音楽を聴く、音楽で表現するといった音楽への働きかけを通して「音楽のよさに気づく」ことは、対象への気づきだけではなく、実は他ならない自分自身の発見と確認の行為です。
 古典落語を聞いてそのおかしさやおもしろさを味わい、大声をあげて笑えるというのも、その実自分自身を見いだしている行為で、「おかしがって楽しんでいる自分」を「見いだしている自分」に気づいている心の動きであると言えます。そこでは、「自分には今の洒落の意味がわかるぞ」とか「あれとこれをひっかけて言ってることに自分は気がついたぞ」というように自分自身に気づき、さらにその様子を眺めている第三者の自分を意識し自覚することが、よりいっそう落語の楽しみを増加させることにつながっているのです。
 音楽でも同じ事で、音楽の持つさまざまな「よさに気づく」ということは、その「よさ」に気づいている自分自身を確かめることだと言えるでしょう。そして「よさに気づく」時の気づき方は、各人の価値観(どんなよさに目が向くか)によりますが、そこで「感性を働かせること」が期待できると考えています。
 それはともかく、そのような自分自身への気づきを通して、よりいっそう自分自身になつていくことができるように、ことばをかえれば終わることのない自分探しの旅を通して自己を一歩一歩築いていけるようにすること、それがこれからの教育に求められていることだと言えるでしょう。
 従来、音楽の授業では「教材を教える」ことにその神経が注がれ、子ども自身が自分に気づいたり、自分との関係で「意味有り」と思えるようなものにできていたかと言えば、なかなか難しいものがあるのではないでしょうか。
 これからは、「教材を教える」のでも「教材で教える」のでもなく、「教材で学ぶ」ことのできるような音楽の授業を構想していかなければならないでしょう。
 もっとも、そう考えると、「教える素材=教材」から「学ぶ素材」という意味での「学
習材」への転換ということも視野に入れなければならないだろうと思われますが‥…。
 横浜国大教授の藤岡完治先生は、「学ぶことと自己との関係」について次のように論じています。

     「学ぶ」とはどういうことであろうか。
     学習は決して自己と無関係では起こり得ない。学習は学習者の
     パーソナリティと密接に結びついている。「学びの場」はつねに
     「自己との関係で体制化されている」のである。
     学習するということはさまざまな事象やさまざまな観念に対する
     その人なりの関係の発見である。その人なりの関係を発見するとは
     その人にとってのr意味」を見いだすことに他ならない。
         教育展望1993,1・2月合併号    P.33

 「学ぶ」ということは、自分にとって納得のいく(腑に落ちる)解を求めてあれかこれか試したり確かめたりし、既有の知識体系をつくりかえていく作業ですが、そこではどうしても「自分にとって」という自己との密接な結びつきがどうしても欠かせないのです。
 もしも、自分にとってさほど大事ではないし、考えようによっては「意味を見いだせない」知識であれば、他の誰かに「これはどんなことだっけ?」「これはどうすればいいの?」と尋ねることも平気でできるでしょう。なぜなら、知らなくても済ますことのできるような取るに足りない知識だと自分自身に言い聞かせることができるからです。
 しかし、「これは大事だな」と思えること、知らんぷりをして見過ごしにできないことであれば、何とかして自分のものにしようと思えるし、いったん取り込んだことを忘れないようにしようと思えるものです。
 そのような「学習対象と自己との関係」は、他の教科のみならず音楽科でも重要な指摘として長いこと叫ばれ続けてきています。

      (昨今、技能の訓練偏重に傾きやすい音楽の授業を
       忌避する為、特に創造的音楽学習が唱導されるが、
       それのみが自己実現の方途ではあり得ず、)
       感じやすい青少年の多様な想念を深く受容し、そこに
       感情の移入・昇華を、自己の世界の拡大を果たし得る
       音楽の鑑賞や演奏の重要さもまた忘れてはならないだ
       ろう。音楽による自己実現とは、まさに音楽による
       自己発見に他ならないからである。
         国安 愛子 月刊「音楽教育」 19S7,2月号 P.19

             『自己表現活動』
     子どもの個性を生かした創造的な音楽学習へ結びつけるために、
     表現活動を、単に上手で的確な表現をめざす活動としてとらえる
     のでなく、子ども一人ひとりが音楽する自己の意味に気づき、
     自己を変革し、自己を実現していく過程としてとらえる必要があ
     ろう。そして、いずれの場合でも、子どもが主体的に表現しかつ
     その表現を受けとめ享受できる場を準備、設定することが音楽
     教師の重要な課題となる。
      佐野靖  季刊音楽教育研究NO,59     P,139

 一人一人の子どもが、自分にとって意味のある楽しい取り組みを通して「世界の広がり」「力の広がり」を認識できるような音楽の授業づくりへの希求が、1980年代に始まっていたということを見ると、決して「新しい音楽の授業づくり」とは言えないと思いますが、私たちにとって「新しい」という意味でとらえ、研究していきたいところです。


 フランスの社会心理学者ド・シヤルムは、人が自分の行動の起因を捉える捉え方として、次の2通りを挙げています。
 ア、オリジン(Origin)
    自分自身の意志や選択、自分の責任により行動を決定できるとする捉え方。
 イ、ポーン(Pawn)
    自分の行動は、他人の力により支配され決定されてしまうものとする捉え方。
 「ポーン」とはチェスの駒のこと、「オリジン」とはチェスの指し手のことですが、まるでチェスの駒のように他人に思考や選択をあずけ、他によって行動を支配されることをよしとする人間(ポーン)では、これからの生涯学習社会で生き生きと豊かにそして幸せに生きていけそうにありません。
 むしろ、めざすべきは「自分の行動の主役は自分」であり、その失敗や成功の原因はすべて自分の責任である(自分に帰属する)と捉え、さまざまなものごとに積極的にかかわっていこうとする人間(ポーン)の育成でしょう。
 ド・シヤルムは、そのような自己原因性の感覚による内発的動機づけ理論の提唱者ですが、日頃学校での勉強の場面で何か失敗をした時、それを自分の努力が足りなかったからだ、と捉える傾向の高い者(オリジン=内的統制型人間)は、そうした傾向の低い者に比べてねばり強く問題に取り組むことができる、と主張しています。
 そのような傾向や力は、ある日突然に身につくものではないでしょう。
 普段から日常的に「自分で考えたり」「自分で選択したり」「自分で築いたり」する活動を積み重ねる中で、その楽しさやおもしろさを味わい、効力感を伴って徐々に身についていくものであると言えるでしょう。
 そこで、子ども自身が主役となって活動を展開していくこと、つまりイニシャチブがとれるような学習の仕組みが必要となるわけですが、東 洋氏(元東大教授)は次のように論じています。

    「学び手のイニシャチブ・ひかえめな指導」
  目立たない援助とは、子どもの志をまげない、子どもが
  自分でやれる、またはやりたいと思うところにまで立ち
  入らない、そして「自分でやれた」というよろこびを奪
  わないような援助である。
       岩波講座教育の方法1「学ぷことと教えること」 P.19

 子どもたちがイニシャチブを発揮できると期待できる場面を考えてみましょう。
 まず何よりも1、何を目指すかの意志決定の場面が挙げられるでしょう。
 そして、次に2、計画を立てる場面、
 さらに3、学習活動を行なう場面、
 そして4、目標の達成状況を自己評価する場面
と学習のどの場面でも子どもたちがイニシャチブを発揮できる余地を見いだすことができるはずです。
 たとえ、先生が仕組んだことでも自分で求めた、自分で考えた、自分で発見した、自分でやれた、自分で身につけたと子どもたちが喜んだり思えたりできるような授業の仕組みがあれば、子どもたちはますますそのイニシャチブを発揮しようとするでしょう。
 繰り返すようですが、そのように発揮し生かすことでしか選択の能力や積極的な構えなどは身についていかないし伸びていかないと見なして良いでしょう。
 音楽でしばしば話題になる「演奏技能や表規技術」の問題にしても、自分が欲しかったこと、盗んででも手に入れたかったこととして子ども自身が意識し、発見できるようにしてやることが大切なのです。

どうすれば、使える技術を発見できるかということを
児童自身の発見として導くことが、実は指導の本来の
意味であり内容なのである。
  「感電性はどこへl 柳生力 音楽の友社

 笛の指導をするにしても、合唱の指導をするにしても、指導者の理念として上のように充分把握していなければならないはずです。その把握を持つか否かによって指導の展開は大きく異なったものになるだろうと思われるからです。
 子どもの課題にすることができない先生の口をついて出ることは、抽象的な吹奏法講義の一コマであったり、「もっと美しく吹きましょう」「もっと美しく歌いましょう」というような、それを聞く子どもたちにとっては、結局どうすればよいのかわからないような、抽象的で無意味な言葉しか飛び出してこないのです。
 こういう場合、指導者も結局どういう課題を与えれば児童がより美しい表現に目覚めるのか、実は解っていない場合がほとんどだと思われます。これはもはや指導でもなんでもありません。美しさを説明したり、強制したりしても、それは実の伝達として、何の体験も発見も目覚めさせはしません。
 「美しいでしょう」と言われて始めて美しさが認められるのでなく、実の体験はそれに先だってあるものなのです。「もっと大きい声で美しく」と言っても、児童がより美しい世界へのあこがれと、期待を持っていない限り、何の働きもない空虚な言葉のやりとりでしかないのです。
 技能や技術を身につけさせることが教科「音楽科」の中心主題でないことはもちろんですが、技能や技術の習得にしても子ども自身の「学習の主役はぼくだ」という指し手感覚を損なうことなく、他ならないそしてかけがえのない自分自身の成長のために何ができるか、どこまでねばり強く取り組めるか、に挑戦する機会としてやりたいのです。
 そうなってはじめて「自分自身に気づき」自分の世界を「広げていくこと=拓くこと」
が可能になると思われるのですがいかがでしょうか。


 私たちは、『音楽による教育(Erziehung durch der Musik)と音楽への教育(Erziehung zur der Musik)』
の2つの側面から教科「音楽科」の学習の意義をとらえ、教育活動を展開しようとしています。また、次のように音楽科の意義をとらえて言う研究者もいます。

   音楽の教育価値は「情操・創造性・自己表現など」にあり、その随伴的な
   価値は「協調性の育成・国際理解力の助長・余暇の善用・文化遺産の継承
   などにある。

 その2つの側面をつなぐものは、「音楽的な能力」や「音楽への構え」「音楽性」といったものでしょうが、その「音楽的な能力」についてアメリカの音楽学者マーセルは次のように分類しています。

    ア、音楽的識別カ
    イ、音楽的洞察力
    ウ、音楽的意識
    エ、音楽的自発カ
    オ、音楽的知識・技術

 マーセルはこれら5つの能力の中の「音楽的知識・技術」がリニア(直線的)な発達の仕方をするのに比べ、他の4つの能力はスパイラル(螺旋)な発達をするものだ、つまり生きつ戻りつしながら徐々に発達していくものだと指摘しています。そしてさらにア〜エに示された能力とオの能力との間には相関関係がない、あるいはあってもごく弱い相関しか認められないとも指摘しています。
 つまり、音楽的な何かあることがらについて知っているからといって音楽的な能力が高いとは言い切れないし、何か技術を持っているからといって他の音楽的能力も高いとは断定できないというのです。
 このようにみると、従来音楽の学習の中で最も評価されてきたことがらである「知識や技術」だけが音楽的能力ではなくそのほんの一部分でしかないし、「知識や能力」があれば何とかなるだろうというのも「勘違い」「誤解」であることに気づかされます。
 また「音楽性」についてマーセルは、『人を音楽的にするものは、音とリズムによって表されたものに反応する力である。それがいわゆる音楽性と呼ばれるものである。』と論じています。
 そのように「音楽的能力」や「音楽性」を捉え直してみると、教科「音楽科」でどんなことを学習内容として仕組むか、そしてどのように学習指導を展開するかといったことについてこれまでとは違った角度から検討できるのではないでしょうか。
 ところで、近年学校での子どもたちの学習を考える際に、乳幼児の日常的な遊びを通した学びの姿が参考になるということを指摘する研究者が多いことはご承知の通りです。
 永野重史氏(国立教育研究所)は、ある座談会で

     例えば、幼児が積み木で遊ぶと、おのずから「力の釣り合い」「鉛直」などと
     いうことについて学んでいくことになるのであろうが、親は、そのような知識を
     伝達しようと思って、子どもに積み木を与えるわけではない。
     また、積み木で遊ぶために、前もっていろいろ勉強をしなければならないとい
     うこともない。
     積み木に触れた瞬間から、面白い遊びの世界に入っていくのである。
     積み木を積み始めれば、あとは、家をつくろうが、できるだけ高く積むことを
     試みようが自由である。
     しかも、自分のしたことについて、今度は前よりもうまくいったとか、面白い
     ものができた、というように自己評価しながら、課題に挑戦することができる。

と指摘しています。
 また、同氏は幼児の学習の様相について次のように述べ、学校教育で参考になることがあるはずだと指摘していますが、音楽科ではいかがでしょうか。

   ≪幼児の学習の様相≫
1、親は子どものことをよく知っている。
  子どもがどういうことに興味を示すか、どういうことはできてどういうこと
  はできないか、説明してもわからない時にどのように言い換えてやればのみ
  こめるか、などのことについて親は非常に詳しい知識を持っている。
2、成功したかどうかの規準が柔軟にかわる。
  幼い子どもに積木で家を作らせようと親が考えた時、子どもが家を作ろうと
  せず、積木を高く積みはじめたら、親は「家を作ることになっていたわね」
  と言って叱るだろうか。恐らく「まあ、ずいぶん高く積んだわね」といって
  子どもの意図した活動の目標に沿って評価するだろう。
3、子どもが以前よりも成長したことを喜び、他人よりすぐれていないからとい
  って批難しない。
  おにごっこでもなぞなぞでもいい。
  親は子どもが自分達の文化に参加し社会化することを喜ぶ。
   岩波講座 教育の方法1「学ぶことと教えること」  永野重史   p.170

 楽しい遊びに夢中になる中で、遊びに必要な知恵やワザを無理なく自然に身につけていく「日常的な学びの論理」と学校での学びの間に大きな溝がありはしないだろうか、という指摘はずいぶん前からなされていますが、音楽だからこそできそうな望ましい学習への展望を抱いて研究を展開していきたいものです。
            ※1 閏間豊吉「音楽科教育概論」、音楽之友社
            ※2 供田武嘉津「音楽教育学」 音楽之友社
            ※3 J.L.Mursell「音楽的成長のための教育」音楽之友社


 子どもの夢や希望が実現できるような学習を仕組む、ということは口で言うのはとても簡単で誰にでもうなずけるもの、耳当たりの良いことですが、具体的な投業をイメージすること、あるいは学習の内容を構想することは非常に困難です。
 どの子もこれから始まる学習に期待が持てる、つまり「この学習に取り組めば、自分はこんなことができるようになっているはず」とか「この学習にがんばって取り組めば、自分にはこんな良いことがあるはずだ」という思いが感じられなければ、夢中で取り組めないだろうと考えてしまっては、ことは益々難しくなるばかりです。
 夢や希望が「持てる」とか「実現できる」というのは、実はそういう学習の中では見えてこないし本物にはなり得ないと思うのです。
 幼児がカタコトの言葉で母親とそれなりに意志の疎通を図ろうとする行動は、言葉を操る活動や伝達の活動を通して表現力を徐々に身につけていくといった意味で、まさにすばらしい「学習」であると言えるでしょう。それもかなり高度な「学習」ですが、母親と対話をしている幼児が、「お母さんと対話をすれば、ボクはもっと話し方が上手になれるはずだ。嬉しいな。ワクワク。」などと感じているはずがありませんし、そう考えているから学びが成立しているというわけでもないでしょう。
 そこでは、拙いながら自分なりの言葉、知っている限りの言葉を使って、自分のもっとも身近な存在、自分を愛してくれている存在の母親と 「対話をする」というそのことが嬉しくてたまらない、という気持ちが行動の源になっている、というのが本当のところでしょう。
 行為そのものが楽しくて嬉しいからこそ飽きずカタコトながら母親に話しかけ、次第次第に安定した対話の技術や表現の技術を身につけていくことができるのでしょう。
 幼児が砂遊びや積み木で遊びながら造形を楽しみ、その中でさまざまなことを学んでいけるのも、「この積み木で橋をつくることができたら、自分にはこんな力がついているだろう。その時が楽しみだ。」と思って取り組むから垂直や水平の感覚や力の釣り合い、鉛直などについて自然に学べるのではないはずです。
 何よりも積み木や砂場の砂で遊ぶことそのことが楽しくて夢中でやっているうちに、そのようなことを経験的に学びとっていると考えるのが妥当でしょう。
 遊びとは、もともとそのように「それそのものが目的」という意味で無目的なものですが、無目的だからこそ楽しいし無我夢中、文字通り「我を忘れて」取り組めるものなのだと考えることができます。いわゆる「フローの状態」です。
 ふりかえって私達の仕組む授業をかえりみると、そのような「我を忘れて」夢中になれる、 言葉を変えれば「真剣に没頭できる」ものにできているでしょうか。
 理屈で「これこれのことができたら素晴らしくそして立派な子どもになれるからがんばってみよう(ごらん)」と言われたところで、遊びに夢中になれるような心のはずみが生じる保障はどこにもありません。
 では、どうしたら(どのような環境なら)そのような真剣な遊びを通して「学べる」「自然に学べでしまう」学習を仕組めるのでしょうか。それがこれからの研究の課題であるとも言えますが、ヒントが全くない訳ではありません。
 学校や普段の生活の中では子どもたちがそのような姿を展開して見せてくれているはずですから…。
 子どもの多くは、小学校の低学年から中学年の間に「自転車乗り」の技術をマスターします。しかも、その技術を獲得するためには多くの努力が払われることが多く、楽に容易に自転車に乗れるようになったという例はあまり聞かれないにも拘わらず、ほとんどの子どもが自転車に乗れるようになります。
 これは、どういうことによるのでしょうか。
 もしも、できなければおもしろみを感じられないし、やろうという意欲を持つこともできないとしたら、こんなに多くの子どもが自転車乗りの技術を身につけることができているということはうまく説明できないはずです。
 なぜなら、多くの子どもはそこに大きな困難を感じていることでしょうし、実際に幾度も転んでは怪我をし、恐怖心と戦いながらも覚えようとするからです。
 その恐怖心を乗り越えさせているものは、自分の力の広がりや自分の世界の広がりに対する「期待」と「希望」なのではないでしょうか。
 「どうせ僕なんかだめさ。」という無力感を感じさせない、あるいは感じてしまうことがあってもそれを凌駕するだけの「期待」がそこにあることが、子どもを自然に「がんばらせ」てしまっているのだろうと思われてなりません。
 歩いたり走ったりする時とはまったく違った感覚を味わえる、ちょっと気を許せば倒れてしまうかも知れないスリルや緊張感、それまでには味わえなかったスピード感など新しい世界の広がりや力の広がりを予感させる何かが自転車乗りの練習にはあるのです。
サドルにまたがる前にも、効力予期としての期待(乗れたらいいな)が十分持てるし、おぼつかない乗り方であってもそのおもしろさを実感させてくれる何かがあるからこそ挑戦の意欲もわくのだと思われるのです。
 そのように「自分の夢や希望の実現」に向けた楽しい取り組みを通して、自分にとって意味のある何事かを探り、見つけ、つかんでいく作業が本来の「学習」の姿だと考えられますが、そこでは克服すべき「障碍」ですら子どもにとっては「邪魔なもの」ではないはずです。
 「わからないこと」や「容易にできないこと」ですら「楽しい挑戦の対象」として子どもの目には映るはずで、そのことに「ワクワク・ドキドキ」しながら真剣に我を忘れて取り組む子どもの姿の実現に役立つはずなのです。
 教科「音楽科」に置き換えてみて、どのような学習環境であればそのような「ワクワク・ドキドキ」を味わえるのか、がんばれるのかをさまざまな側面から検討することが大切なのではないでしょうか。


 個に応じた学習、個が生きる学習の具現化に伴い、多様な学習活動に対応することの必要性が言われています。
 その具体的な手立ての一つとして「T・T」が思い浮かびます。
 これまで、子供の多様な学習の要求に応じるためには、一人の教師の限られた専門性では不十分であるから、複数の専門性を持ち込むことによって可能な限り個の要求に応じよう、という視点から「T・T」による授業方式が論じられてきたように思われます。
 しかし、果たしてそれが「T・T」の持つ本来の意味なのであろうかというのが今回の話題です。
 複数の教師の専門性を生かし多様な子供の要求に応えられるふところを広くとる、という視点から見えてくるものは、教師を「教える」機能を果たす者としてとらえる考え方です。
 この先生は「詩」についてよりよく、深く詳しく知っているから「詩」に関する学習の必要性や疑問が子どもから出された時には応対してもらおう、というのがその考え。
これでは、まるで「子ども電話相談室」です。
 そのように個々の知識や技術に関して深く知っている、持っているという面から「専門性」をとらえると、学校には知識や技術の数だけ先生を揃えなければ「T・T」による学習形態など整えられるわけがない、という結論に到達せざるを得ないでしょう。
 学習については、「教えられて身につける」のではなく「自ら学びとっていく」ことの大切さ、つまり「学習者の主体性」が強調されています。
 「教える機能」として教師をとらえるのではなく、「学ぶ主体のモデル」として教師をとらえ直してみたらどうであろうか、というのが私の考えです。
 すなわち、教師も子どもと共に「学び」に向けてあれかこれか試してみたり、多様な手段を駆使して調べ探り見つけ出したりする「知の再構築」に取り組む主体としてとらえ直してみたらどうか、と思うのです。
 そこでは、ある疑問や壁にぶつかった時どう対処し問題を整理したり解決したりすればよいか、ということが第一の命題として浮かび上がるでしょう。
それは、つまり「学び方」「取り組み方」の問題であると言えます.。
 そこで必要となるのは「知識の量の豊富さ」ではなく、学びを楽しむことのできる構え、豊かな知的好奇心、探究心などの「学びに向かう」資質、それに調査方法、見方・考え方や学び方といった学びを形成する豊かな資質であると考えられます。
 そのような学ぶ主体、生きる主体として「T・T」にかかわる個々の教師の働きをとらえ直してみると、知識や技術の数だけ教師を揃えなければならないなどという非現実的で、あってはならない話を避けることができますし、「学びのモデル」として一人一人の子どもの要求に応えることが教師の働きであるというとらえに立ち至ることができるはずです。
 そこでは、個々の教師の持つ「生き方」にかかわる特性、「学び方」にかかわる特性としての「個性」が十分に生かされる余地があるでしょう。
 また子どもの側から言えば、次のような別の見方もできるかも知れません。
 先生によって子どもを見取る視点や行動を見取る視点が異なって当然(先生一人一人の感性の違いがあるのですから)ですが、そのことによって多様な「気づき」と「認め」が生まれ、どの子にも喜びやうれしさ・楽しさを感じられるチャンスが増えるだろうと
いうことです。
 たくみさに感心し心から賞賛できる先生、じっくりねばり強くがんばることに「よさ」を感じ取ることのできる先生、確実さに心が動く先生、イマジネーションの豊かさに新鮮な驚きを感じることのできる先生…。
同じ子どもを見るのでもそれぞれに違ったよさを見いだせるのではないかと思われますし、たくさんの目で評価してもらえる子どもの幸せはただ一人の目で評価される場合の比ではないはずです。
 「T・T」による授業を構想する際に、そのように私たちの意識を変えるだけでも、その本来の意味を発揮できるのではないかと考えていますがいかがでしょうか。


 ある学校のある学年で、ということにしておきましょう。
 自由研究学習で数人の子どもが「うどん」について調ペたりつくったりする、という計画を立てたそうです。
 調べ学習の結果、うどんはどうやら小麦粉でできているらしいことを知り、そのレシピも手に入りいざうどんをつくろうとしたところ、先生はその小麦粉が強力粉であることに気づいてしまいました。「強力粉でうどんはできるんだろうか?レシピには中力粉と書いてあるけれど。どうなんだろう。」
 それでも半信半疑の先生は、子どもたちにその疑問をぶつけることができずに、そのまま子どもたちに活動をまかせてしまったそうです。
 先生方ならどうしますか?
 みすみす失敗させるにしのびないので、「レシピにはどう書いてある?中力粉と書いてあるよね。 あなたが持ってきた袋には何て書いてある?強力粉だよね。」と注意を喚起しようとするでしょうか。
 それとも「今日はできないから、また今度にしようか。」と投げかけますか?
 あるいは「家庭科室に中力粉があるから、それを分けてあげよう。それでつくってごらんなさい。」でしょうか。
 まさか「君はいつも注意散漫だからこんなことになるんだよ。これから気をつけよう。」
とお説教を垂れてしまう先生はいないと思いますが…。
「みすみす失敗させるなんてかわいそうだ。」とか「教師の指導というものをどう心得ているのか。」という非難の声が聞こえてきそうですが、当の先生は何も言わずそのまま活動を続けさせてしまったそうです。
 ところが「うどん」はちゃんとできあがってしまったのです。
 実際うどんは、中力粉をこねてつくるものなのですが、子どもたちはなんと強力粉だけを材料にレシピを頼りにして「うどん」らしいものをつくりあげてしまったのです。
 多少歯ごたえが強く、ぽろぽろした感じであるにしても、それは「うどん」以外のなにものでもなかったし、子どもたちも「お店のものよりコシがある」なんて生意気を言って大喜びだったそうです。
 当の先生は強力粉でもうどんができるなんて知らなかったし、知らなかったからこそ、そのまま子どもたちにやらせてしまったのでしよう。
 さて、このことは「指導」ということについてある示唆を与えてくれます。
 うどんづくりに興味を持ち、何時間もかけてうどんのことを調べ、今まさに自分たちの力でうどんをつくろうとしている子どもに対し、「指導」という美名のもと「これじゃきっとうまくいかないよ」「今日はやめたら?」などと簡単に言い放ってしまうのは、おせっかい
以外のなにものでもないでしょう。
もっと言えば、子どもに対して「失礼」だと思います。
 そんな「指導」が繰り返されれば、子どもたちの探求心は萎えていってしまい、うまくいくようにするためには先生の指示を待ってそれに従っていれば良い、という状況を生み出してしまうでしょう。
 知識や技術は、子どもたち自身が体を張って成功体験や失敗体験を積み重ね、確かな手応えを感じながら手に入れていくものです。内発的な学習意欲に支えられた学習活動の中では、たとえうまくいかなくてもその原因を自分で引き受け、他には求めようとはしないはずです。
 それなのに常に先回りをして、いちいちチェックを入れ、揚げ句の果てに「あらぬおせっかい」をすることが「指導」であると勘違いしていることはないでしようか。
 それは、言わば「子どもの学習する力」に対する不信に起因するのかも知れません。
 たとえ失敗しても、そして仮にそれを教師が予測できたにしてもそのような「指導」を行ってはいけないのではないかと考えています。
 失敗したとすれば、安易な「成功体験」からは得られない重要なことを学ぷはずです。
 「どうして失敗したんだろう。」という切実な問いを発し、自分が持ってきた材料の間違いに気づき、改めて挑戦しようという思いに駆られるでしよう。もちろん、一旦はがっかりするかも知れませんが、「今度は中力粉でやってみよう。」とか「小麦粉にはいろいろな種類があるんだな。どう違うんだろう。調ペてみよう。」と自分の活動の方策を見直し修正したり学習を発展させたりしていくことも期待できます。
 そのような活動を通して、「学び方」を身につけていくことが期待できますし、さまざまな体験(成功や失敗)を通して「有能感や効力感」を味わい「学びへの自信や勇気」を獲得していくことが期待できるのです。
 一旦は失敗したけれど成功に至る工夫をすることができた自分、がんばり通せた自分を発見し、「ぼくもなかなかやるじゃないか。」と自分を肯定的に認めることができ、さまざまな事象に積極的にかかわっていこうとする子ども、やりがいを感じながら取り組んでいこうとする子どもへの育ちが期待できるでしょう。
 そのために、日々の授業や生活の中で私たち教師がどう寄り添っていくかが問われていると言って良いでしょう。
 ことに音楽の表現や鑑賞の活動では、「こうでなければならない」という正解はありませんので、一層子どもたちの「自分なりの納得」をめざした学習活動の展開が望まれますし、実現が比較的容易なはずです。
 ですから学習の広場の中で「あれかこれか」心ゆくまでTry&Errorを繰り返して自分なりの知恵を築いたり、自分なりのワザを身につけていったりできるよう、内発的学習意欲を支えに「自己決定」したことを核に活動できる子どもの育ちをめざし、教師がどうかかわりどう働きかけていくかが「指導」を考える際に大切なのではないでしょうか。


 「イメージを豊かに」「イメージをもって」「イメージを働かせて」などという具合に、
私たちは普段なにげなく「イメージ」という言葉を漠然と(時にはあいまいに)使っています。よくしたもので、受け取る側も何となく「わかったような気になって」うなずいていたりします。
 小学館の国語辞典には、次のように記述されています。

    イメージ (英image)
      人が心に描き出す映像や情景など。
      芸術、哲学、心理学の用語として、肖像、画像、映像、心象、形褒などと
      訳される。フランス語でイマージュ。例:「イメージがはっきりと浮かぶ

 そうであれば「イメージを豊かに」ということは、「情景を豊かに」という意味に受け取れば良いのでしょうか。でも、これは日本語としてちょっと変です。
 そもそも「イメージを豊かに」の後には、「思い描いて」とか「想像して」という言葉が続かなければ文章として成立しません。ですから前の例文は「情景を豊かに(思い描いたり想像したりして)」というように解釈できます。
 つまり、「イメージ」とは思い描いたり想像したりする行為の内容や対象としての「像・景」ということができます。
 でも待って下さい。それでは「イメージを働かせて」などという言い方はできないことになります。だって、情景を「働かせる」なんてできっこないからです。
 これは、きっと「想像力」「想像すること」などを意味する「イマジネーション」とその行為の内容としての「イメージ」を混同してしまった言い方なのでしょう。

    イマジネーション (英imagination)
      想像。
      特に、科学、文学、美術などで、新しいものをつくり出す創造的な構成力。
      想像力。

 つまり、「イメージを働かせる」と言っているのは「想像力を働かせ(情景を)思い描いく」という状態を言葉を間違えて表現しているのに他なりません。
 そのような混同はあるにしても 「イメージ」とは「心(頭)に思い浮かべられた像」を意味する言葉ですが、それはさらに2つに分けられると考えています。


  ○記憶心像 (過去の体験を思い出して浮かべられたイメージ)
  ○産出的心像(思考や想像によって浮かべられたイメージ)


 本来、「(自然に)思い浮かんだり(想像して)思い浮かべられたり」する「心に映る像」を意味する「イメージ」という言葉ですが、どうも近頃は「具体的に目に映った像」「見える像」までを「イメージ」と呼ぶように広い意味でも使われているようです。
「この頃イメージ・チェンジしたんじやない?」と言う場合は、見た目の全体的印象を指して言っているわけですし、「イメージ・アップ」とか「イメージ・ダウン」などの言葉も目に見えている知覚像を意味しているからです。
 ですから、「思い描く像」と「知覚像」を区別する必要はないでしょう。
 そのように心に思い描いたり思い出したり、実際に見えることで印象づけられたりする「像(心像、印象)」を意味する「イメージ」ですが、もともと美術の分野で言われ始めた言葉を音楽の世界でも多用するようになったというのが実状のようです。
 ところで、音楽の学習で「イメージを〜」という場合に、先生方がその言葉にこめようとしている思いや願いは、どのようなものなのでしょうか。
 多くの場合は、「曲の感じを思い描いて」とか「歌詞(ことば)から受ける印象を大切にして」とか「場面や情景を想像して」、あるいは更に先の行為までを含めて「思い描いたことをふくらませてJ「〜心をこめて」などという具合に言い換えることができるのではないでしょうか。
 あいまいな言葉で子どもたちを惑わせないためにも、子どもの日常の言葉で表現し、よりよく伝わるように言葉の選択に配慮したいところですが、その典型とも言える言葉が「イメージ」ではないかと常々感じています。
 何を伝えたいのか不明であったり、ひょっとすると先生ご自身でも具体的にどんなことを伝えたいかわからないまま「イメージ」という言葉を安易に使ってしまっているのではないか、と思われる場面によく遭遇するからです。
 何をめざすのか、どうなればそうできたと言えるのか、めざすことの実現にむけて今自分にできることや必要なことは何かなどについて子ども自身が把握し、活動に向けてねばり強く取り組めるような仕組みがこれからの授業に求められています。
 そのためにもあいまいさ(わかったようでわからないこと)を排除していきたいと考えているのです。普段の授業を見直してごらんになりませんか?


 私たちは、自分の能力の限りを尽くして精一杯がんばっていたり、刻苦勉励しながら取り組む姿に「感動・感銘」を覚えることがよくあります。一心にものごとに打ち込み粘り強く取り組むその姿に「美しさ」や「頼もしさ」、自分もそうできればいいなという思いも重なって「偉さ」を感じるからなのでしょう。
 しかし一途に取り組んでいる本人自身は、意に反して「がんばっている」などと自分を感じていないことの方が多いようです。
 現在、読売ジャイアンツの監督をしている長嶋さんの選手時代に喧伝された「真夜中の素振り」はつとに有名ですが、その当時の話題は「深夜に飛び起きてバッティングの練習に精進する立派さ」を誉め讃え、さすが立派な成績を残す一流の選手である、という内容だったように記憶しています。
 ところが、後年になって本人がコメントしたところでは、「ことさらがんばったという意識はない。そうではなく翌日の試合のことを考えると心が『踊る』ようで居ても立つてもいられず、スィングでもしてしなければいられなかった」と言うのです。そして、それは当然のことながら「苦しい」「辛い」ことでも何でもなく、むしろ毎夜のそれが楽しいことだったと言うのです。
 もっとも独特の感覚的な言い回しで、時々凡人にはとらえどころのない意味不明の話をする長嶋さんのことですから、どこまで信じてよいかわかりませんが…。
 それでも、私たち凡人でもこのことは領けそうな気がします。
 すなわち「楽しいこと」「自分にとってワクワクできるもの」をしている、あるいはしようとしている時は、どんなに長時間でも、また肉体が疲労しても、あるいは困難さが立ちはだかっても決して「辛く」はないし、「苦痛」や「疲労」も感じないだろうということです。
 むしろ楽しく無我夢中で、額に汗していることすら忘れて何かに熱中してやるからこそ、そのことについてよく知ることができたり、そのことに必要な技術をよりよく身につけていけることが多いのではないでしょうか。
 そして、その姿が本来の「がんばる姿」なのかも知れません。
 幸いこと、苦しいこと、実現が困難なこと、嬉しくないこと、嫌いなことに「敢えて、強いて、進んで」粘り強く取り組むこと、すなわち刻苦勉励することだけが「がんばること」と思ってしまいがちです。
 そのことも手伝って、その子にとって「意味があるとは思えない」ような学習内容でも「がんばれるはず」なのに、「なぜあなたはがんばれないのか。がんばれないのは、あなたの努力が足りないせいだ」という暴論を生むような論理が成り立つのでしょう。
 がんばらせたければ、その子ががんばりたくなるような学習を仕組むべきなのです。
 その工夫を放棄し、自分の工夫の足りなさを高い棚の上にあげておいて「あなたのがんばりが足りない」などというのは、もってのほかです。
 先生方の中には「読書好き」という方、それが高じて私のように「活字中毒」で活字を目にしていないと落ち着かないという方もおられるでしょう。
 本を読んでいて思うのは、その本から何か得ようとか何か学びとろうという「下心」を抱いて本に接していては、読書の楽しみはおろかその本から何も得られないだろうということです。
 その本に記されている内容そのものにひきつけられたり、目が離せほど夢中になってしまうからこそ、時間を忘れて、時には眠いのも忘れて読み耽ってしまうのです。ページをめくるごとに疑問が解消されたり、新たな疑問がわいたりして新しい事態が目の前
に開けてくることに「ワクワク・ドキドキ」するからこそ活字から目をそらすことができなくなってしまうことにこそ読書の楽しみがあり、それを楽しみたいからこそ手あたり次第に本を手にし、読書を楽しむことによって「結果的」にさまざまなことを自分の欲しかったものとして手に入れる、つまり「学びとって」いけるのです。
 翻って学校の勉強の中で、そのような「ワクワク・ドキドキ」を生じさせるような学習の仕組みがうまくできているか、と言えばそれは保障の限りではないでしょう。
 がんばることだけが強調されてしまいがちな学校教育ですが、そのような「ワクワク・ドキドキ」をベースとして無我夢中で(フロー状態で)よりよく学びとっていけるよう、学習環境を整えていけば、それは自ずと「がんばる姿」を引き出す一番の近道になるだろうと思われるのです。
 孔子は、論語の中で次のように語りかけています。

   子日く                             あることについて知っている人は、
   之を知るものは、之を好むものに不如          そのことを好きでやっている人には
   之を好むものは、之を楽しむものに不如         かなわない。
                                   好きでやっている人だって、それを
                                   楽しみながらしている人には到底
                                   かなわないものだ。

 音楽の学習でも同様なのではないでしょうか。
 がんばることを子どもたちに求めるのではなく、がんばりたくなる環境を整えることが大切で、それがいわゆる「内発的な動機づけ」なのだと考えています。
 そのような環境の中で、無理なく楽しく「実現に向けて取り組むこと」「精一杯を発揮すること」のよさを味わう体験を積み重ねていくからこそ、一般に言われる「がんばる力や自信や勇気」が持てるのだということを考えると、子どもたちに対する働きかけを見直す必要があるかも知れません。



 私たちは、音楽の授業の中でどうしても「表現の巧みさ」「美しい声」「表現に耐える技能」「正確さ」などの目に見える能力に目を奪われがちです。
 それどころか、頭声的発生が身に付かなければ十分な表現などできない、と「表現したいこと」に先だって「表現の技能」を身につけることが命題であると思いこんでしまうこと、それが基礎・基本であると勘違いしてしまうこともあるようです。
 「美しい声」に憧れるあまり、「あんな声で歌えたら子どもたちは幸せだろうなあ」が「あんな声で歌えるように指導できたらなあ」に変わり、それがいつの間にか「あんな声で歌わせてみたい」に、さらに「私の言うことをしっかり聞いてがんばって練習すれば美しい声で歌えるのに、どうして私の言う通りにやろうとしないのか、できないのか」と子どもたちを責める思いに変わっていくのに、さほど時間はかからないようです。
 そこで支配的だと目に映るのは、子どもの願いとしての「美しい声や響き」への欲求ではなく、先生の「美しい声による歌唱が聴きたい」、言葉を変えれば「美しくない歌など聴きたくはない。私が良い気分で聴けないじゃない。」「もっと美しく歌ってよ。なぜなら私はそのような指導をした覚えはないし、そのような指導を日頃しているように思われたくないのよ」というエゴ(言い過ぎかも知れません)のように受け取れます。
 それは言い過ぎにしても、子どもたちは「先生の満足」のためにがんばって学習するのでは決してない、というのは言い過ぎにはならないでしょう。
 子どもは「自分自身の満足や納得」のためにがんばりたいし、新しい世界の広がりや自分の能力の広がりを実感したいからこそ、自分の精一杯を発揮しようと思えるのです。
 決して、先生を喜ばせたくて、先生をうれしがらせたくて学習する訳ではないのです。
 それはともかく、子どもたちの表現したいこと(言いたいこと)や美しさへの願い、よりよい結果をつくり出そうとする主体的な努力、その努力の出発点となる「音楽することは生活としてすばらしいことだという発見」を後回しにして、技術だけを身につけようというのは、子どもにとって、あるいは学習にとって良い意味は持たないし、抑庄にしかなり得ません。
 子どもは(大人も)、「自分にかかわりがある」「自分にとって意味あり」と思えるからこそ、達成をめざしてねばり強く取り組むことも問い続けることもできるのです。
 それを後回しにして、先生の満足のためにがんばらせようとすれば、ついには強制的な指導になってしまい、「おけいこ」ならまだしも「訓練」や「調教」に限りなく近づいていってしまうでしょう。子どもを「仕込む」という言い方がごく普通に言われていた時代ならともかく、未だにその束縛から抜け出せないとすれば、それは先生の考えが革まっていないことの証だと言えるでしょう。
  現神戸大教授の柳生 力先生は、その著「自分のために歌があるとき」(音楽之友杜)の中で次のように論じています。

  音楽の時間は、児童自身でもっとも優れた音楽的表現や方法の道を見出だす
ように音楽的環境を作り、選ばせたり討議させ、それを生き生きと実現させる
過程でなくてはならない。                  PP.111

し、音楽的表現に必要な技術とは、

  もともとある内容や欲求を表現するために、もっとも合理的で無駄がなく、
より自分の欲求がうまく表現出来たという発見がともなって見出され定着した
ものである。この場合、内容と技術は遊離したものでなく、密接不離の統一体
をなしているといえよう。                 PP.103

 この本が出版されたのは、昭和44年です。
 30年前に書かれた内容は、現在の教科「音楽科」で解決済みかと言えばそのようなこ
とはなく、未だに「子どもの学習」の実現に同じ悩みを抱えているというのが現状のようです。
 先生が「教え、鍛え、励まし」て子どもをできるようにすることは、比較的容易です。
 子どもにその気になってもらうためには、大変な努力と工夫と絞り出すような思索が必要ですが、言い方を変えれば「何の工夫もなしに、子どもを主体的にすることなんかできはしない」と言えるし、それが研究であると言うことができるでしょう。
 技術や技能に関して、さらに角度を変えれば、「美しい声で歌う」ことができるようにすることが教科「音楽科」の目標ではないということも心しなければなりません。
 ある学校(県内の学校ではありません)では、頭声的発生の指導が徹底し、低学年から高学年までどの学年でも明るいすばらしい響きで歌うことができます。
 全校100名足らずの児童が合唱する様子を研究発表会の音楽集会で「披露」して聴かせてくれましたが、何とも言いようのない不愉快さを覚えたことを記憶しています。
 全校の児童が同じ顔の表情、同じ声の響きで歌うことの気味悪さをご想像下さい。
 社会主義国のマス・ゲームを見るような不気味さを感じさせるのです。
 大変に見事なのですが、ぞっとさせられるのです。
 誰もが芝居っ気たっぷりの「うっとり」とした表情で、体の動きまでまったく同じ、右に左に一斉に体を揺らして歌うのです。それも不思議なことに、どの曲を歌っても同じ響き、同じ動きなのです。どうしたことなのでしょう。何を表現しても同じ表情と同じ響きでしか歌えないということは、声の響きをつくることはできても「表現力」を身につけることはできなかったということの証と言えるのではないでしょうか。
 もっと言えば、「マス」としての統一体をつくることが教科「音楽科」の目標でもないのです。
 一人一人の子どもが、能力や技術の差こそあれ、それぞれに自分の精一杯を発揮して「自分の言いたいこと」を表現し、工夫し、確かめ、表に向かって自分を押し出していくことで有効な表現文化としての音楽を確認する作業、「歌に生命を吹き込むことのできる自分」を発見する活動こそ、音楽科でねらわれるべきなのです。
 夏休みにご講演をいただいた川池先生は、学生たちに映画「天使にラブ・ソングを」を鑑賞させ、それについてレポートを書かせるんです、と言います。
 あの映画をご覧になった先生はおわかりでしょうが、あの中で合唱をした一人一人の生徒たちは、決して美しい声の持ち主ではありません。もちろん誰もが同じ声の質を持っている訳でもありません。ただ説得力のある表現ができるのです。
 私たちは、明治の洋楽導入をもっばら「ヨーロッパ」特にドイツに依り、その影響をいまだに引きずっているせいか、「統一感」を重視する教育を受け、個性について教えてもらうことが少なかったようです。
 時には、それが「集団への個の埋没」という形で強制されることもあり、自分を表出することよりも「みんなに合わせること」が求められ、それが何よりも大事であるかのように教え続けられてきたようでもあります。
 しかし、難多な人種を抱えるアメリカの音楽は、「個の確立」がまず求められ、それを基盤に「みんなで楽しむ音楽」を成立させてきたことはご承知の通りです。
 どちらがベターかということを論じる前に、今求められている「生きる力」の育ちとそのための「個の重視」という観点から、次のようなことがらについて検討してみる必要はありそうです。
 ○音楽の学習をみんなでする意味について。
 ○みんなでつくる音楽と個のとらえについて。
 ○音楽文化に参加するために表現の技能は不可欠か。
 この稿は、表現の技能について考えるのが目的でした。(慌てて方向を修正します。)
 ある美術家は、子どもの描く絵について次のように断言しています。
 「下手も絵のうち」
 文化に参加するということは、その技能の優劣にかかわらず、誰にでも可能であるはずです。 どのように稚拙な表現でも「技能を伴わない」ということはなく、たどたどしい表現でも人に何事かを訴えることはできるし、素朴な表現でも人に何かを伝えることは十分できるのです。ひょっとすると、巧みな表現でなされたそれよりも数倍も人の心を打つことだって考えられるし、そういう場に出会ったことも一度や二度でありません。受け止める私たちは、どうやら子どもたちよりも感受性が摩耗してしまい、単純なものの向こうにある豊かな世界に気づけなくなってしまっているのではないか、と指摘する人もいます。
 子どもが数行しか書かれていない物語、大人なら「なんだ、こんな単純なことを。」としか思えないようなお話を飽きずに何度でも読み直し、楽しむことができるのは、子どもがそのたった数行の向こうに大人の忘れてしまった豊かな「想像の世界」「ファンタジーの世界」を見ているからだ、と言うのです。
 その表されていない「向こうの豊かな世界」を察知・感受できない大人は、たどたどしい表現の表に見える部分しか見えず、「向こう側の豊かな世界」に気づくことができず、稚拙な表現としてしか受け止められないのかも知れない、と省みる必要があるでしょう。さて、紙数が尽きてしまいますので、作曲家の園部三郎氏の言葉でこの稿を閉じたいと思います。

  音楽教育は、知識を与えるとか技術を習得させるとかいう教育よりも、
それを自ら求めると同時に、自分の生命の発展の為に 技術や知識を活用
しようとする欲求を育てることに、その出発点があるのではないだろうか
 ……(略)(公教育では)一般的な表現をすれば、音楽を理解すること
のできる子どもに育て、そのかぎりでできるだけ音楽を上手にすることで
ある。「音楽教育の意義」
      岩波講座 現代教育学8「芸術と教育」1964_P_236


 ずいぶんと長い間耳にしなかったことば、なつかしい?ことばをつくば市に来てから耳にするようになりました。
 それは、「芸能教科」ということばです。
 音楽科も実は芸能教科という言われ方をしているようです。
 多少戸惑いを感じたり、困ったことだと思わざるを得ません。
 なぜなら私たちは、決して子どもたちに「芸能」を指導しているわけではないからです。
 私たちは教科「音楽科」を通して、子どもたちに「芸」を仕込んでいるわけでもないし、そのことによって「芸人」を育てようとしているわけでもないはずです。
 また、大衆をうならせたり目を惹き付けたりするような巧みな「技」が身に付くように訓練を施そうとしたり叱咤激励して調教しようとしたりしているわけでもありません。
 別に「技能教科」という言い方で呼ばれることもあるようです。
 「芸能教科」にしろ「技能教科」にしろ、その概念は「芸や技をマスターさせることをその作用の中核とした教科」ということになるでしょう。そこから想像できるのは、横町で三味線や尺八、小唄や生け花のお稽古をする手習い教室のようなもの、あるいはテレビなどのマスコミで芸を披露するタレントを養成するような場所などです。
 因みに「芸能」ということばを辞書で引いてみると次のように記されています。

    〔身過ぎのための芸の意〕
     映画・演劇・音楽・女輔・寄席演芸など娯楽的色彩
     の強いものの総称。(〜界、〜人)
              三省堂 新明解国語辞典第4版

 やはりそうでした。他の辞書で調べてみても「娯楽的な大衆演芸」やその種の「芸事」といった意味合いが濃厚で、そうであるとすれば他の教科の先生は音楽科を「芸事を身につけさせる教科」というようにしか見ていないと言えるし、従来の音楽科がそう見られるような授業しかしてこなかったということにもなるかも知れません。
 そのような言われ方をしている以上、多少授業時数を減らしても構わないじゃないか、音楽などは社会教育の場でやれば良いでしょうなどという音楽科軽視の論理が生じるのも当然です。
 音楽科が変わっていかなければ、そのような見方が失せるわけもなく、「芸の伝達」に終始してしまえばついに音楽科が消滅してしまうということに、私たちはもっと危機感を持たなければならないでしょう。
 十数年前から「教科を見直す目を」「発想の転換を」と言い続けて来たにもかかわらずそのような見方をされてしまう「音楽科の現状」、「変われない意識」に暗澹たる思いを禁じ得ません。
 子どもが自らの力で自分自身に意味のある学習として意識して想像力や創造力を発揮して取り組み、外に向かって自分を押し出していく表現力を身につけ、自分なりの技を編み出し益々磨いていったり定着させていったりすることで自分を切り開いていく、すなわち自己成長させていくことが今求められています。
 いくら形の上で子どもが主役の学習を仕組んでみても、音楽的な能力や音楽への構えは「外からの力で教え、鍛えなければ身につかないものだ」「技を身につけさせれば何とかなる」と相変わらず考えていては、芸事を教えるだけの教科=「芸能教科」のそしりを免れないでしょう。
 まず何よりも音楽科が変わらなければならないし、そのためには音楽科を担当する先生の意識が変わる、ということが必要なのです。
 東京大学助教程の志水宏吉氏は、今月号の初等教育資料「学校文化をつくりかえる」と題する論文の中で次のように指摘しています。

 われわれ自身が有している常識を問い直し、修正すべき点は修正していくという
 作業は、決して楽なものではない。時には苦痛を伴うものになるだろうが、その
 作業を継続することをためらってはならない。旧態依然たる学校の体質が、現代
 社会の多様な要請に応えきれていないことは、今や誰の目にも明らかである。
 来る21世紀に向け、われわれの学校を再生させるために、われわれは行動を起
 こさなければならない。
                    初等教育資料 R.9.12月号P,71

 現在行われている研究がそのことと決して無縁ではなく、むしろそのことを志向しているものであることに気づかなければならないでしょう。
 授業時数削減が下のように提案されている今、そのことを受け止め謙虚に反省したり、これからの授業づくりに生かしていかなければ事態は益々悪くなってしまうのではないかと思われますがいかがでしょうか。
 教科「音楽科」が誰の目にも「意味あるもの」と思えるようにしていくこと、文字通り「音楽科の再生」を目指すことがこの削減提案の向こうに見えなければ、ついに音楽科は「芸能教科」のままで終わってしまうのではないかと思われてならないのです。


 私たちが考え、実践しているのは「音楽」ではなく「教科」としての「音楽科」です。
 子どもたちに「音楽の楽しさ」を味わってもらったり、そのことで「音楽への愛好心を育んだり」することが大命題であるにもかかわらず、「できなければ楽しくない」という思いこみの余り、「できるようにすること」「わかるようにすること」そのために「教え、鍛える」ことが先行してしまう状況がないではありません。
 それだけならまだしも、その「教え、鍛える」ことが目的と化し、時として子どもから本来の目的である「歌うことの楽しさ」や「自分を表現することの楽しさ」を、あるいは「探ったり学び取ったりすることのうれしさ」を奪い取ってしまうといった「本末転倒」もあるようです。
 手段が目的にとってかわり、手段であるにもかかわらずそれが目的となってしまったかのような授業が確かにあちらこちらで散見されます。
 従来、学校での教育は「どれだけ覚えられたか」「どれだけできるようになったか」という学習の結果得られた「知識の量や技能の多寡」を主要な問題としてきました。
 誰が一番多くのものごとを覚えることができたか、A君とB君ではどちらがより多く覚えることができたか、技能をマスターすることができたかといったことが評価され、それが「学力」であるかのように扱ってきたのです。
 お茶の水女子大学長の河野重男先生は自己教育力について論じた講演の中で次のように言っています。

  知能の教育という時には、この問題を解けというように与えられる。
 それに対する正解が一つある。その正解をいかに早く記憶し暗記して
 できればそれを応用に移していく。そういう能力を知能と呼んでいいし、
 そういう教育を知能の教育と呼んでよかろうと思います。
  これに対して、問題を自分自身で発見する。自分が見つけだし発見した
 問題に対する答は一つではない。正解は一つではなく、幾通りかの答が
 ある。その幾通りかの答に、一つひとつ自分で検証を加えていって、
 自分にとっての正解は何かというように答を見つけだしていく。
 そういう力、そういう能力の側面を言う時に、これを知性あるいは
 創造的知性と言ってもいいでしょう。

 ことばを変えれば「知識の習得」から「知恵の獲得」へ、と言っても良いでしょうが、そのことについてはもう確認済みであると考えていました。
 それでもなおかつ、「読譜」や「楽典の知軌、あるいは「発声法」や楽器の「奏法」といった標準的な「知識や技能」が音楽の基礎・基本である、という考えから脱却できずにいる先生がおられるとすれば非常に残念です。(結構いるんです。これが)
 興味深い例がありますのでご紹介します。
 私たちは、中学・高校・大学と計8年間もの間英語を学習してきましたが、自分の言いたいことを自在に表現したり、意志を伝達する手段として英語を話すことができるか、と問われれば自信をもってうなずくことができません。中学でも高校でも決して悪い成績をとったわけでもないし、がんばって勉強しなかったわけでもないにもかかわらず、です。
 つまり、8年間の「がんばり」が成果を挙げたとは言いにくいのです。
 そのことに関して脇 英世氏は「文化系のパソコン」という本の中で、

   …‥・(略) だが、言葉をおぼえても、表現すべき実体がなくては
   仕方がない。英語を習う理由は、英語自体にあるのではない。
   英語によって表現すべき内容がなくては困る。
   語学そのものが自己目的化しては困るのである。

と論じています。
 まず何よりも「英語で言いたいこと」「英語で伝えたいこと」「英語で表したいこと」を学習者が切実に持っていることがなければならず、それと切り離して単に英語で書かれたものを日本語に置き換えたり、日本語を英語に訳したりすることが英語の学習であると思いこんで「教えられた」結果が今の私たちの悲惨な状況なのです。
 ここでも「本末転倒」が顔をのぞかせています。
 この話題を音楽科に置き扱えてみましょう。
 音楽でも「こんなふうに表現したい」「こう歌いたい」そのために「こんな音(声)の響きが欲しい」という欲求がないままに技能だけを求められれば、その技能は終にその子の使えるものとはならないのです。そのことに関しては、ウォッチャーの10号でも述べ
ていますので是非読み直してみて下さい。
 そう考えてみると、音楽に向かう基礎・基本とは、「読み・書き・そろばん」にたとえられる「知識や技能」なのではなく、「表現したい」という欲求を持つこと、「こう表現したい」という願いを持つこと、願いの実現に向けて(もしかすると困難にぶつかることがあっても)自信や勇気をもって取り組む構えや意欲を持つこと、などであると言えると考えています。
 そのような意欲(内発的な意欲と言い換えても良いでしょう)や構えが無理なく自然に子どもの内に「生じる」ような工夫は一朝一夕にできるものではないでしょう。小手先の技術でインスタントに実現できるものなら何の苦労もないのですが‥‥。
 そこで研究が必要となるのです。
「本末転倒」にならないようにお互いがんばろうではありませんか。


 年の瀬を迎え、第2学期も残すところ1週間。どこの学校でも、学期末のお仕事に追われてお忙しい毎日をお過ごしの
ことでしょう。
 さて前号(15号)の記事を読み返していましたら、誤解を招くような論述の仕方になっていることに気づきましたので、
大急ぎで「再々考」をお送りしたいと思います。
 これまでの「ウォッチャー」の記事を子細にお読み取りいただき、その文脈の中で前号の記事を受け止めていただけれ
ば誤解はないと信じてはいるのですが、念のため16号を作成し誤解を避けたいと考えたのです。

 私たちが教科「音楽科」の授業を通して願っているのは、音楽を愛好する心情を育てること、そのことを通して音楽的な
能力や音楽性を身につけること、そして音楽文化に主体的・創造的に参加しようとする意欲や構えを培うことであると言
えます。
 音楽的能力や音楽性を培うことは、紛れもなく音楽科教育の目標なのです。
 ところで、音楽的能力については「ウォッチヤー第4号」でも書きましたが、マーセルが次のように指摘しています。

   ア、音楽的識別カ
   イ、音楽的洞察力
   ウ、音楽的意識
   工、音楽的自発カ
   オ、音楽的知識・技術

 ですから、「音楽的な知識や技術」が不要な能力ではないなどということを言うつもりは微塵もありません。 
しかし、それは音楽的な能力の内の一部でしかないし、他のア〜エの4つの能力との相関がほとんどない(あっても弱い)
ことから、それだけを徒に追い求めるべきではないはずなのです。
 従来、音楽教育も音楽科教育もこの「知識や技術」の伝達・教授に多くの比重をかけて行われてきましたが、実は他に
もっと大切な能力があるのだという指摘に着目しなければならないと思うのです。
 さて、前号の記事は音楽の学習に向かう「基礎・基本」について述べたものです。
 音楽科の学習を通して培いたい能力や構えを、子どもたち自身が「我がこと」として学び取り、身につけていけるような
学習が求められていますが、その際の「基礎・基本」をどうとらえれば良いか、という文脈の中でそれは「表現への欲求や
願い」そして「音楽への自信や勇気」「夢や希望」なのだと言っているのです。
 ねらうべき育てたい「能力や資質」とその実現に役立つ「基礎・基本」を整理してとらえなければ、「鶏と卵」のような無限
思考回路に陥ってしまい、自分のしっぽを噛もうとしてぐるぐる回る犬のようになってしまうでしょう。
 誤解を招いてしまうのでは?と懸念したのは、実はそのことです。
 「音楽的な知識や技術」はウェイトの軽重はさておき、私たちが培いたいと願っている能力の紛れもない一つの力なのです。
(敢えて重ねて言いますが、「そればかりを追い求めない」という条件つきで‥・)
 しかし、それに向かうベースとしての「基礎・基本」は別物なのです。
 「こんな表現にしたい」と強く欲し思えるからこそ、自力であれかこれか試したり確かめたりしながら、自分なりに納得のいく
表現方法を飽くことなく探る中で、声の出し方や響かせ方、声の表情や発音などのテクニックについて、楽曲と乖離しない
環境の中で編み出し自分の使える生きたワザとして身につけていけるのです。「こんな表現にしたい」 という願いや意志・
意欲がベースになければ、そのような表現上のテクニックは「自分で見つけたこと」「自分で築き上げ、自分に役立つワザ」
として意識されないばかりか、自分のものとして「盗んででも手に入れ」使ってみようと思えるものにはならないでしょう。
 その意味で、音楽学習に向かう「基礎・基本」は子ども自身の内に生じる「音楽への意志・意欲・願い・期待・自信・勇気etc.」
と言えるだろうというのが前号の趣旨です。
 そして、そうとらえた時に、新しい教育の潮流、すなわち『子ども自身が気づき、自ら学び取る活動を通して「生きる力」の獲得
に貢献する音楽の学習』の実現をめざす動きに対応した授業づくりが始められると思われるのです。
 講演受講者からの質問に対する金本先生の『発声は音楽の基礎・基本ではなく、表現のための基礎・基本ととらえるのが妥当である。』という回答もそうした意図からなされたものである、と私は理解しています。前号中の 「(金本先生のおっしやる通り)」
という文はそのことを指して言っていますが、どうか誤解のないようにお願いしたいと思います。
 「知能の教育」から「知性の教育」への転換が叫ばれている今だからこそ、音楽科で培いたいものとそれに向かうベースとして
の根や茎にあたるものを明確に整理してとらえ、実践に移していかなければ「生きる力」を身につけ発揮できる「文化への創造的な参加者への育ち」、また生涯をかけて「いっそう自分自身になっていく人間の育ち」に貢献できる音楽科教育にはならないのではないかと思われるのです。


 私たちは、子どもの主体的で創造的な学習の姿を求めてさまざまに工夫をこらしていま
すが、そのような姿で学習に取り組めるようにするためには、何と言っても「自分にとっ
て意味あり」と思える内容で授業が構成されている必要があります。
 「今日は、こんなことを学習してみない?」と投げかけた時に、本時の終末には「自分
はこんなことができているだろう」とか「こうなっていたらいいな」「やってみたいなj
という見通しや期待が持てるような提示がなされれば、あとは先生の手を離れて学習を進
めていくことができるはずなのです。
 終末の自分の姿を実現するために、何を、どう、どんな順序で、何を駆使して活動して
いけば良いかを子どもにあずけることで、本来の意味での主体的な活動が生まれる余地が
あるし、そのような主体的な活動を通してこそ主体性の育ちが期待できるのです。
 そこで見通しや期待が持てるような題材の主題や題材における初発の発問や資料の内容、
さらに単位時間の課題を工夫することが重要になってくるでしょうが、そのことに関して
埼玉大学の八木正一先生は「AをさせたかったらBと言え」と言っています。
 私のかつての同僚が5年生の図工で次のような授業を仕組んだことがあります。
 それは「のこぎり」の上手な使い方について学習することをねらった題材だったのです
が、題材名は『ドミノをつくって遊ぼう』というものでした。
 「遊ぼう」と呼びかけられた子どもたちの活動意識の中心にあるものは、「遊ぶこと」
であり、しかもその遊ぶ道具を自分の手で「つくること」、しかも遊ぶのは楽しそうな
「ドミノ」。たくさんつくってたくさん並べてうんと楽しんでやろう、と子どもたちは張
り切って学習に取り組みました。
 実際ドミノをつくってみると、大きさが不揃いでは困るし、切り口が曲がっていたり歪
んでいたりしたのでは真っ直ぐ立たせることができず遊ぶには不都合です。うまくのこぎ
りを使って切れたかどうかは、その場で切ったドミノを立たせてみればわかりますから、
「今度はうまくいった」とか「少しずれてしまった」という具合に即座に自己評価しなが
ら活動することができます。
そこでは、先生が「こうしなさい」と言わなくても「たくさんつくって遊びたい」という
自分の欲求に支えられて、のこぎりの使い方に工夫をこらし、いつの間にか無理なくのこ
ぎりの扱いに慣れていくといった姿が見られました。
 この時の図工の先生は、何も「ドミノで遊ばせたい」と思って「遊ぼう」と投げかけた
わけではありません。「遊ぼう」と投げかけることで活動意識の焦点化と方向化を図ろう
としたわけで、その遊びが「ドミノ」だった点がとても秀逸だと思えるのです。
何となくやってみたくなる手軽な遊びへの誘いが活動への意欲を引き出せる、しかもドミ
ノをつくる活動を通せば、楽しく自己評価せざるを得ない状況をつくりだせるしねらいと
する能力を無理なく身につけることができると考えた先生の工夫が授業を成功させたと言
えます。
 「のこぎりの使い方を覚えよう」とか「のこぎりでまっすぐ切ろう」などという直接的
な言い方をせずに『ドミノをつくって遊ぽう』とした題材名が秀逸ですが、それが「Aを
させたかったらBと言え」のなかみで、「見通しや期待の持てる学習内容」のなかみです。
 同じことが題材だけでなく、一単位時間の授業についても言えると考えていますが、本
時のめあてを内容的にどう工夫するか、どうすることで内発的な動機付けをし、欲を言え
ば学習の方法や自己評価まで無理なく示せるようなものにできるか、第一の研究の視点と
なるはずです。もっと言えば、子どもたちの「連続的な問い」を支えに主体的な取り組み
を期待するためには、一時間一時間の授業が切れ切れにならず、本時の終末の学習のまと
め(振り返り確かめる活動)が次時の課題として意識できるよう、終末のあり方を工夫し
たいところです。
 終末時にはよく自分の学習について自己評価や相互評価をするといった場面がよく見ら
れますが、その評価の観点は実は「本時の目標」そのものなのです。
 それが「指導と評価の一体化」と言われることですが、仮に本時の目標を「仮分数の足
し算の仕方を調ペよう」と提示しながら、「計算が速くできるようになりましたか」とか
「真剣に取り組めましたか」などと見当違いの評価の観点を示したとすれば、子どもたち
の一時間の学習やがんばりはどこかへ吹き飛んでしまいます。
 その問にズレがないことは言うまでもありませんが、もっと言えば本時の目標が子ども
にとって「自分はこんなことがこんなふうにできればいいんだな」というめやすが持てる
ようになっていれば、終末段階であらためて「○○ができたか(わかったか)」と問い直
さなくても子どもは自然に自己評価したくなってしまうし、してしまうものです。
 音楽を例に言えば、「美しいひぴきで二部合唱しよう」という目標が、子どもたちに
「よしやってみよう」「挑戦してみたい」という内発的動機付けを生むかといったことは
もとより、どうなれば「美しい」と言えるのか、それが子どもの活動の中で無理なく判断
できるものかどうか、などについてよくよく吟味して提示することが必要となるでしょう。
 なぜなら評価は終末段階だけでなされるものではなく、学習の過程の中で絶えず「ため
す一見直す一やり直す一見直す」というようになされ続け、それが学習をつくることその
ものだからです。そのような形成的な評価にしても、従来は教師をはじめとする第三者が
その子の学習の達成度を外側から測定するという構図でなされてきたのですが、主体的な
学習というように「自分で自分の学習をつくりあげていく」ためには、自分で問い直すこ
とが重要なファクターとなっていくことでしょう。
 そう考えてみると、先ほどの音楽の目標「美しいひびきで二部合唱しよう」は授業の目
標として適さないということが言えます。
なぜなら、「美しい」のなかみが漠然としていてあいまいであること。そのためにどんな
観点で、どんな方法で自分の活動を見とるかの「めやす」が見えにくく子どもたちの学習
にはなりにくいこと。そして何よりもそうできた時に自分にとって何か良いことが起きそ
うだ、という期待や希望がここから生まれることが期待できそうにないからです。
 これらのことは、最初にみた図工の授業『ドミノをつくって遊ぼう』と比較してみれば
明確です。
 このように先生にとって「学ばせたいこと」を子どもにとって「学びたいこと」に転換
するために、どんな内容の学習を仕組むか、どんな内容の題材として提示するか、という
工夫がまずなされ、その構想をもとに「どんな教材・教具で」「どんな学習の場で」「ど
んな学習形態で」の学習を仕組めば効果的に学習できるか、といったことが次に検討され
なければならないはずです。
 まずその工夫ができるかどうかがこの研究の正念場だと言えるでしょう。
 この冬休みから3学期にかけて、皆さんで考えていきましょう。


 かつて私が音楽の授業で受け持った子に「美しいM君」と呼ばれる子がいました。
 今回は、M君がどうして「美しい」というニックネームで呼ばれるようになったか、という経緯からお話を始めたいと思います。
 M君は元気な男の子。音楽は好きだけれど、鍵盤ハーモニカが苦手。ちょっと乱暴で、
ドラえもんに登場するジャイアンのような子でした。
 「日のまる」をお勉強した時のことです。
 ドレミでもしっかり歌えるようになったM君のクラスでは、他のクラスよりも早く鍵盤ハーモニカに挑戦することになりました。 案の定、M君は曲の出だしからうまくいかないようで、練習している間にも隣の友だちにちょっかいを出したり、鍵盤ハーモニカのパイプをブルンブルン振り回して遊んでいます。
 これはちょっと困ったぞと思った私は、「M君、がんばってごらん。」と何度も声をかけましたが、それはただ声を発しているというだけで、M君にとっては何の足しにもならない空しい言葉でしかありませんでした。
 何をどうがんばれば良いのか、どうしてがんばらなければいけないのかをM君にわかってもらえるような助言になっていないからです。
 ところが、ある時机間巡視をしてM君の傍らを通りかかった時、思いがけずM君が机の上に置いた鍵盤ハーモニカにだらしのない格好で寝そべるようにしながらも、「ラーソソミドレ(あゝうつくしい)」と弾いているの音が耳に入りました。
 もちろん、他の友だちのように正しいテンポで弾けているわけではなく、たどたどしい
弾き方ではありましたが、それは紛れもなく「あゝうつくしい」のふしなのです。
 「M君、そこ弾けるんだね」と思わず声をかけてしまいましたが、M君はさほど嬉しそうでもない声で「ここだけ」と言うのです。
 「いいよ、M君。そこだけだって。一番難しい所だもの。M君はそこだけでよし。」と言いながらクラス全員にこう提案しました。
 「ねえ、みんなで一緒に弾いてみない?ただ、『あゝうつくしい』のふしはみんなはお休みね。そこはM君が弾きます。」
 クラス中大騒ぎです。
 「M君、弾けるんだ。」「M君、大丈夫?」「うそーっ」「どれどれ」・・・。
 そんなこんなの騒ぎの中で、私もちょっと不安でしたが前奏を弾き始めました。
 多少つかえはしたものの、M君は自分の受け持った『あゝうつくしい』のふしを無事弾き終えましたが、それからがまた大変でした。
 まず、クラスのみんなが大喜び。「やったね」「えらい」と拍手しながらまるで自分のことのように喜んで、しまいには全員で万歳までしてしまいました。
 そして、M君が誇らし気な表情を見せたこと。それまで、しらけた顔をしていたくせにいつもの元気なわんばく坊主の顔に変わっているのです。



 何度も何度も「日のまる」を弾いて楽しみましたが、いつでも「『あゝうつくしい』のふしは、みんなお休みだよ。M君が弾くんだから。」と子どもたち。
 そして「『あゝうつくしい』の得意なM君」と呼ばれ、しまいには「美しいM君」と縮めて呼ばれるようになったのです。
 本当のことを言えば「あゝうつくしい」が得意なわけではなく、その部分だけは弾けるM君なのですが、子どもたちはそうは取りませんでした。(何と優しい子どもたち)
 それはともかく、M君はそう言われれば言われるほど、「あゝうつくしい」の演奏に磨きをかけ、誇りを持ったようで、それからは私が「そこだけでいい」というのも聞かず「ほかのふしも弾いていい?」「やってみようかな?」 「先生、聞いて」などと言ってくるようになったのです。
 それからの彼は、見違えるほど上手になったわけではありませんが、鍵盤ハーモニカに限らず身体表現でもリズム遊びでも積極的に楽しそうに取り組むようになったのです。

 私たちは、「これは覚えて欲しい」「これはできるようになって欲しい」と思う余り、「しっかり」とか「がんばれ」という言葉をかけながら後押ししたり引き上げようとしたりする「励まし」を施そうとします。しかし時にはこの場合のように「それだけでいいんだよ」「それだけできれば立派」と領いてやることや温かいまなざしで見守ってやることも必要なのではないかと思われるのです。
 「ここからここまで弾けるようにがんばってみよう(ごらん)。」という一見励ましに見える指導は、時として外圧としてしか意識されないことも多々あります。そして、そう言われてしまうことで意欲が失くなってしまうこともよくあります。
 しかし、「そこだけでよい」「できるところだけでよい」という投げかけは、子どもの心の中に安心感を生み、その安心をベースに僕だってやれるはず、僕は決して無能ではないという人間本来の自分を認めたい欲求や他から認められたい欲求がむくむくと動きだし、それが意欲につながっていくこともあるのです。
 いわば逆療法でしょうか。
 やる気(意欲)が持てるようにしてやるためには、やる気を阻むものを見出し、「どうせ僕なんか」と思ってしまわずに、もともと持っている向上心を発揮できる状況をつくり出すことが必要でしょう。
 人間には、もともと「自分には何らかの能力がある」とか「よりよくなりたい」という欲求があると言われています。しかし、それが見えにくくなった途端に無気力になってしまう(やる気を喪失してしまう)もののようですが、その意味でも「大丈夫」「あなたな
らやれる」と信頼してやること、もっと言えば「あなたはそのままで、そこにいるだけで意味がある」と認めてやることが、意欲を引き出す上で大切なのだろうと思われます。

 この例に見るように(誤解を怖れずに言えばという注釈つきですが)、「がんばれ」の言葉よりも教師の構えやまなざし、肯定的な言葉かけが効果を発揮することもあるのです。
 「がんばら」せたければ、視点を変えた違った方向からのアプローチが必要だと思われますが、子どもが安心し、その安心感から生まれる内発的な意欲や自分が他ならない自分白身のために発揮するやる気などもその一つとして着目して良いかと思われますがいかがでしょうか。


 このところの授業研究で、気になる発言が聞かれ、「本当にそう思っているの?」と問い返したくなる衝動にかられてしまいますが、今日はそんな話題を取り上げてみます。
 気になる発言とは、「できなければおもしろくないはずだ」というものです。
 できなければ「おもしろくない」し「楽しめない」はずだ、という断定的な言い方には納得できないものがあります。どうしてそのようにきめつけてしまうのでしょうか。
 「できる」という言い方は、「うまく(できる)」とか「思った通りに(できる)」、「正しく(できる)」などのように「めざすこと」が達成できたかどうかを判断し、かなったことを評価しようとする意志が込められています。
 確かにめざすことが達成できなかったと感じてしまうことがあれば、満足感や充足感を味わうことはむずかしいかも知れません。しかし、それはあくまでも他ならない自分自身が判断することです。
 他から第三者がものさしをあてて、「君はできていない」「まだ不十分」「君はよくできた」と測定するように評価することと、自分が自分の達成状況を判断することとは意味も方向も異なることがよくあります。
 ですから第三者の目で、この子はよくできていないから楽しくないだろうとか楽しくないはずだ、などと簡単にきめつけてしまってはいけないのです。
 他者から見て「まだ不十分」のように見えるときでも、学習者本人が「やりとげようとがんばったこと」「不十分かも知れないがやっていること自体」が楽しかったと言えるような状況もあるのです。
 どうやら私たちが持っている「できる一楽しい一好き」という図式は、あまりにも楽観的な幻想や思いこみでしかないのではないか、と思えてなりません。それは、そうでない場合の例をいくらでも挙げることができることからも言えます。
 卑近な例では、カラオケの隆盛を挙げることができるでしょう。
 カラオケが私たちの身近に出現してから、もう20数年経過しています。その当時は、どこの町でもスナックやちょっとした飲み屋さんなどにカラオケが設置されました。周囲への迷惑などの配慮もあってか、防音装置の施されたカラオケ・ボックスが誕生した
のが10数年前の岡山県、それが2〜3年の間に全国に広まり、日本のみならず世界の共通語として「KARAOKE」が定着してしまった感があるのが20数年の歩み。
 楽しそうに歌っている人たちの歌を聴いてみて下さい。
 決して「うまい」人たちはかりでないことは先生方もご承知の通りです。もちろん、とても上下に巧みに歌っている人もいますが、そんな人たちばかりが「楽しん」でいるわけでもなく、「好き」なわけでもなさそうです。
 もし、「(うまく)できなければ楽しくない」のだとしたら、こんなに多くの人々がカラオケを楽しんでいる理由の説明がうまくつかないでしょう。
 山田洋次監督の映画「学校」は夜間中学を舞台にした映画でした。
 竹下景子扮する若い女の先生に憧れた生徒(文盲のおじさん、田中邦衛が演じていました)が、覚えたばかりのひらがなで書いた葉書を出す場面が印象的でした。
 覚えたばかりの金釘流の文字で、たどたどしい文章ながら 一生懸命に自分の思いを伝えようと首にかけた手ぬぐいで汗を拭き拭き、ちぴた鉛筆をなめなめ葉書を書いている様子は「楽しくない」どころか何とか自分の思いを伝えようとする喜びにも似た表情で描かれていました。
 どんなに「稚拙な文字」でも、「朴訥な文章表現」でも、そこには自分の思いを自分の手で伝えられる喜びや楽しみがある、という具体的な例がここにあります。
 有名な野口英世のお母さんの手による手紙も、文字の美しさとか文章構成の巧みさとはかかわりのない「感銘深い手紙」としてつとに有名です。
 文字の美しさと伝える喜びや楽しさとは別物ですし、それが人に感銘をもって受け入れられるかどうかもまた別問題なのです。
 もっとも、「自分は字が上手に書けないから手紙を書くにも気後れがする」という人もいますが、それならワープロで書いても良いでしょう。
ワープロなら、字の美しさや巧みさを心配せずに、「書きたいことや言いたいこと」に心を配り、気後れせずに文章をつくることができそうです。書きたいことや言いたいことを切り離した文字を上手に書く練習は、子どもに何の必要感も生じさせはしません。
 また、オリンピック会場の長野県の西北部の栄村では、「絵手紙世界展」が開催されていると今日づけの読売新聞の「編集手帳」にありました。絵手紙の趣旨は「下手でいい、下手がいい」なのだそうです。
 見てくれのうまさ(巧みさ)とはかかわりのない「表現の楽しさや喜び」は誰にでも味わえるものという趣旨が窺えますが、私たちは美しい字の形や書き方を求めて、それを子どもたちに要求し、「できた・できない」を安易に判断し、それが表現のすべてであるかのように扱ってしまっていることはないでしょうか。
 基礎と称して音楽の内容と切り離した「発声の練習」や「発音の練習」をするような場面はさすがにもう見られなくなりましたが、一つ一つの文字を上手に書けるように声を出すことが欠かせない「できること」と受け止められている傾向がないわけではあり
ません。 そして、それができなければ「表現の楽しさ=文章や音楽で言いたいことを表す喜び」も味わえないだろう、という錯覚が根強く残っていることも先の発言から窺えるのです。
 話をカラオケに戻しましょう。
 カラオケは生まれてから20数年も経つのに、すたれるばかりか益々盛んになっているのはなぜか、ということについて考えてみたいと思います。
 それは、何よりも「なりきる感覚」が味わえるということに尽きると思っています。
 まるで、流行歌手が歌う時のようにオーケストラが伴奏してくれること。そして、エコー(反響)やリバーブ(残響)が効いて、上手な人には上手な人なりに、そうでない人にはそれなりに「良い気持ち」で「広々としたホール」で歌っているかのような気分を味わわせてくれること。
 エコーが歌を包み込んで「うまそうに」響かせてくれること。
 誰が歌っても(それを聞いていてもいなくても)まわりが拍手をしてくれること。
 等々によって、まるで自分が一一人前の歌手になった「かのような」気分を味わわせてくれることにあると思っています。
 翻って音楽の学習が、そんな 「かのような気分」や良い気分を十分堪能させてくれるものになっているでしょうか。
 「かのような気分」は第三者の下す「できた・できない」の評価とは別の、自分自身が気づく実感ですが、そんな「かのような気分」から生まれる自己肯定感(ぼくだってなかなかやるじやないか)は、それに続く活動に力強く働くエンジンとなるはずです。
 「できなければ楽しくない」ではなく、必要感が持てないから楽しくない、進んで身につけよう、自分のものにしよう、表に出そうという意欲が起きないのかも知れないととらえ直すだけで、音楽の授業が変わってくるのではないでしょうか。
「できる」が出発点なのではなく、「やってみたい」「できそうだ」「自分にとって意味がある」「楽しそうだ」という意欲や期待が出発点で、そうであればこそ自分の精一杯を発揮して益々よくなろうという学びに旅立つことができるのですから…。