『知識の対象のなさ』
 長い学校教育の期間を通じて、「なぜこんなことを勉強しなければならないのか」という疑問を、一度も持ったことのない人は
まずいないであろう。
 「基礎になるから」という表現もよく使われるが、どのように何の基礎になるのか説明されれば納得して学習できるが、「基礎」と
いう言葉だけでは説得力はない。
 このような事実が示しているのは、知識が学習者に意味を示すことなく押しっけられてしまっているということである。
 知識の対象がはっきりしないのである。知識は外界の対象と交渉する道具なのであるが、対象が学習者にとって明らかになって
いなければ、地図のないまま長い坂道を登っているようなものである。
 学校教育が明るい未来を約束してくれるものであり、社会やその規範が確固としたものとして子どもたちに見えた時代においては、
地図のないまま少々の苦労をさせられても、現在よりはずっと忍耐カを示したのである。
昔も学習者たちに地図を示し得ていた訳ではないが、それでも辛抱をしてくれたのである。
 今はそうはいかない。教えられる知識の意義、有効性が学習者に示され、将来への地図として機能するようでなければ、学習者の
自発的な学習は促進し難いのである。
 知識の意義の問題は、将来と関わるだけではない。知識を獲得し、すぐにもそれを使用して、得た知識が対象と交渉するのに有効
であると実感できたとき、昨日できなかったことが今日はできるのであるから、自分への自信という意味での自己効力感も増し、意欲
にもつながるのである。
 「自ら学び自ら考える力」の育成には、知識が何のためのものであるかという観点は無視し得ないものなのである。
頑張ることに、形式陶冶的な意味があるといった主張もないではないが、比較的従順な学習者以外にはあまり説得力がなくなって
きていると思うべきであろう。

         『なぜ、「自ら学び自ら考える力」をはぐくんでこられなかったか』
                  西林克彦(宮城教育大学教授)
                  雑誌「教育展望」2002.4月号 p.25