あちこちの大会や研究発表会で指導案を見させていただいたり、授業を担当された先生方の発言を聞くたびに、気になる言葉の一つに「意欲を持たせる」という言葉があります。  自分を取り巻くさまざまな環境に働きかけ働き返される活動を通してこそ、本来の学習が成立すると考えられますが、そのためには何より学習者自身が文字通り「自分から進んで」「やる気を持って」取り組むということが前提としてあるはずです。
だからこそ、「やる気=意欲」や「意志」が新しい学力観の中核に据えられ、学習を考える際のキーワードになっているのです。
ところで、その「やる気=意欲」は誰かから『持ちなさい』と言われて持てるものではないし、もともと「持つ」ものでもないと考えられます。もし、言うとすれば「湧く」もの、「生じる」ものと表現するのが妥当でしょう。それは、自分の内に「やってみたい」「やりたい」「知りたい」「なりたい」というように気持ちが起きることを指していることからも理解できます。そして、そのような気持ちは「持とう」と思ったから沸き起こるわけではなく、文字通り「自ずと」「自然に」沸き起こってくることが普通です。
「持とう」という意志とはかかわりなく生じるそのような「意欲」を、どうしたら持てるようになるのか、ざっくばらんに言えば「どうしたらやる気になって取り組めるようになるのだろうか」というのが私たちの最大の関心事ですね。
 先ほども言いましたが、この「意欲」はやっかいなことに、『持ちましょう』とか『持ってごらん』と言われたところで持てるわけではありません。もし、仮に持てたとして、あるいは持てたように見えても、それは実は本来の意欲ではないことが多いのです。
 先生やお母さんがそう言うから「やらなきゃ」とか「やってみようかな」と思えたとしても、それは本当の意味の意欲(内発的な意欲)ではなく「外発的な意欲」とでも言えるものだろうと思っていますし、それが積み重なれば「指示待ち人間」を育てることにつながってしまうことでしょう。
私たちは、やる気を引き出そうとしてしばしば直接的な言い方をしてしまいがちです。
 音楽などでは、「きれいな響きで二部合唱してみよう」とか「強弱を工夫して曲の感じを表現しよう」といった具合です。体育などでも「4段の跳び箱を跳べるようにがんばろう」などと直接的な言葉で表現し、子どもたちにそれを求めがちです。
 直接的な言い方でありながら、実のところ意欲を引き出すには何の足しにもなっていないとは思われませんか?
 『どうしてきれいな響きで歌わなきゃいけないの?』『どうして4段も跳ばなきゃいけないの?』という素朴な疑問が沸き起こったとしても不思議ではありません。
 音楽だから美しくきれいな響きでなきゃ困る、というのは大人の論理で、このような言い方からは「やってみたい」「挑戦してみたい」「できたらいいな」が生じる保障がないばかりか、却ってやる気をそいでしまうことも考えられます。
 ずいぶん昔の話で恐縮ですが、大学3年生になった時のことです。一緒に学生指揮者をしていた友人が、突然にこんな相談を持ちかけてきました。
『俺達も学生時代の半分が終わってしまった。合唱では楽しい思い出がたくさんできたけど、最後の思い出づくりにクァルテットの仲間で来年北海道に行かないか?』
 『いいね、いいね。』
今で言えば卒業旅行でしょうか。
 北海道なんて地の果ての遠い遠い所、自分には何のかかわりもないし行ってみたいなんてさらさら思ったこともない土地でしたが、何となく心が動いたのです。北の果ての大地というイメージが学生特有のロマンチシズムを刺激したのでしょう。
 『行きたい。とっても行きた〜い。』
 まんざらでもない表情を見て取ったのか、彼は続けてこう言ったのです。
『ついては、電車で行くのは月並みだから車で行こうと思う。俺達は誰も車の免許を持っていないけれども、今からなら間に合うはずだ。皆でそろって取りに行こう。』
今日の食事にもことかく有様で、しかも運転免許を取るためにはかなりの出費が予想できたはずなのに、さらには時間がかかることも予想できたはずなのに、北海道に行きたい気持ちが先に立って、そんな困難も気にならなかったようです。
 貧乏学生にとってカネをつくるというのは大変な、そして気の遠くなるような事態だったはずでしたが、北海道に行ける、しかもカッコよく車を運転して行けるんだぞ、という期待の前ではさしたる困難とも思えなかったのでした。
 結論を先に言えば、何だか拍子抜けのするほどあっさりと叔母が免許を取るにはおつりがくるほどの大金を貸してくれたおかげで、ずいぶんと順調に免許は取れてしまったのですが、肝心の北海道行きは言い出しっぺの友人の心変わりで行けずじまい。
 それでも、思いがけなく車の免許だけは手元に残り、おかげでそれ以後の生活に不便を感じることなく恩恵にあずかっています。
 それもこれも、あの時に件の友人が直接的に『車の免許を取らないか?』と言ったのではなく、『北海道に行こうよ』と言ってくれたおかげだと思っています。
それだからこそ、『行きたい、とっても行きた〜い』の気持ちが先行し、それを実現するための手段として免許を取りたい、死んででも手に入れたい、と強く思えたのです。
 ある研究者は、意欲を支えにした主体的な学習の実現に関して次のように言っています。

  『AをさせたかったらBと言え』

 彼は、そう意識したわけではなく、図らずもその「AをさせたかったらBと言え」を実行して私をしてやる気にさせてくれたのでした。
 教育方法論的な言い方をすれば、活動意識を核にした学習を構成することで指導者のねらいをよりよく達成しようとする目的的な学習活動の展開に意欲が持てる、ということになるでしょうが、「(指導者にとって)学ばせたいことを(子どもの)学びたいことに変える」と言えばわかりやすいでしょうか。
 そうできるよう、「B」に何を据えるかが重要な工夫の視点だろうと思っています。
 新学期が始まったばかりで意欲満々の子どもたちが、その意欲を減退させることなく益々やる気を発揮して学習や生活に取り組んでいけるよう、単元や題材をその観点で見直してみてはいかがでしょうか。


◆学者はいらない?◆
いつだったか、ある会合でどこか(ということにしておきます)の校長先生がこんなことを挨拶の中で話しておられました。曰く『学校に学者はいらない。』
どのような文脈の中で、そして「学者」という言葉にどのような意味をこめて話されたのか失念してしまって今となっては思い出すことはできませんが、妙にその言葉だけが印象に残っています。
これは数年前の話で、教育改革の真只中にある今では、そのようなことをおっしゃる校長先生がいるとは思えません。しかしかつては、考えることは偉い人たちに任せておけ。理論や理屈ではなく、子どもたちを指導する実践にこそ教師の力が発揮されるべきで、口舌の徒になってしまってはいけない、ということが強調されたのでしょう。
学者を「口舌の徒」とか現実の教育の場で通用しない理論、つまり机上の空論を論じる人たちというようにとらえていたのでしょうか。
しかし、と私は思うのです。
私たちは、今やまさに子どもたちが「指示待ち」ではなく自ら考え工夫し、主体的な行為のつくり手として「生きて働く」力や構えを身につけていけることをねらってさまざまな教育活動を展開していこうとしているのです。それは、子どものみならずそれを教える私たち教師にも求められている資質であると言えます。
例えば、先頃出された『教育課程審議会報告』では「総合的な学習の時間」の設定についての章で次のように述べられています。

     児童生徒一人一人の個性を伸長する教育を行うためには、まず何よりも児童生徒
   の実態、地域の実情等を踏まえて、各学校が創意工夫を存分に生かした特色ある教
   育活動を展開することが重要である。
     現在、国、地方公共団体、学校等を通じた地方教育行政制度全体について見直し
   を行っている中央教育審議会においても、学校の自主性・自律性を確立し、教育委
   員会は学校の自主的取組を支援することに重点を置くとともに、国は教育委員会の
   主体的な取組を一層重視する方向で検討が行われている。
     各学校の創意工夫を生かした指導が一層行われるようにするとともに、児童生徒
   の主体的な学習を促す観点から、学習指導要領における各教科・科目の内容の示し
   方については、教育内容の厳選や基礎・基本の明確化に努めつつ、学校段階や教科
   等の特質に応じて、目標や内容を複数学年まとめて示したり、各学校がその特色に
   応じ、また児童生徒がその興味・関心等に応じ、選択できる幅を広げたりするなど
   の大綱化や弾力化を図る必要がある。       
学習指導要領が幅のある緩やかな表記になっているのは、どこまでも『各学校がその特色に応じ』た工夫ができるようにとの趣旨からであるし、総合的な学習そのものが何よりも『児童生徒の実態、地域の実情等を踏まえて、各学校が創意工夫を存分に生かした特色ある教育活動を展開すること』をその基調としているということです。

◆主体は私たち◆
つまり、文部省や地方行政の組織が「こうしなさい」と言うのを待っていたのでは、本来の意味での「総合的な学習」を構想することはできないし、仮に実践にこぎつけたとしても「学校の児童・生徒の実態」に即したものになり得るか、ダイナミックな活動を通した「真の学力の向上」につながる学習の成立を見ることができるか非常に疑わしいのです。
どこまでも一人一人の先生の創意と工夫をベースにした確かな実践と検証・考察が求められているのです。
創意工夫をするためには、発想の基地をどこに置くか、その基地のなかみをどうするかということが重要になってきます。
私はその発想の基地になるものは「教育に対する哲学(科学)」だと思っています。
現行の指導要領が出された時点から、もっと言えば1980年代の半ばから上からの指示や説明でではなく、個々の教師がそして学校自体が教育について考え、自らつくりあげていくことをあずけられていると言えます。教育の課題は何か、求めるべき子どもの姿はどのようなものか、生涯学習社会に生きて働く資質とはどのようなものかなどについて情報を集め、思索し、その上で実践に移していくといったことがどうしても必要なのです。
 そうできた時に始めて「学力観」を自らの中に築き上げ、指導観を支えに具体的な授業を構想していけるはずなのです。
 私たちは「臨床医」であると同時に臨床に必要な理念やテクノロジーを構築・開発していけるだけの力を持った「病理学」についても深く追究する姿勢が必要で、いわば教育を学問することが今や欠かせない姿勢なのです。言ってみれば、町医者であると同時に研究者としての一面を持つことが大事なのだと思っているのです。

◆確かな教育理念をベースに◆
赤ひげが立派なのは、医術を駆使したからだけではなく「仁術」をもって患者に対するという姿勢を貫いたからですが、私たちも教育活動の基地としての「教育理念」「教育哲学」を自己の中に構築していくことが何よりも大切なはずです。そして、そう考えて見るとあだやおろそかに「学者は必要ない」などと言う言葉を吐いてはいけないし、それは教師集団を単に「教え手」としての技術集団としてしか見ていないことであるとも言えます。
 「君たちは駒に徹すべきだ。その駒を動かして将棋をさすのは、もっと上の者がすることなのだから。」と言っていることと同じで、大変に失礼な話です。
 教育をつくり変える本当の変革の動きをつくり出していく担い手は、直接子どもたちに接することのできる私たち教師集団以上のものはないと言えますが、その意味でも私たち自身がどこまで研究を深められ、高い視野からものごとを見つめることができるかがすこぶる大切だと言えるでしょう。
 トップ(頂上)を高くして裾野を広げるためにもね。


 私たちは、日々子どもに接し、支援や指導を通して子ども一人一人の「よりよき成長」のためにお手伝いできることはないか、と苦心を重ねています。
 その「よりよき成長」のために、家族が、とりわけ親がどのように子どもに接すべきかということについて次のような指摘ができるだろうと考えています。そして、それは家庭における親にとどまらず学校における私たち教師にも求められている在り様なのではないかとも考えていますので、話題として取り上げてみました。
 よりよく育ち自立していく上で、「自己概念」をどのように持つことができるかということが非常に大切な要件として在るということについては、いつかのリサーチに書いた通りですが、「ポジティブな自己概念」をベースに「勇気や自信」を獲得し前向きな姿勢を持つことができれば、自ら成長していこうとする意欲や意志を醸成することができるでしょう。
 その意味で「自信を失くさせない(どうせぼくなんか、やっぱりだめさなど)」子どもへのかかわりがどうしても必要になりそうです。
 そこで、
 

1 子どもの気持ちを上手にキャッチし、「キャッチした」と伝え返すこと

     子どもが学校から帰ってきて『お母さん、晩ご飯、な〜に?』と聞く。
     すると普通は、『今夜はカレーよ』と答えるでしょう。しかし、子ども
     がそう尋ねるのは、お腹が空いているときなのです。ですから、『お腹空
     いたのね?今夜はカレーよ』と一言添えて答えてあげるのです。
     それが、子どもの目の高さに立って寄り添う、ということ。
     言葉で表してやらないと子どもには伝わりません。
     自分の気持ちが受けとめられたという実感が、子どもの心の成長に繋が
     るのです。
      いったん受け止め(受容し)、その子の心情に沿ってやさしく言葉を返
     していくことができれば、子どもは「自分は認められている、見つめられ
     ている、愛されている」という実感を持って素直に育っていけるのです。

2 子どもに決めさせること

    不登校児に選択肢で答える簡単な問題をいくつか出して、『○か△をつ
    けてごらん』と言うと、△(どちらかわからない、どちらでもよい)の回
    答を多く出すのが特徴だそうです。
    幼いうちから自主性を育てるには、子ども自身に決めさせることです。
    『目玉焼きにするか、玉子焼きにするか』でもいいのです。
    『どっちでもいい』と答える習慣をつけさせてはいけません 。
    『どっちでもいい』は考えることを放棄してしまった、あるいは決める
    ことを親に「お任せ」してしまった「関係なし」の態度で、それを重ねて
    いけば当然指示待ちの受け身でしかものごとにかかわっていけない子ども
    を育てることになってしまうのです。
    自分で決めて自分で選び、「自分の行動の主役は自分」という意識を育
    てていくことが大切でしょう。

 もちろん、子どもに選ばせれば『こちらを選んでよかった』と思えることばかりではなく、時には『あちらを選んでおけばよかった』と悔やむことも出てくるでしょう。もしかすると成功体験よりも失敗体験の方が多くなるかも知れません。
 そこで、

3 あえて失敗体験をさせろ

   近頃の子どもたちは成功体験ばかりセットされていて、失敗を極端に恐
   れます。マラソン大会で毎年一位だった子が、『今年は二位に落ちそうだ。
   もうダメだ』と不登校になった例があったそうです。
   今の親たちの子育ては、完璧を狙いすぎなのではないでしょうか。
   『二位だってすごいことだ』と教えないのかも知れません。
   だから、ビデオのタイマー録画をミスしたり、お風呂の水を溢れさせた
   りしただけで、落ち込んでしまうのです。
   『失敗してもかまわないんだ』と子どもに納得させることが大切です。
   自分の成功や失敗の原因を他に求めない子どもは、ねばり強くやりとげ
   ようとする傾向が強いと言われています。自分で選択した結果、失敗した
   としてもそれは納得のいく失敗で、ささやかな失敗で落ち込まず根気よく
   やりとげようとする積極的な子どもを育てたいのであれば、失敗を恐れな
   い構えを育てることが必要なのです。
   『二位に落ちちゃったのか』という言葉かけは脅迫でしかありません。
   『二位になれたなんてすごいじゃない』という包容力のある受容の仕方
   が親にも子どもにもゆとりを持たせるのではないでしょうか。

今の子どもに乏しいのは、挫折感とそれを乗り超える力。
挫折感を上手に受けとめることができないと、自分の行いを合理化しようとして、失敗すると『他人が悪い』と原因を転嫁しがちになります。
不登校や家庭内暴力などの問題行動の多くは、「子どもが、いままでの育てられ方にNOのサインを出している」ことに因るものだと考えられています。
『もう親の期待に応えられない。このままでは自分が破滅するかもしれない。親が過剰な期待をするからいけないんだ。』というサインです。それは子どもにとって一つの主張であり、親から与えられた通りでない自我を構築しようとしている姿なのです。
問題行動に接すると、親は慌てがちですが、実は子育てを振り返るチャンス。
 子どもにとっては、自立のはじまりでもあるのですから。
子どもが自立できるようにと願って始められるのが「教育」ですが、今の親は心のどこかで「いつまでも自分に頼り切っている今の○○ちゃんのままでいて欲しい」と願っているのではないかと思われるような接し方をしてしまいがちです。本当に自立を願うのなら、親が子どもから自立することが必要なのかも知れませんね。


先日の朝日新聞に次のような報道がされました。TVニュースなどでも放送されていましたのでご存知の先生も多いかと思いますが‥‥。

   子どもたちの2割が「日常的にいらいら・むしゃくしゃしている」と感じて
   いると文部省が30日に発表した1998年度教育白書で報告された。
   「時々ある」を含めると、約8割の子どもたちがいらいらを感じている。
   受験を控えた中学3年生と高校3年生の約5割はむしゃくしゃする理由を
   「授業が分からない時」と答えており、「分かる授業」が有効な解決策である
   ことをうかがわせた。
   〜中 略〜
  不安を感じる頻度は、年齢が上がるほど増え、「よくある」「ときどき」の
   合計は中3が69%、高3は78%にのぼった。
   理由として「進路・進学」を挙げたのは、中3が68%、高3が77%。
  「授業が分からない」は小6が48%、中3が63%、高3が52%。
   授業が分かるか分からないかが、心理状態を決める大きな要因になっている
   ことを示した。

 授業が『わからない』という心理的に不安な状態が、イライラ・むしゃくしゃを引き起こす大きな要因になっているし、その状態が現代の子どもたちをおおっているということなのですが、そうならないために私たちは『わかる』授業、『わかる』学習をさまざまな側面から工夫していく必要があるでしょう。
 そこで、この号では『わかる』ことについて考えてみたいと思います。
 佐伯 胖東大教授は、『わかる』とは『イメージ化できる』ことである、と論じています。 例えば何かの文章を読んだときに、そこに書かれている様子を具体的に思い描くことができれば、「あゝ、そうか」と『腑に落ち』て納得することができる、すなわち自分の知識の構造の中にすんなりと組み込まれた形で受け入れられると言うのです。(本当はもっと長大な論文で、こんなに簡単に言いきってしまってもどうかと思うのですが)
すんなりと組み込まれて、自分の既有の知識体系の中にしっくり溶け込むように『わかる』ことが真の『理解』であると言えますが、別のある研究者は『わかる』ことを次のような状態であると述べています。

   ○分ける(分類する)ことができる
   ○他の言葉で言い変えることができる
   ○例え話ができる

 本当に理解できて、自分の知識の体系の中に馴染んだ形で組み込まれていれば、自分の持っている他の言葉で(自分なりの表現で)言い変えたり、他に活用したりできるはずです。 『わかった』ことが、ある言葉の意味であったとすれば、それを別な表現で説明することやその言葉を使って何か自分の言いたいことを言い表したりすることができるでしょう。
 また、自分がそれまで使っていた別の言葉との違いを指摘したり、その違いを言い当てたり違いが何に起因するのかを指摘したりすることができ、区別することもできるはずです。つまり、分類する観点を獲得することができるはずなのです。
 それが納得を伴った『わかる』(理解)であるとすると、単に『覚えた』『知った』という状態とは違うということに気づきます。
 つまり、納得はしなくても『覚える』ことはできますが、自分の知識の体系や価値の体系に組み込まれていない知識は、あくまでも知識や価値の構造の外側に浮遊している知識で、不安定な状況にあります。だから、簡単に忘れてしまったり使うことができなかったりするのです。『うろ覚え』というのは、その最も端的な例だと言えますが、自分に取っての意味を伴わない『覚える』は、『わかる』こととは別物なのです。
 子どもたちは、どんな子どもでも『わかりたい』と思っています。
 自分にしっくりする、「あゝそうだったのか」という腑に落ちるわかりかたで安心感を得たいのが人間の基本的な欲求ですが、それは子どもだって同じことです。
 子どもほど知的好奇心の強い存在はないとも言えますが、そのような腑に落ちるわかり方ができるためには、それ以前の段階、つまり「なぜ?」「本当にそうなの?」「ちがうんじゃない?」という自分の持っている知識の構造とのズレを意識することが大切です。(もちろん、それだけで「わかろう」とする意欲が生まれるわけでもありません。それが生まれるためには、それを知ることが自分にとって意味があるかどうかということの方がもっと重要なのですが‥‥。)
 そのような状態に追い込まれるからこそ、意味のある「わかった」を強く求めて行動を開始できるからです。言葉を変えて言えば『内発的動機』ということになるでしょうが、ただ単に「覚えなさい」と言うだけでは、あるいは「これはとても大事なことだから、しっかり記憶しておくように」と言うだけでは、そのような内発的動機が生じる保障はどこにもありません。
 そこで、私たちの大いなる工夫が必要になるのです。
 もともと「私だって、ぼくだってわかりたい」と欲している子どもたちの願いに応えるためにも、そしてイライラ・むしゃくしゃから解き放して生き生きと生活できるように寄り添うためにも、知恵を働かせて工夫することが大切なのではないでしょうか。


◇今の非行の特徴◇

 先の号で、子どもたちの多くがイライラ・むしゃくしゃしている、ということについて書きました。そのような心理的に不安定な状況は、爪を噛むとか何かを誇示して得意がるなどの行動面で察知することもできますが、容易には見つからない場合も多いようです。
 ごくふつうの、ふだんはおとなしい子が前触れもなく思いも寄らない犯罪を突然起こしてしまったかのように見える、いわゆる『いきなり型非行』などはそのような「見えていなかった不安定な心の状態」に因るのではないでしょうか。
 『いきなり型』と言うと、まるでそれまで晴れていた空が急に黒い雲に覆われ、突然激しいカミナリに襲われて晴天の霹靂に遭遇したかのような言い方に聞こえます。
しかし、それは本当に『いきなり』だったのでしょうか。
 従来の非行はいかにもこれから非行に走るぞ、といった意志表示とも取れる前ぶれ行動が見えました。髪の毛を染める、制服に手を加えて長くしたり短くしたりする、無断で授業をさぼる、喫煙や万引きをするなど、いかにも自分がワルだと誇張するかのような振る舞いによって、周囲にアピールするタイプの非行で、これはとてもわかりやすい非行だったと言えます。
 しかし、今の非行は「ごくふつう」で「おとなしそう」に見える子どもが、ある瞬間突然に予想だにしない恐ろしい行為を引き起こすというところに特徴があることから、『いきなり型』などと言っていますが、それは私たち大人が依然として『前ぶれ行動』という尺度で子どもたちを観ているから、予測できないことなのではないでしょうか。

◇見方を変えよう◇

 見方を変えて、私たち大人が子どもを観る際、子どもたちが「心理的に不安定」であるかどうか、「こころの健康」を害していないかどうかという側面で観、ケアすることができれば、そのような子どもたちの「キレル」状況を救ってやれるのではないでしょうか。 
まわりの大人が、決して自分の都合や体面のためではなく、本心から「自分のことを心配し、自分を受け止めよう」としてくれている、ということがわかるような接し方で接することができれば、子どもたちの不安定なこころを落ち着かせることができるはずです。
 そのような不安定な状況を把握する方法としては、まず何よりも子どもに近づいて子どもの話を熱心に聴くことでしょう。当たり前のことかも知れませんがこれ以上良い方法はないのではないでしょうか。

◇子どもの話を聴く◇

 子どもに近づくということは、子どもと正面から向き合うことです。そして、子どもの話を真剣に熱心に聴いて受け止めることでしょう。
 子どもの話を聴いて受け止めるというのは、その子ども自身が「先生は、私の話をよく聴いてくれた。わかってくれた。」と思えるように聴くことです。
決して私たち教師が「自分は子どもの話をよく聴いた。」と思うことではありません。
あくまでも子ども自身がそう感じなければ、『聴いた』ことにならないのです。
そして、大事なのは、聴き取った子どもの話が一段落したあとで、「そうだったの。あなたはこんな考えで、こうしたいと思ったんだね?」という具合に、それまでの子どもの話を簡単にまとめて子どもに返すことだと考えています。(それは、子どもの話の枠から出てしまったり、内容を言い変えてしまったりしないという条件付きですが。)
そうすることで、子どもは「私の言っていることと同じだ。先生は私の考えていることをわかってくれている。」と思えたり、自分の悩みやモヤモヤは決して「でたらめなものではない」と思えたりするはずです。

◇信頼をベースに◇

 そうなった時にはじめて「先生は私の話をよく聴いてくれる。」と思えるし、このようなことが重なることで子どもはいっそう自分のこころを開いて、それまで以上に自分を語り始めるだろうと思っています。
 そのような信頼関係をベースに安心して自分自身を語ることで、自分のこころに問いかけ、自省的に自分を見つめる目も動きだし、(よくなるために)何とかしたいという自浄作用が働くだろうと楽観的にとらえています。
逆に言えば、安心して自分を語ることによって自分自身を振り返ることがなければ、自浄作用は働き出さないのです。
 私たちは教師という立場上、どちらかと言えば「教え指導する」ことに意識が傾斜して、子どもが自分自身を自省的に振り返る前に「なぜ、あなたはそうなの?」「そんな考えでは困るんじゃないの?」と指摘したり矯正したりしようとしがちなのではないでしょうか。
 それでは子ども自身の「よくなろう」とする気持ちを削いでしまうばかりでなく、こころを開いて本音を吐露しようとする気持ちにまでもブレーキをかけ、『本当のこと』は何も語らないて子どもにしてしまうと思われるのです。
 子どもの話を熱心に聴いて受け止めることは、単に非行をくい止めるということにとどまらず、一人一人の子どものよりよく生きようとする心を育てることにつながるのです。
そう信じて子ども一人一人の声に熱心に耳を傾けようではありませんか。


 中教審の答申が6月に出され、また9月には「今後の地方教育行政の在り方について」の答申がなされ、12月には新しい指導要領が告示されるなど、新しい教育への動きはますますその速度を速めています。
 冬休みの間に新しい指導要領をつぶさにご覧になられた先生もおられるかと思いますが、なぜ改善されたか、基本的な考え方は何か、何が強調されているか等について、深く理解する必要があると考えています。なぜならば、今回の改訂は何よりも『各学校において、創意工夫を生かして、特色ある教育活動を展開すること』、つまり特色ある学校づくりへの期待がそのベースになっていて、それは各先生方に託されているからです。
規制緩和という社会全体の流れの中で、教育政策も各学校の主体性を従来にもまして期待する方向に変わりつつあります。答申「今後の地方教育行政〜」に示された『学校評議員制度』などは、その端的なあらわれだと言えるでしょう。
 すなわち、開かれた学校づくりをめざして「地域住民の学校運営への参画」が必要であり、校長の求めに応じて「意見を述べ、助言を行う」学区内外の有識者、関係機関・青少年相談員等の代表者で組織するというのがこの評議員の制度ですが、教育はそれぞれの地区の住民と学校が相互補完・連携協力すれば、個々の実状に応じたしかもそのよさがますます生かされるような特色ある教育活動を展開できるであろう、という大前提に立っているからです。
 各学校の主体性に期待が寄せられるということは、とりも直さず私たち一人一人の確かな教育哲学・教育理念が求められているということです。それが根っこになければ、どう授業実践を積み重ねようが求められているものに応じられないからです。
「教育課程改善が問題になるといつも教師の力量が問われる。」と主張するのは、教育心理学で著名な奥田眞丈芦屋大学学長。
 今回の教育改革は、人間の本当のわかり方、文化実践への参加を通した学びの意味といった認知心理学の成果を土台にしていますから、なおいっそうそれらについて精通し自己研鑽を積んで信念や哲学を持ち、理論武装を強固にして授業を構想していく必要があるのです。
 これまでならば、誰かがやった手法を持ち込んで自分のクラスでもやってみればいいさ、といった模倣でも済ますことができたでしょうがこれからはそうはいかないはずです。
 なぜなら、一人一人の子どもの「わかる」「学び」を保障しようとしているからで、どこかの学校のある児童にはうまくいったことでも、自分の担任するある児童にも通じるということは前提にはしていないからです。むしろ、同じ手法が通じる場合の方が少ないはずですし、そもそも授業の方法論を命題としてはいないからです。
さて、そのような文脈の中で、新井郁夫上越大学教授はそのような学校の主体性を重視する動きを逆流させないためにも「学校における優れたリーダーシップ」が必要だと言います。

     しかし、現実の管理職登用にかかわる人事政策のもとでは、たとえ優れた
   リーダーがいたとしても、それを発揮できない状況にある。
    まず第一の問題状況は、ペーパーテストを中心にした登用システムである。
    このシステムのもとでは、優れた管理職を育てたり、登用することは難しい
   のではないかと思われる。もちろん、このようなシステムによって登用されて
   いる現在の管理職がリーダーとしての資質を欠いているというわけでは必ずし
   もない。
    しかし、ペーパーテストによって管理職を選抜する以上、管理職を志向する
   者が、ペーパーテストに合格するための準備をすることになるのは当然のなり
   ゆきである。
    問題なのは、これでは法律や論文に強い管理職は生まれるであろうが、これ
   からの学校経営を担う管理職は育たないということである。
    これからは教育活動が法律に違反していないかどうかとか、法に適合的であ
   るかないかといったことよりも、子どもの「生きる力」を育むという観点から
   適切な活動の計画立案に指導性を発揮できるような管理職の登用が期待されて
   いるのである。

 管理職をめざすかどうかは別として、誰もがいずれ後輩を指導・助言する立場になっていくことは間違いありません。
 そしてそれだけではなく、教育課程の計画・立案は管理職の問題ではない、実は教職員すべてが主体となってつくりあげていくものだというとらえに立てば学校づくりがうまくいくためには、一人一人の教師の考えとそれをもとにした実践が重要になってくるでしょう。
 その時にしっかりした助言や指導ができるかどうか、あるいは確かな実践を積み重ねて子どもの育ちに貢献できるかどうかはまさに「いま」にかかっているのです。
管理職をめざすのであれば、これまでは法規を「お勉強」して「覚え」れば合格することができたでしょうが、これからはそうはいかなくなることが強く予想されます。
 むしろ、教育に対する「確かな考え」や「発想」などが問題視されるようになるだろうと思われます。それは、受検しようと思ったその時になってから身につけようとしても容易には身につかないはずです。覚えるのであれば、「一夜づけ」ということも考えられますが、理念や着想・思考と発想、哲学的な理論武装は短期間ではどうにもなりません。
 学校が積極的に創造性を発揮することが期待される21世紀の学校においては、従来のような「国で決めた原理原則を覚え、それに従って学校を運営すること」が役割だととらえ、それにふさわしい人材を選ぶのに適していると思われてきたペーパーテストは、管理職登用の主流でなくなることが考えられるからです。
まず何よりも「望ましい教育とは何か」「学ぶとはどういうことか」といったことについて理論と実践をリンクさせ、発想のつばさを広げて体系的に考えを組織していくことでしか、それに耐える自分は育っていかないでしょう。
管理職をめざさない先生でも学校づくりの主役の一人としてそれらのことが求められているのです。お互い「よりよい子どもの育ち」をめざした教育改革の潮流をつくりだす一員として、進んで「学校の創造と再生・復活」を楽しもうではありませんか。
これからますます教育がおもしろくなりそうですからね。


 先日、私の次女が通っている大学で保護者による後援会の総会があるというので、家内と連れだって出席しました。
 その中で、学生部長が次のようなおもしろい挨拶をしていました。
 その挨拶だけで何と67分。挨拶だったのか、保護者への啓蒙だったのか、今も判然としないものでしたが、そのような言わずもがなのことを挨拶の中で話さなければならない学生部長にも同情したいところです。
 それはともかく、その長い挨拶のある場面で学生部長は、

   今、社会が学生や大学に求めているものは、
   イ) 外国語能力
   ロ) 情報処理能力
   ハ) 理解力
   ニ) 自己表現能力
   である。

ということを述べていました。
 どれもこれも肯けるものばかりで、そのことに対して異論はないのですが……。
私が「おやおや」と思ってしまったのは、ロ) 情報処理能力 の説明の中で、これからの社会ではワープロやコンピュータが使えなければどこの会社も雇ってくれない、つまり就職がすこぶる難しくなるから、ワープロやコンピュータを使う技術を身につけるように指導しているのだが、なかなか学生がのってきてくれない。アルバイトなどに精を出す時間があったら、そちらをがんばるように家庭でも仕向けて欲しい。という説明を聞いたからでした。
 どうやら「ワープロやコンピュータを使えること=情報処理能力」ととらえているのではないかと思えるような言い方だったのです。
 しかし、ワープロやコンピュータが使えるから、情報処理能力が身に付いたというわけでは決してありません。ましてや、それらの機器を使えなければ『取り残される』とか『就職に不利だ』といった強迫観念に背中を押されるようにして取り組んだところで、その人のものにはならないでしょう。
 それらの機器は『使えるようになる』ことが大切なのではなく、それらを使って『何をしたか』『何をするか』ということの方が大事なのです。

 ワープロを使うのは、それを使って『自分の言いたいことを表現する』とか『伝えたい相手に的確に伝える』『書き貯めたものを効率的に管理する』『文章を創作する』などのことが目的としてあるはずなのですが、使うことそれ自体が目的化してしまっては、『機械に使われている』という感覚からどうしても逃げられないでしょう。
 ワープロやコンピュータは、何ごとかを表現するための有効な表現手段、自分の力をひろげる手段として活用されるのを待っている道具であって、使わなければならない道具ではないのです。
 主役はあくまでも人間で、その人間がそれを使って何をするか、何をしたいかということこそ大切なのです。
 包丁は、料理を手早くおいしく美しくつくるためのとても便利な道具ですが、「あなたは包丁を使えますか?」などと馬鹿な質問をする人はいないでしょう。いるとすれば「あなたは、どんな料理が得意ですか?」と訊くのではないでしょうか。
 それと同じで「あなたはコンピュータが使えますか?」と訊くのは愚問。
 訊くのであれば「あなたはコンピュータをどんなことに使っていますか?」「コンピュータをどんな創造的なことに使いたいと思っていますか?」と訊くべきでしょう。
 目的と手段としての道具を使うことを取り違えてしまわないようにしたいものです。
 情報処理能力を育てたい、というのであればそれを働かせたくなる具体的な場、機能的な学習の場が必要で、それを先送りにしておいて「道具を使いなさい」というのは誠にもって本末転倒。
 私たちは「こんな絵を描きたい。」と考えるから、描きたい絵にふさわしい絵筆や絵の具を選んだり使ったりするのであって、まず「絵筆を使いたい」という願いを先立って持つわけではないはずです。
 情報をたくさん集めて考える素材としたい、と思うからインターネットやパソコン通信を使うのであって、そうなったときはじめて情報処理の作業をしていると言えるのです。
 自分で書き貯めたメモの一群を呼び出し、改めて読み直してそれらの間に「ある関係」を見出して新たな論を構築するといったことも、ワープロやコンピュータを使えばより確かに処理することができます。そうなったときに情報処理の作業をしていると言えますが、ただ単にキーの配置を覚えて入力することができるというのでは、使っていることにはならないし、ましてや情報処理能力が育ったなどとは言えないのです。
 言い方を変えれば、ワープロやコンピュータがなくても情報処理はできるし、それらがなかった時代の人々に情報処理能力がなかったなどと言ってしまっては、失礼でしょう。
 もともと情報を効率的に的確・正確に処理するために有効な道具として生まれたこれらの機器を本来の機能を活かして使うとすれば、『考えること、選ぶこと、表現すること、伝えること、つくること』などのおもしろさや楽しさを味わえる学習を仕組むことがまず大切なのではないでしょうか。
 そのような活動の達成に向けて活動する中で、包丁や絵筆のように「こんな道具があったらなあ」と喉から手が出るほどに思え、それを支えにワープロやコンピュータに対面したときにはじめて自分のための便利な道具としてそれらの機器をとらえ、よりよくその機能について学んでいけるのです。
どうやら、こんなところにも『学校の本末転倒』が見えて困ったものだと思いながら帰路についた次第です。ご報告まで。


 今年度も残すところわずかとなりましたが、私はこの年度末にはいつものそれとは違った印象を持っています。それは、新しい指導要領が告示され、改革への一応のゴールが見えてきたことによるでしょう。学校独自の特色ある取り組みや教師個別の力量がますます問われ、求められていることから、その道のりは決して楽観できないものがありますが、それでも道筋が示されたことで『やるべきこと』が見えたという意味で、新しい一年のスタートに対してこれまでと違った決意が必要となるでしょう。
新しい指導要領に示された改善点を見ると、実践レベルで求められることは次の四点になると思われますが、それを具現化していくためには私たち教師の教育観・学校観そのものが変わっていくことがまず問われるでしょう。
総合学習の創設を提言してきた東京学芸大学の児島邦宏教授も、『生きる力を子どもに育てうるかどうかは、「学校次第」であり、「教師次第」である。それゆえに、「学校の自主性・自律性」が強調されている。自由と責任と置き換えてもいいだろう。創意工夫を発揮できるという自主性、自由とともに、その結果に対する自律性、責任とがまた課せられているわけである。』と論じています。
さて、そこで学校や私たち教師にどのような取り組みが求められているかということに話を戻しましょう。
まずその第一に指摘したいのは、

横並び実践をやめること。
他校がやるから本校も同じ事をする、という意識から脱することが必要となるでしょう。
他に倣ってやるというのでは、何のために長年求められてきた国家基準の弾力化が図ら  れたのかわかりません。
できるだけ他校とは違ったことをやろう、やってみよう、やれるのだ、という意識を持  つことが大切なのです。

そして、第二には

基礎学力の低下を防ぐために、必要な手を打つこと。
単なるドリルや反復練習を強制するのではなく、できるだけ楽しいものに工夫して、確  かに身につけていけるよう保障することが必要です。
大切なことだからこそ、そして他に生きて働くことが予想される力だからこそより確か  に身につけていけるようにしたいのです。そのためには、それを習得することが苦痛を  伴ったり難行苦行を伴うものであったりしてはならないのです。
  楽しくしかも知らず知らずのうちに自然と身につけていけるような一層の工夫が大切に  なります。それは、専門職だからこそできることなのだ、という誇りと自信をもって取  り組んでいきたいものです。

 そして、第三には

子どもを自由・放任しないこと。
自ら学び自ら考える力を育てるためには、その道具(言語・技能・学び方など)を駆使  できるよう、確かにそしてしっかりと身につける必要があるでしょう。
  学習の成立と学力(学ぶ力)の育ちがリンクして学ぶ楽しさを味わえるよう環境を整え  ることが求められているのです。
そのどれが欠けてもいけないし、どれかに偏ってもいけないのです。
それは私たち教師の責任です。決して、無責任な放任主義に「逃げて」はいけないので  す。まかせるだけで学習が成立しないようでは困るし、まかせられないような学習の仕  組みや環境でも困るのです。
  これは単に、バランスの問題ではありません。
子どもが自分から動き出せるような内容、しかも学べて楽しくやりがいの実感でき、親  や先生の手を離れても、学ばせたいことを自律的にしかも十全に学習していけるような  学習の場の設定が何よりも必要となるはずです。

 最後の四点目は、

学習観とかかわって、生活における子どものコミュニケーション能力を育てることが先  決で、結果として学力(学んだ力)をつけることはその後でよい、とする姿勢が必要と  なるでしょう。
これからの学校教育は、いわば『人間くささ』を大切にすること、つまり『学校知の人  間化』を図ることができるかどうかが正念場です。
  モラトリアム人間、ピーターパン症候群、高校・大学の大量中退、定職に就けない若者  の増加など『大人になれない子どもたち』が問題になっていることと教育改革は無縁で  はありません。生きる力と対極の『社会的に自立できない青少年』に育てないためにも、  人や環境に働きかけ働き返される人間的な学びの環境につくりかえていく必要がどうし  てもあるのです。

 さて、かの有名な森 毅 京都大学名誉教授は、このような動きをとらえて次のようなおもしろい発言をしています。参考になればと思い、ご紹介します。 

     【指導要領にしばられることはない】 週刊読売 1999.3.21号 p.35
       〜略〜
     これからは、なんといっても、生涯学習の時代ではないか。
     高校で教わったことで、一生をまかなうというのは、本来が無理。
     かりにいい成績をとったところで、そのあと10年か20年も離れていたら、
   学習したことは錆び付いて当然。
   それより、10年、20年たってからでも、その気があれば学習できるほう
   が大事。
     社会で役に立てるということで言えば、指数と対数を理解するのが、なに
   よりと思う。
     それに、微積分や確率もその発想を知っておいたほうがよい。
   でもそれは、問題が解けるようになることではなくて、問題とは発想を豊
   かにするための手段と思っている。
     おおまかなカリキュラムとして、指導要領のようなものも、あったほうが
   便利だ。
     しかしながら、どの学年で何を教えるかまで決めることはあるまい。
     学校によって違ってもよいし、同じ学校でも先生によって違ってもよい。
     なにより、生徒ごとに自分の好きな学習をすればよいのであって、先生に
   従う必要もない。日本中で同じ年齢の生徒が同じことを学習すると
   いう制度は、半世紀ほど続いたが命脈がつきた。横並びはなくなっ
   て、自由の時代。学校がどうするかより、自分がどうするかのほう
   が大事。もともと、学校というのはその程度のものだ。