点が異なるからである。

 文科省はこの決定に際して「5段階評価は自分の学校がどの水準にあるかを把握しやすくするためのもの」としているようだが、これはまさに競争心を煽り、教育とはかかわりのないところで教職員に努力を強いることになるおそれも十分にある。
 たとえば、児童生徒の出席率を上げるために無理に登校させる、遅刻状況を改善するとして遅刻扱いの規定をゆるめる、学力テストの平均点を上げるための勉強を強いる、などといった本来の教育とはかけ離れた教育がなされることが懸念される。
 積極的に他と競い合うことがなくても、逆に他校と同じことをやっていれば差が生じるおそれがないとして、行政単位の他校と横並びで「よい評価を得るためだけの対処法」に腐心し、お互いに先陣争いを戒め合い監視し合う動きが生じることだって予想される。

 外部の評価やそれを前提とした競争がよい結果を生まないことは、イギリスの失敗からもよくわかっているはずであるにもかかわらず、なおそのことに執着するというのはどういうことであろうか。
 評価を施し、評定を下すと宣告すれば否が応でもやらざるを得ないだろう、さらに公表されるとなれば競争せざるを得ないであろう。そうすれば、それぞれの学校は成績を上げるために一段と努力をするであろう、という何とも貧弱で子どもじみた安易な発想にしか見えないのは私だけではないだろう。
 文科省が腐心しなければならないのは、より高い次元で、親や教職員が子どもと真剣に向き合うための環境づくりをどうするか、どうすれば子どもが本当の成長に向かいたくなるような社会環境をつくれるか、といった視点から施策を打ち出し展開することではないか。 
こうした小手先の施策に振り回される学校現場はたまったものではないが、学校現場もそうしたことを言わせないような確かで着実な研究に基づく実践、教育専門職としての誇りが持てるような取り組みをめざすべきだ。
 

 


教育バウチャー?

 自民党の総裁選挙で安倍元幹事長が総裁に選出された。選挙前から「できレース」と揶揄されるほど圧倒的な支持を得ての出馬だったので、そのこと自体はさほど驚くことでもない。しかし、この選挙期間中、総裁候補として名乗りを挙げた3氏がさまざまな場面で主張した内容については驚くべきことや危惧を感じさせられることが多々あった。
 
私は政治に関してはまったく無知であり、あのドロドロした世界と関わりを持とうなどという気は毛頭ないし、誰が総裁になろうが一向に構わないとも思っている。

しかし、大いに懸念されるのは彼らがそろって「教育問題」を取り上げ、教育基本法の改正をはじめとする教育改革を主張している点である。
 
そもそも教育の専門職ではないという意味で、教育について深い考えや理解を持っているとは思えない一介の国会議員が、教育についてさも知り尽くしているかのごとく口を差し挟むことについて違和感を覚えるのは私一人であろうか。
 
彼らの教育に対する考えは、せいぜいが「自分の受けてきた学校教育における経験」にしか基づかないものであり、自分自身が骨身をけずるようにして実践する教育活動の経験に基づいたものでないことは言うまでもない。

特に驚かされたことは、先日の候補者による討論会では、安倍候補が「教育バウチャー」に関する話題の中で『保護者など外部の評価を導入し、選ばれない学校が出てくると、そこはしっかりと乗り込んでいって根本的に問題を是正していく』と思い上がりとしか思えないような発言をしたことである。(傍点筆者)

日本では幸いなことに誰もが平等に教育を受ける権利を有し、そのおかげで誰もが義務教育を受けた経験を持っている。
 
今日のように「教育問題」がさまざまに論じられ大きく取り上げられる背景には、誰もがそうした「教育を受けた経験」があり、その経験をもとに教育についての自分の考えや意見あるいは感想を持っていることがあるということも否定できない。そして大いに論議を展開し、より望ましい教育をめざすことはよいことに違いない。
 
しかし、それだからと言ってそれらが的を射ており、問題の解決に役立つものばかりであるかどうかは大いに疑問である。なぜなら、その意見や考えの基準となっているのが、あくまでも「自分の受けた教育」という狭い範囲のものでしかないからである。

決してそうした意見を軽視するわけではないが、それで「教育」を論じ、教育について起きている多様な問題の解決が望めるのであれば、そして望ましい教育活動が一朝一夕に行えるのであれば、教育専門職である教師が日常研究や研修に励まずとも、相応の学校で学んだという経験だけで何の問題もなく教育活動を展開できてしまうはずである。
しかし「教育」とはそう簡単なものではない。

望ましい教育を求め、学校の再生を願い、日夜努力し、問題の解決に向けて苦慮し励む一方で、教育研究にも努めているのは、教育が「生き物」であり、単なる指導技術で片づけることのできない専門性が不可欠だからである。
 
教育観、子ども観、人間観、指導観などについての深い理解と教育に対する高い志、さらにはそれらに裏付けられた指導技術、教育者として自己の教育活動を振り返り見極めることのできる透徹した目などの資質や能力を高めるために、児童・生徒と真摯に向き合っているのが現場の教師である(はずである)。

学校教育とは無縁の第三者による学校評価を行うとか「教育バウチャー制度」を導入して学校間を競わせ、うまくいかない学校には「乗り込んでいって問題を是正する」などという発言からは、本当に教育について深い理解と考えを持ち『どうすれば真に子どもにとって意味のある教育になるか』という視点で教育問題にあたろうとする姿勢は窺えない。
 
そのような一夜漬けのように解決できるような問題であれば、学校現場はその対処に苦慮するようなことはなかったはずである。そして、そのように一朝一夕に解決できるのだとすれば、それはいつ剥落しても不思議はないほどの「とってつけたような表面的な解決」でしかない。

問題の根っこの部分、核の部分、本質的な部分を突き止め、それを改善していくには、小手先の安易な手段ではかなわないのは火を見るより明らかである。
 
モノを生産する活動であれば、均質かつコストパフォーマンスの良い製品を効率的に生産することをめざして方法の改善を図るといったことは可能であろう。そうした場では、他と競争しより高い生産性を生み出すことも可能であろう。それは生み出すものが「モノ」だからである。しかし、「人間の育ち」を期する教育ではそうはいかない。同じ方法で指導を受けても、それが効果的である子どももいるしそうでない子どももいるからである。
 
子どもはベルトコンベアの上では育たないにもかかわらず、学校を工場と勘違いしているからこそ、必要以上に「競争」を言い立て、成果を求め、均質さを望む発言が後を絶たないのではないか。

そして、こうした発言から窺えるのは、学校で起きている諸問題は、教師の力量不足や努力不足に起因すると考えているのではないかということである。
確かに、一部にはそうした資質や能力に欠ける教師がいることも否定できないが、多くの教師は熱意をもって教育活動に取り組んでいるのである。

それではなぜ成果が目に見えて現れないか、現れないばかりか問題点ばかりが浮き彫りになったり喧伝されてしまうのかと言えば、その多くはこれまでの実践経験や研究の成果では対処しきれないほどに社会が、そして家庭が、さらには子どもが変わってしまっている点にあるのではないかと思われるのだ。
 
学習意欲の低下の問題にしても校内暴力の低年齢化の問題にしても、これまで社会や家庭が無意図的に行ってきた教育作用が低減し、「人間として育つ」バックボーンが崩壊しつつあることにその原因があるとしか思えないのである。
 
そこに目を向けず、学校の努力不足や教師力の低下だけを問題の原因として仕立て上げたところで、真の教育改革にはならないことは言うまでもないし、制度をいじりまわしても何の意味もないことは論を待たない。

まずは為政者の「競争させればなんとかなる」という考えを改めること、教育そのものについてより真摯に受け止めようとする心情を持つことこそが望まれる。
 
安倍政権が誕生したからと言って、かれが提言していることが文教政策として実現可能であるかどうかは定かではないが、そうした安易な考えをもって教育を考え変えようとしていることから目を離すことはできない。

 



気は確かか?

 先走ったこのような方策がいずれどこかの県や市の教育委員会から打ち出されるであろうと思っていた矢先、東京都足立区の教育委員会から次のような方針が出された。
 それは、都と区が実施する学力テストの成績などに応じて、区立の小中学校に配分する予算に差をつけるというものだ。
 各学校を4つのランクに分け、中学校の場合には約500万〜約200万円までの間に振り分けて配当するのだという。
 「教育バウチャー制度」を率先して施行するという、安直な「お先棒担ぎ」としか思えないような報道に接して唖然としてしまった。
 安倍政権が言い出した「教育バウチャー制度」については、未だ方針として定まってはいない検討段階のものではないか。であるにもかかわらず性急に実施に移し、区内の小中学校の教育について、単に「学力テストの結果」で教育の成否を判断し、予算に差をつけて配当するということは教育委員会としての「教育に対する考え」の底の浅さを露呈しているとしか言いようがない。

 外部評価の予告、しかもそれが報償につながるという仕組みが内容の充実や本来的な意味での「達成」には結びつかない、ということはこれまでの社会科学や認知科学をはじめとする諸分野における研究で明らかになっていることではないか。
 それでもなお、そうした施策しか打ち出せないとすれば、この足立区に限らず教育行政にかかわる人々は乏しい発想しか持ち合わせておらず、浅薄な教育理念をベースとした考えしか持っていないということになろう。

 気の毒なのは、そうした教育行政の下で学ばなければならない子どもたちであり、まっとうで地道な教育活動を展開しようと考えている学校の教職員である。
 子どもたちは「学ぶ権利」は有しているが「教育される義務」を負ってはいない。
 安倍政権は、何よりもその根本原理を誤解し、「国民を育てる」という思い上がりにも似た視点からさまざまな政策を打ち出そうとしている。政策だけならまだしも、おおもととなるべき「教育基本法」をも安易な教育観で改めようとしている。
 足立区教育委員会のニュースも、そうした動きの中で起きたことではあるが、先頃話題になった「必修教科の未履修問題」も、こうした風潮と無縁ではない。

 この流れをくい止めなければ日本の教育は高々とした理想に基づいた「成熟した市民社会をめざす資質や能力を備えた個人」が育つ教育とは対極の方向に向かっていってしまうだろう。
 それは、教育にとって「暗黒の時代」だと言っても過言ではない。
 学ぶことの意味をどこかに置き忘れた教育政策は、子どもを、そして学校を彷徨わさせ、志操貧弱な社会への道を突き進むことになること必定である。
 辻村哲夫(東京国立近代美術館長)は、今年1月ある雑誌に次のような一文を寄せ、まるで現在の状況を予見したかのような警告を発している。

 今、我が国の学校教育において児童生徒は 「何のために学ぶのか」を学校も保護者も社会も改めて問い直す必要があるということである。
 児童生徒が学校で学ぶ意義は、一人一人が豊かに生きていくためという個人の利益の視点と、社会により良く貢献しながら生きていく、あるいは社会をより良いものにするための力を培うといった公の視点とがあるはずだが、現状はこのいずれでもない学校間序列や受験競争の存在を前提に、如何にこれに対処するかのための「学び」にさせられているように思えてならないのである。我が国の学校教育を「何のために学ぶのか」の原点に立ち返らせなければならない、ということであり、例えば公の視点について理想を言えば、今や国益を越えて世界や地球全体のためにというグローバルな視点を一層重視していくべきときだとさえ思うのである。
 「世界史」を学ぶのは、国際社会の中で一人一人が世界の人々と協調してより豊かに生きていくためなのであって、受験科目にあるからではないはずである。しかし現状は、学校で学ぶ意義は高い点数を取るためといった錯覚、小さな頃から受験目当ての点数獲得競争にとらわれ学校間序列の存在にいささかの疑問も抱かないような教育観、「受験学力」を効率的につけるかつけないかによる近視眼的な学校批判、教科の意義が受験という視点に偏って評価されるような風潮、こうしたものに覆われているように思えてならないのである。こんな現状は何としても打破されなければならない。
 そしてそのためには、「何のために学ぶのか」、今、この視点から指導内容や指導の在り方を分析考察することは、中央教育審議会の場のみならず、各学校にとっても必須の課題だと思う。 (教育展望 2006.1,2月合併号 p.3)
 
 教育基本法を変えたからといって、いま教育界が抱えている諸問題が解決されるはずはない。むしろ、教育基本法の精神を尊重し、教育基本法の精神をよりよく具現化に導けるような施策を検討し実施に移すことが重要だ。そのためには、安直で浅薄な教育観を啓蒙する働きかけが必要になるであろうが、それこそ教育行政の果たすべき役割であって、そうした教育観につき動かされ右往左往するようなこと、根幹が揺らぐようなことがあってはならないはずだと考えるのは私一人ではないであろう。




教育基本法の改正?について考える

 教育基本法の改正案が衆議院で強行採決され、参議院で審議中である。
 
強行採決しなければならないほど切迫した課題なのであろうか。また、教育基本法はそのように力の論理で押しまくってまで改正しなければならないものなのだろうか。
 
現在起きている教育上の諸問題が現行の教育基本法に起因するとでも言うのだろうか。

 事実は、教育基本法の精神が実際の政策や制度に生かされ、それに沿った教育が展開されてこなかったことによるにもかかわらず、自分たちの都合のよいように教育を操るために教育基本法をスケープゴートにし、それを変えたいという意図がそうさせているのではいか。

教育基本法は憲法と同じ位置づけの、つまり他の法律よりも高く位置づけられたしかも世界に誇る高い理念を掲げた、それゆえに侵しがたい立派な法律である。
 60年前、教育刷新委員会が教育基本法の案を検討した際には、40人もの専門家が長い長い時間を費やし、基本理念から草案の表現一つ一つに至るまで議論を尽くしたという。
 その記録は『教育刷新委員会教育刷新審議会 会議録』として公開されてもいる。
 南原繁(元東大総長)は、誠意を尽くした議論の果てにできたこの教育基本法についてこのように語ったと言われている。

   新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。
   今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を
   根本的に書き換えることはできないであろう。
   なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止め
   ようとするに等しい。ことに教育者は、われわれの教育理念や主張について、
   もっと信頼と自信をもっていい。そして、それを守るためにこそ、われわれ
   の団結があるのではなかったか。
   事はひとり教育者のみの問題ではない。
   学徒、父兄、ひろく国民大衆をふくめて、民族の興亡にかかわると同時に、
   世界人類の現下の運命につながる問題である。

 さほど議論もせずに、また誰がこの改正案づくりに携わったかは知らないが、現行の教育基本法の高い精神性と比べてみればあまりにも次元の低い改正案が新しい教育基本法となってしまうのでは日本の行く末は恐ろしいものになってしまうであろう。

 教育基本法が「普遍性」を謳ったものであるのに対し、改正案ではその文言が消され、『公共性、徳』といった現実に目を向けた文言が目を引く。
 この改正案でもう一つ特徴的なのは、国民を教育の「主体」としてではなく「対象」としてとらえようとしている姿勢が窺えることである。
 それは改正案の第一条「教育の目的」に『平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して〜』としていることからも窺える。
 その考えは、第二条の条項にも表れている。
 教育基本法では「第二条 教育の方針」としていた条項が、改正案では「第二条 教育の目標」と言い換えられているのだ。
 「方針」とは「進んでいく方向、めざす方向、進むべき路」の意であり、一方の「目標」は「めじるし、目的を達成するために設けためあて」のこと。

教育を『不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの』とし、望ましい教育の実現に向けて環境を整備する理念を謳った教育基本法に対し、改正案では『公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する』の「教育を推進する」の文言に表れているように、いま現在、(為政者が)必要だと考えている内容の教育をこれから将来にわたって推進するということを表明しているのだ。

 教育の主体を国民一人一人と位置づける教育基本法では、その教育が望ましく展開されるための「環境整備」を主眼としていることから、「方針」という到達点(めあて)を設けない言い方で表現している。一方、改正案は教育されるべき対象としての国民がどれだけ到達点に近づけたか、また近づくような教育を施すことができたかというめじるしを設ける意味で「目標」という言い方をしているのであろう。

 言うまでもないことだが、国民一人一人は「教育を受ける権利」を有してはいるが、「教育される義務」を負ってはいない。何を教え込むかなど為政者の恐ろしい傲慢さがここでも浮き彫りになっている。

    こうした姿勢は改正案の16条にも姿を覗かせる。
   教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの
   であり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行わ
   れなければならない。

 

 教育基本法10条には「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」と記されており、同じ「不当な支配に服することなく」という文言で表記されていることから、同じ意味だと勘違いしやすいが、これもまったく意味が異なるものだと認識すべきである。
 教育基本法は、戦前・戦中の軍による教育支配により自由な教育が行えなかったことへの反省から、教育の自由を保障する意味で「教育に携わる人々が、国や政党やたまたま現在政権についているに過ぎない権力からの不当な干渉や支配に服することなく、国民全体に対して直接の責任を負って行うこと」ができるように、こう書いているのだ。
 しかし、改正案では「教育されるべき対象」としての国民と、国が組織する「教育」という位置づけでとらえ、『国が行う教育は、不当な支配に服することなく〜』とまったく異なった意味を持つ文言なのである。

 そして、国が「不当な支配」と考えるものがどのようなものであるかは、改正案のこの条項にもっとも顕著に表れている。
 「
この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。」(16条、教育の行政)
 教育基本法を他の下位の法律と同等かそれ以下のもとして位置づけ、国が、あるいは教育行政が教育を統制することさえ可能にしようという考えがここには見え隠れする。
 教育者が「国民全体に対して責任を負って行」おうとする教育が、行政の恣意的な指示と異なってしまった場合、「公正かつ適正」という錦の御旗のもとで「不当」なものであると見なされ、統制の対象となるであろうことは戦前・戦中の教育を振り返ればすぐにわかることである。時の為政者にとって都合のよいことを「教育されるべき対象」として国民を位置づけ、具体化するための法制化の手始めが、この教育基本法の改正なのではないか。

 だからこそ急がなければならないし、どのような手段を使ってでもなりふりかまわず改正したいのだろうとしか思えない。 教育はもともと政治とは無縁の独立したものでなければならず、ときの為政者のそのときそのときの思いつきで左右されてはならないものである。だからこそ、教育基本法は憲法と同等の侵すべからざる高い位置を与えられてきたはずだ。そのように日本国民にとって大切な誇るべき法律を、誠意ある議論もなしに単に政治の場で扱おうとするのは教育に対する冒涜だとしか思えないのである。
 ここで、再度、南原の言葉を思い起こしたい。

  今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を
  根本的に書き換えることはできないであろう。
  なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止め
  ようとするに等しい。

 高々とした理想と理念を謳った教育基本法を侵してしまっては、日本の将来の子どもたちに対して申し訳が立たないではないか。




教育再生会議に懸念
 安倍総理の私的な諮問機関でしかない「教育再生会議」が、いつの間にか提言を通して日本の教育の舵取り役を担うものであるかのような報道がなされている。
 この再生会議のありようについて危惧を感じるのは、私一人ではあるまい。
 何よりも、これはどこまでも私的な諮問機関であること。
 法律に基づいて設置された臨時教育審議会(中曽根内閣)や中央教育審議会とはそもそもの位置づけが異なるのだ。また、中教審との存在意味の違いもあるはずだ。
しかもこの会議は原則非公開だという。官邸主導でなされるこの会議は、最初から目的地を定めてつじつま合わせのような話し合いをする目的で設置されたかのように見える。

 有識者で組織したと言われるこの会議のメンバーの半数は、教育の専門家ではない。いわば教育の「素人」が、教育の理念や教育に対する理解などは視野の外において教育について論じる会議なのだ。論じるだけなら許せるが、それを提言としてまとめ、教育の重大な方向付けに生かされるという。
日本教育学会歴代会長が「教育基本法改正継続審議にむけての見解と要望」をとりまとめ教育基本法の拙速な改正に何とか歯止めをかけようとしている。また、日本教育法学会も特別委員会を設けて働きかけているが、これらの動きに対して政府は何の対応もしていないように見受けられる。
 
 教育や教育法規の専門家、研究者の意見は無視され、素人の意見が採り上げられるという状況からは、素人の意見を受け容れることで世論を恣意的に作り上げようとする意図が透かし絵のように見える。
 素人の意見を軽んじるわけではない。
 しかし、いじめの問題を起こす子どもに対して、「指導、懲戒の基準を明確にし、毅然とした対応をとる。例えば、社会奉仕、個別指導、別教室での教育など」「いじめに関わったり、いじめを放置・助長した教員に、懲戒処分を適用する」などのいわば付け焼き刃のような対策(しかもどう見てもちぐはぐな対策にしか思えない首をかしげるものばかりである)は、素人受けはするかもしれぬが問題の根本的な解決につながるものでないことは、教育研究に携わった者なら一目瞭然だ。

 それは、公共心や道徳心、愛国心の涵養、学力の論議、未履修問題等々、すべてにわたって言えることだが、法学や教育学などの学問の成果をまったく無視した教育談義だからである。しかもそれなら一般市民にわかりやすく見えやすいという困った側面も併せ持っているのだ。まるで、安倍政権はそのことを見越して、有識者17名による構成でこの会議を組織したかのようである。(何をもって有識者とするかは不明だが)

 さて、諸々の教育に関する問題の根には何があるのだろうか。
 教育基本法は、平和的な社会の形成者としての主権者を育むという高い理念を謳っているが、昭和40年代からの教育はそれを具現化しようとしていたかと言えば疑問が残る。 学校は子どもたちに、学ぶことのたのしさや学びあいのたのしさ、すなわち、学問の本質を伝えていただろうか?学問とは文字通り「問うことを学ぶ」ことであるが、単なる知識と技術の伝達に走り、学ぶことの意味や楽しさを伝えてこなかったのではないかといううらみが残る。

 受験地獄という言葉に象徴されるように「競争」に学校が支配され、いつの頃からか小学校は中学校の、中学校は高校の、そして高校は大学の予備校のようになり果て、学ぶ楽しさや問うことのおもしろさをどこかに置き忘れた指導を展開し、少子化によって近年はますますその傾向を強くしてきたのではなかったか。
中には、教育の専門職たる高校教員が、その誇りを忘れ、塾の講師を招いて教科の指導法についての指導を仰ぐ、といった県もあらわれた。高校は学ぶ場ではなく、ついに予備校に徹しようと決意したかのようである。その挙げ句が未履修問題である。

 また、問いを発し「わかる」に向けて無我夢中で取り組めるような学習、そのことによって自分の世界の広がりを味わう学習、社会や自然の謎を解き明かす心の弾むような学習を仕組めなかったことが、学習意欲を阻害し、自己の存在を確認するために非行やいじめに走る子ども、有能感を味わえず無気力・無関心に自分自身を追い込んでしまうような子どもを生んでしまったことについてまず顧みなければならない。

 学問は競争ではない。友だちよりも1点でも余計に取って上位の成績を勝ち取ることに喜びを見いだすのではなく、捨ててはおけない真理の探究に向かって互いに「切磋琢磨」して一緒に伸びていくことに喜びを見いだせるようになることが学問をする意味ではなかったか。(切磋琢磨とはお互いに磨き高めあうの意である)
 そこでは当然、競うということが「相手を蹴落とす」「相手のミスを期待する」という心理を生み出さない。「わからないこと」「不思議なこと」に心をときめかせ、共に解決を探ろう、励まし合ってがんばろうという学び合いのこころがベースにあるからだ。

 そもそも人間にとって「わからないこと」がある、というのは楽しいことだ。
 英語の 「フィロソフィー(哲学)」は「智を愛する」というギリシャ語に由来していることは周知のことである。また、シンポジウム(討論会)」は「宴会」 を、そして 「スクール(学校)」は「暇」をそれぞれ原義としており、これらもギリシャ語に由来している。アリストテレスは、「労働は暇な時間を楽しむためにある」ということを繰り返し述べ、スクール(学校)は格調の高い楽しみ(すなわち思索し議論し、納得のいく知に到達すること)によって暇な時間を充実して過ごすことを学ぶ場所だとも言っている。

 ついでながら学校とは、「学ぶ(まなぶ)」「校(かんがふ)」の2字で構成された熟語であり、教えられて習う場所ではない。教えられて習うのは「教習」である。
 「学ぶ」は、「スタディー」すなわちラテン語の「熱心に求める」に語源のある言葉で、自ら探求し自らの手で手に入れることを意味している。
 また「校」は、二つのものごとをつきあわせて「調べる・考える・計算する」という意味の古語である。
 まさに「学校」は、「教育される場」ではなく、求め・調べ・考える楽しさを味わう場なのだ。「問う」ことのおもしろさを発見し、「わかる」に向かって励む人生最大の喜びを味わう場であり、そうしたことを学ぶ場なのだ。

 人類のことを学名ではラテン語で「ホモ・サピエンス(理性のある人)」と言うが、オランダの歴史学者ホイジンガが「人類は『遊ぶ人』である」として「ホモ・ルーデンス」と呼んだのも、知的好奇心を発揮して「遊ぶ」ように「学ぶ」ことで生きる存在であることを言おうとしたのであろう。
「問いを発して」「わかる」ということの意味や楽しさをどこかに置き忘れ、大学の門に向かうためにだけ知識を蓄え、受験に必要な技術を身につけることが「学習」である、と学校も生徒も取り違えてしまうような指導がなされてこなかったか。

 何よりもそれが現在の学校教育を巡る諸問題の根っこにあり、付け焼き刃のような対策を講じても何の解決にもなりはしないのに、懲罰を加えればよいとか競争させればよい、あるいは競争に勝った学校には教育予算を多く配当するなどといった浮薄な対策しか出てこない再生会議は、ますます世の中を混乱させるばかりである。そればかりか、教育の理念そのものがどこかに吹き飛んでいってしまい、本来の学校に戻れなくなってしまう。
教育再生と言いながら教育破壊につながりかねない気配さえする。

 そうした案しか思い浮かばないのは、彼らが「ほんとうに学んだ」経験を持たないからではないのか。もしかすると、教えてもらって覚えること、あるいは記憶力を働かせることで入試をはじめとする試験を切り抜けること、それが人生成功に結びつくカギであると大いなる勘違いをしているのではないか。
 学校で学ぶことと社会生活において「うわべの成功」を得ることとは何の関係もない。
 たとえ大学を出ていなくても人生の成功者はたくさんいるのだ。
 まずは社会全体の共通理解として、学ぶことは功利とは無縁の人生の楽しみ、成長の楽しみ、世界を広げる喜びなのだ、という認識をすべきであろう。

 遠い道のりになるかも知れないが、まず何よりも「学問」本来の「問うことを学ぶ」楽しさと充実感が味わえるような学校教育を展開することこそが、一番の近道であり、それのみが本来の学校再生につながる最良の道であり、健全で成熟した市民社会づくりにつながる道なのだ。世の浮薄な論議に惑わされてはならない。



学ぶ喜びを
 牛や羊、そして馬といった草食動物の多くは、生まれて一時間もすれば自分の足でしっかり大地を踏み締め、おぼつかない足取りであっても自分の力で歩くことができる。
 肉食動物の脅威から少しでも身を守ることの必要性からそのような力をもって生まれてくるのだ、と言われている。
 つまり、生まれ落ちたその時から「生きて」いけるように、母親の胎内で「生きるための力」を十分身につけ、ある程度成熟した姿で生まれてくるのだと言えるであろう。

 一方、人間の子どもは一人でものが食べられるようになるまで、ずいぶんと多くの時間を費やさなければならない。
 立ち上がるのにおおよそ一年、安定した歩行ができるようになるまで更に一年といった具合で、社会で独り立ちしていけるようにな
るには更に多くの気の遠くなるような年月を費やさなければならない。
 つまり、人間は牛や馬などのように母親の胎内で十分に育ち、生きる力を身につけた上で生まれてきた生き物ではないのだ。
 そう考えると人間は他の動物と比べてはるかに「不利」で「弱い」存在のように思われるのだが、実はそのことが人間の最大の特徴で他の動物に比べて優位に立てた理由であるらしい。

 生まれてから独り立ちできるまでの期間が、他の動物と比べて驚くほど長いということは、母親の胎内で母親から「受け継がなかった」部分が多いということで、それは「より多く学べる余地を残していることだ」というのだ。
 よくしたもので、人間の赤ん坊はそのような「受け継いでいない多くの部分」について学習できる能力や資質を他の動物に比べて頗る多く持っているらしい。
 そして、そのことは「自然環境の急激な変化」や「思いがけない未知の事件との遭遇」などに際して対処できる「学習能力」とその経験の応用を可能にし、他の動物に見られない数多くの資質の獲得に役立ってきたのである、というのだ。

 北杜夫によると、ポリネシアには「アタオコロイノナ」という神がいるという。(ドクトルマンボウ航海記)
 「アタオコロイノナ」というその神の名前の意味は、「何だかよくわからないもの」なのだそうだが、人間はその「何だかよくわからないもの」を探しに天国からこの地上に生まれ降ち、「何だかよくわからないもの」を探し回って見つからないまま年をとり、「何だかよくわからないもの」がひょっとすると別の世界にいるかもしれないと別世界(あの世)にでかけていっている。これまでにずいぶんたくさんの人が探しにでかけたが、まだ誰も帰ってこない、だからまだ「アタオコロイノナ」は見つかっていないらしいというのだ。
 「何だかよくわからないもの」、つまり人間が母親から知識として受け継がなかった多くの「未知のものごと」の解を探し、知を身につけるために「生きているようだ」ということを人々は漠然と意識していたことを想像させる。

 そして神は、そのことに必要な「学ぶ力」だけはしっかりと人間の血の中に植え付けてくれたもののようだ。
 「知りたいという欲求」や欲求を充足させる「学べる力」とその学習したことを「転移・活用」し、更に能力の幅を広げる旺盛な欲求など、それらはすべて母親の胎内で「母親から受け継がなかった多くのこと」があるからこそで、それこそが人間が他の動物を引き離している最大の徴(しるし)であるらしい。
未知のことがらに出会うと、ついつい心を奪われたり心をときめかせてしまう経験、むくむくと「そのことについて知りたい」と願ってしまう経験は、誰もが持っているはずだ。
 どうやらそれは人間の本能であるらしい。自分の意志で「知りたい」と思っているのではなく、意志とは無関係に知ることを欲し、解決に向けて心が動き出してしまうような本能を持ち合わせて生まれてきたということなのだろう。
 つまり人間はもともと「学べる余地を持ち、学びとろうとする、あるいは学びとれる力や構え」を持って生まれてきたし、この地球上で生命をつないできたのだと言える。

 万葉集や古事記では「道」を「美知」と表記している。それは「知ることは美しい」とも読めるし、「知ることは美(よ)いこと」とも読み取れる。さらに「美を知ること」、すなわち「よいもの(こと)、うつくしいもの(こと)を知る」ことが未だ知らない土地につながる「道」であるということを示唆しているようでもある。
 また幕末に水戸藩藩校「弘道館」を創設した烈公(斉昭)は、弘道館記碑文に『藝に游ぶ』と書き記している。藝(芸)とは、芸能の芸ではない。文武すべてにわたる「知と技」を意味した言葉である。また游ぶは現在の「遊ぶ」と同義であることから、さまざまなモノゴトに触れることは「まるで遊んでいるように楽しいことだ」というメッセージとして受け取ることができそうだ。あるいは、そのような知的な遊戯に没頭することは人生の喜びである、ともとれる。

 翻って、現在の子どもたちはそうした知的欲求や探求心を働かせることを十分楽しめているだろうか。
 学校での学びが、入試のための準備、知的な興奮とはかかわりのないところで覚え込むだけの訓練と化してしまえば、知りたい・わかりたいという欲求など起きそうにもない。学習が「知る・わかる」に至らなくてもよい、単に関門をくぐり抜けることだけが目的の「作業」でそれが過ぎてしまえば忘れてもよいことだとすれば、その対象に心が弾んだりときめいたりするはずがないからである。
 しかも、知的興奮とはかかわりのないところで覚える競争を強いられるのだ。
 学習を勉強と同義だと仮定すれば、「勉強とは何とつまらない、味気ないものか」と学習することを忌避してしまうことも懸念される。
 私たちは、「学習とはそのようなものではない、もっと楽しいことだ、心が浮き立つように無我夢中になれることだ」と言葉でも言い、学習の場を設けることで具体的にわかってもらえるような努力をしなければならない。

 そして一方では、世界には学びたいのに学べない子が大勢いること、学べることがどれだけ幸せかということを伝えてもいかなければなるまい。
 現在のように誰もが平等に学ぶ権利を行使できるようになるために、多くの先人の血のにじむような努力があったことも、そしてその権利をおろそかにしてはいけないことも機会をとらえて伝えていかなければならないはずだ。
 そんなに昔の話ではない。日本でつい数十年前に起きたことだ。誰もが自由に学べる現在の状況がすこぶる幸せであることを子どもたちに実感してもらう必要があるはずだ。
 ゆえのない差別のために学校に通えず、70才にして大学の公開講座に通ってはじめて自分の名前を書けるようになり、手を合わせるようにして喜びを体中で表現していお年寄りに大学院時代に出会ったこともある。平成元年のことである。

 かつて私が教職に就いて間もない頃、ある研修視察で県立特別養護学校を訪ねたことがある。
 そこには多くの筋ジストロフィーの子どもたちが生活しており、殆どの子どもがヘッドギアをつけ、ある子は松葉杖をつき、ある子は車いすを押してもらいながら学習をしていた。進行性の筋無力症のため、たとえ転んでも頭を守るためにヘッドギアをつけているのだと職員が説明をしてくれた。さらに多くの子が進行の状況は異なるとはいえ、あと何年生きられるのかわからないという。
 そうした「生」の状況に置かれているにもかかわらず、マンツーマンで行われていた学習に取り組むその子たちの表情は真剣そのものであった。もう何年も生きられないとわかっているにもかかわらず、いま生きていることの手応えを求めるかのように目を輝かせて授業に取り組んでいるのだ。
 私はショックを受けた。われ知らず涙が出てきてしまった。なぜそんなにがんばるのかという疑問と、自分は5体満足でいるにもかかわらず、この子たちのように一日一日を「もうこれっきりかも知れない」という覚悟で生きているかという自問からだろう。帰りのバスの中は全員黙りこくったままだったことから察するに、多くの職員が同じような感慨を持っていたのだろう。

 学ぶことを軽視したり、放棄したりする子どもたちを責めることはできない。
 そう思わせてしまうような教育を展開してきてしまったのは大人なのだ。
 私たちはそのことを謙虚に反省すると同時に、学べる幸せと学ぶことの喜びを伝えることに努めなければなるまい。ただ言葉だけではわかってもらえないことは言うまでもない。その喜びを実感してもらうことが大切だ。そのためには「わからないことがあることが楽しい」と思えるような学習の場を工夫することが不可欠だ。
 その工夫こそが教師という専門職が力を発揮する場なのだ。
 もともと「わからないこと・できないこと」を多く持って生まれてきたのが人間であり、それこそが人間の誇るべき長所なのだということを子どもたちと共通理解したいものである。



いっそうの監視を
 

 教育基本法が、あっさりと「改正」されてしまった。数の論理で国民の多くが抱いている疑問に答えぬまま、そして野党の追及の甘さのせいもあるかとは思うが、それをよいことにろくな議論もなされないままに成立してしまった。
 いや十分議論は尽くされた、という与党議員の声もあるが、そこで論じられたことの多くは法案の作成の仕方や審議の仕方、タウンミーティングの実施にかかわる問題、採決の方法などについてであって、肝腎の教育基本法改正案の内容について論じられることは少なかった。

 多くの国民の声、とりわけ研究者や教育専門家の声は無視され、ついに国会には届かなかったと言って良い。ほんとうなら、国民に直接賛否を問いかけてもよいほどの重要な問題であったにもかかわらず、これまで日本という国が世界に誇ってきた教育基本法をあっさりと自分たちだけで変えてしまったのである。
 国民に選ばれ付託されているからと言って、これは余りにも傲慢ではないか。そして国民を愚弄しているのではないか、と憤りを感じざるを得ない。そのような大切なことまで彼らに付託した覚えはない、と感じている人々は多いはずだ。

 そうした動きを許してしまったことについては一人一人の国民が問題意識をもってこの改正について考えることをしなかった、あるいは国会議員に任せきりにしてしまったという意味で責任を感じてよいと考えているが、私には新聞をはじめとするメディア及びジャーナリストの責任はさらに大きいのではないかと思われてならない。未だ審議が続いているというのに、各新聞は早い段階で「今国会成立へ」と報じ、あたかもその方向にすべてが動いているとの報道ばかりが目についたからである。
 各報道機関がしたことと言えば、先を読んでこれからどこに向かうかを報じ、それが既定の事実であるかのごとく報道することでその流れをますます強めてしまった、と言われても仕方がないような報道ぶりだったという印象が強い。しかも、全国各地で開かれた反対集会や研修会、討論会などについてはほとんど報じることがなく、まるでそうした反対の声などなかったかのごとく無視し続け、何が問題か、どこが問題かといったことについて指摘し論じて一般市民を啓発するような動きは少なかった。

 安倍総理は『戦後のレジームから脱して、新しい国づくりへ』とインタビューで答えているが、成立してしまったこの新しい教育基本法こそ、戦前の旧体制(レジーム)に対するノスタルジーを背景にしているのではないか。「新しい国」を志向しているどころか「旧い国」へ向かおうとしているとしか思えない。
 教育をめぐる問題は深刻である。学ぶ意欲の低下、家庭や地域の教育力の弱体化、いじめの問題など課題は山積であることに違いはない。しかしこうした問題を、政府は個の尊重や自由が行き過ぎたゆえに生まれたものだとし、そのために教育基本法の見直しが必要だと言い続けてきた。
すなわち、個人の自由や権利を統制し、枠を設けることが問題解決の策だとしているかのようだ。そしてそれは、戦前・戦中の非民主的な国家と教育のありようを連想させる。
 いまの教育を良くしたいというのは国民共通の思いだろうが、それを教育基本法のせいしに、教育の理念をねじ曲げることは許されまい。だれもそのようなことは望んでいないのだから。望んでいる者がいるとすれば、過去の教育制度に郷愁を抱いている人たちだ。

 教育が不当な支配を受け、自由にものを考えたり表現したりできなかった当時、人々は表面上「お上の言うこと」をきき、従ってきたかも知れぬ。そうした従順な国民に仕立て上げることを望んでいるとすれば、その矛先はメディアに対しても向き、国民に対するよりなおいっそう強い統制がしかれるであろうことは火をみるより明かである。
 戦前・戦中の悲惨な状況を経験し、自由と権利を獲得したはずの国にしては、余りにもお粗末で余りにも経験を生かせていないのではないか。
 剣よりも強いペンを持つジャーナリストは、問題の核心をついて『これでよいのか』と国民に問い、問うことで啓発し、追及の魁となるべきではなかったか。
何よりもそれが悔やまれる。

 これはイデオロギーの問題ではない。教育は100年の計であり、将来の子どもたちに禍根を残すようなことのないよう、国民がそれぞれ自分の問題として考えるべきものであり、なかんづく教育者と呼ばれる人々は政治の場から切り離し、国の都合や思惑とは無縁の切実な問題として検討していかなければなるまい。
 節度ある成熟した市民として自由にものが言え、自由に考え、自由に振る舞える社会をつくりあげるために、振り子を戦前・戦中にまで戻す必要などないのだ。
 いつまでもこの自由があるとは思わない方がよい。失うのは簡単なことだ。今回のことが最もよい例だ。「美しい日本」などという耳に心地よい言葉にだまされ、いとも簡単に気がつけば学校が強い統制の下に置かれるようになり、教育の自由が損なわれる状況に陥ってしまったではないか。
 教育基本法の次は憲法改正を急ぐことは目に見えている。どう変えようとするのかはおおよそ予想がつくが、いつの間にか不自由な市民になってしまっていたなどという事態にならないように、今度こそきちんとした議論を国民一人一人が、そしてジャーナリズムが、社会全体がこぞって監視し要求していかなければなるまい。

 

 



恥を忘れた人々
 今日の読売新聞の「編集手帳」によると、今年は唐で密教を学んだ空海の帰朝1200年の記念の年なのだという。
 公に認められていなかった一私度僧にしか過ぎない空海が入唐できた経緯については、司馬遼太郎の『空海の風景』に詳説されているが、入唐したのが804年の旧暦11月、唐を発つのが806年の8月のことであるから、2年に満たない期間しか唐にいなかったということになる。
 通常、遣唐学僧の修学期間が20年とされていたことから、これは異例中の異例の短期間ということになる。そのような短期間で密教のことごとくを身につけ、伝法の印可を与えられ、金剛智−不空−恵果と続いてきた密教のトップに立ったということは驚嘆に値するが、それはとりもなおさず入唐以前の空海が密教についての体系をすでに手探りで学び取っていたということの証でもあろう。
 原始密教のかけらのようなものを拾い集めつつ山野に分け入って修行をした足跡が四国八十八ヶ所だと言われている。

 その四国八十八ヶ所を巡るお遍路の旅は、つい数ヶ月前にもNHK教育テレビ「趣味悠々」で取り上げられるなど、いわばブームになっているようでもある。袈裟に書かれた「同行二人」とは、弘法大師空海と二人連れであるという意味であることはよく知られているが、そのお遍路でさえ四国各地で迷惑の原因になっていると、同じ読売新聞が特集「モラルを問う」で伝えていた。
 同紙によれば『遍路の旅で人生を見つめ直したい。そんな人々が全国から集まる四国八十八か所の札所巡りに、異変が起きている。ごみを路上にポイ捨てする遍路がいるかと思えば、山間部では不法投棄された粗大ごみが遍路を出迎える。「癒やしの道」とも言われる遍路道だが、地元では「このままでは『嘆きの道』に変わってしまう」と心配する声も上がり始めた。』というのだ。
 ブームにより、手軽で楽なマイカーによるお遍路もごく普通になってきているようで、そうした遍路マイカー遍路が走行しながらゴミをポイ捨てするなどの迷惑行為が増加しているというのだ。沿道の住民が無料で宿や食事を提供する「お接待」と呼ばれるサービスがあることはつとに有名だが、マナーの悪いお遍路が増えてきたことから「お接待」を止める人々も増えてきたという。

 刻苦勉励し、真言を得て国や民衆の力になろうとした大師の足跡をたどるのに、手軽にまるで物見遊山の旅でを楽しみながら安穏の心を得ようとする心情とリンクするように、迷惑行為をしても平然としている人々の姿が目に浮かぶようだ。
 何のために長い道のりを大師と二人連れで旅するのか、単に流行だからと言ってそれに乗っている人々にはそのようなことすら眼中にないのかも知れない。
 神や仏を信仰する旅ですらこの有様である。かつては、「神仏に恥じない」として自らの行いを律してきた「恥の文化」とも言える誇りに立った生き方をめざしてきた日本人の姿はここにはない。

 私はかつて著書「危機に立つ教育」の中で次のように書いたことがある。
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 そうした行為(ゴミのポイ捨て)をする人たちは、ゴミ捨て場ではない道ばたにそれらを投げ捨てることに何の抵抗も感じないのだろうか。
ゴミ捨て場と言えば、高速道路のサービスエリア内に設けられたゴミ箱に、自宅で出たゴミをわざわざ持ち込んで捨てていく人も多いと聞く。
迷惑な話である。

 他人や社会に迷惑をかけても、それを迷惑と感じない人が増えたということなのだろうか。
 ある行為が他人(あるいは社会)に迷惑をかけるかも知れぬと感じる想像力や洞察力が欠けているとすれば、そうした迷惑な行為にブレーキがかかることはあるまい。
 そういう人たちの口から『迷惑をかけなければ何をしてもいいだろう』などという言葉が聞かれるに至っては、何をか言わんやである。

 教育論議が盛んである。
 それは学力低下論者の著す「学力低下を防ぐため」「有名校にパスするため」といったハウツーもののたぐいの本がよく書店の棚をにぎわしていることからもよく窺える。
 そうした書籍が本当の意味で学力や教育についての考察をもとに、それらについて論じているかどうかは措くとして、教育がこれほど注目された時代はなかったのではないだろうか。
 しかし、教育は学校教育だけでなされる作用ではない。
 また学校教育の目的もテストが終われば忘れてしまってもよいということを前提にしたかのように、ものごとを一時的に記憶させることにあるのではない。
 あることについて学ぶのは、それについての知識を得るためではない。それを学ぶことによって生き方が変わらなければ、学んだ意味はないのだ。
 つまり教育とは、人間としてあるためのバックボーンを培う作用なのだ。

 ほとんどの子女が高校や大学で学んでいるにもかかわらず、彼らが自立した市民として成長することがなければ、その「人間としてのバックボーン」は育たなかった、従って教育の目的は達せられなかったのだと言っても過言ではあるまい。
 街中や電車の中など、公共の場で他人に迷惑がかかるような行為を平然としてしまうような人間を育ててしまったとすれば、それは教育に何らかの落ち度があったと言わざるを得ない。
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 道端にゴミを捨てていく行為のみならず、高速道路のSAにあろうことかドライブ中に出たものではないと明らかに思われるゴミ、たとえば粗大ゴミ、家庭で出される生ゴミなどが平然と捨てて行かれる事態が多発しているともいう。
 中には、ゴミの分別などの煩雑さ・わかりにくさ、電化製品のリサイクル法による処理の手間などがこうした事態を生む原因になっているのではないかと指摘する向きもあるようだが、それだからといって認められる行為ではあるまい。
 学ぶという行為を単に「覚え」知識を「持つ」ことと意識するから、知性も教養も育たず、よりよく生きようとする意志の育ちにもつながらないのだ。
 知識や技術を学ぶにしても、先述のようにそれが「生き方」に、人間としての成長につながらなければ学ぶ意味はない。
自然や人間、社会の仕組みやものごとの成り立ちの不思議と見事さに触れ、感動し、見きわめようとするとき、人は自分自身の「在り方」について関心を持ち、自ずと考えさせられる。考え、実践し、つまずいたり成功したりする中で自己を振り返り確かめ、人は成長していくのである。
「学校」の文字は、「学=まなぶ」と「校=かんがふ(考える)」の二つの文字から成り立っており、まさに学校は「まなんでかんがえる」場であり、決して「教えられて習う」場所ではない。
 知識や技術を身につけることには成功したが、その先にある「どう生きるか」について「かんがえる」ことの希薄な教育を社会全体で推し進めてしまったことのツケが今の混沌とした社会を現出させてしまったことについてまず反省しなければなるまい。考えることを抜きにした教育は教育とは言えない。
それは訓練あるいは調教でしかないのである。