◆はじめに◆
「21世紀の会」が発足以来10年を迎えた。この10年間は、教育界にとって大きな変革が求められ、今もその動きの真っ只中にある。この10年の間に起こった教育改革の基調は、生涯学習社会の実現に向けて学校の在り方を見直し、「前向きに生きる人間の育ち」を保障できるような、本来あるべき学校の姿に立ち戻ろうとするところにある。
それは学力を、従来の「学んだ結果としての力」から「学ぶ力」や「学ぼうとする力」へと広げてとらえようとする新しい学力観にも如実に示されている。また、2002年度からの施行をめざして示された新しい指導要領で新設された「総合的な学習」も、そのねらいを「学び方を身につけ」て「生き方を考える」こととしており、これまで一定の知識や価値を教え伝えていればよいとした偏った学校観からの脱却を迫るものとなっており、内容知(Knowing That)から方法知(Knowing How)への転換による能動的で主体的な人間の育成を求めている。すなわち、自己実現をめざしてよりよく生きようとする人間の育ちを保障することこそが、生涯学習社会における学校の役割であるととらえ、学校を離れ教師の手を離れた所でも人間がもともと持っている「知的好奇心」を発揮し学んでいけるような環境をつくりあげることこそ社会の責務であるとする基本的な考えに立っているのである。そのような「生きる力」の陶冶をめざす子どもの学びと育ちに、教科「音楽科」がどうかかわれるか、電子機器がその特性を生かしてどう寄与できるかについて考えるのが、この稿の目的である。
 ここで電子機器と呼んでいるのは、学校の音楽室で活用されることを待っているところのシンセサイザー、電子オルガン、電子ピアノ、児童伴奏機能付きのピアノ、コンピュータなどのMIDIを介して情報をやりとりできる機器群のことである。
授業が変わり、学習が変わり、教師が変わり、ひいては学校が変わる上で、これら電子機器の果たす役割はすこぶる大きいものがある。
 「総合的な学習の時代」の教科「音楽科」の在り方について考えながら、電子機器の特性を生かせる音楽の学習、電子機器の活用場面について考えていきたいと思っている。

1 生涯学習社会における学習

1-1 生涯学習とは
生涯学習について次のような意見を散見することがある。すなわち「変化の激しい社会の動きに対応するために、人は一生涯学び続けるべきだ。」とする考えである。
 しかし、この考えは生涯学習という概念を的確にとらえているとは言えない、と私は考えている。生涯学習とは、そのような強迫的な意味で言われているのではなく、もともと知りたがりで学びたがりである人間が、その知的好奇心や知的向上心を十分発揮しながら、自己実現に向けて幸せで充実した人生を送れるような「学んでよい社会」の実現を意図した中で語られる言葉だからである。
 ところで「学ぶ」という行為がJ・デューイの言うように「既知の世界から未知の世界への旅であり、その過程において数多くのことがらと出会い、その経験を通して自分自身をつくり変える営み」であるとすれば、それは「答え」を覚える行為ではない。さまざまな研究活動がそうであるように、答えのない問いを前に、主体的で科学的・文化的な追究を通して、自分自身より納得のいく「応え」を模索する行為こそ「学ぶ」ことの真の意味である。
 そのような「応え」を求めて探求活動を展開する中では、「すべて覚えておくのではなく、分析・解釈・生産・総合化・表現・説得などの生きて働く知恵」の育ちが期待できるし、自分にとって納得のいくよりよい解を見つけだしていく創造的な知性が育っていくであろうと思われる。
 そのような創造的な知性こそ、学校を離れ先生や親の手を離れた時に発揮される「自立した学び」のエンジンとしての自ら学び・自ら考える力であると考えられるのである。

1-2 指導観の転換
 学力については、次のように広げられた見方でとらえられている。
 ○ 基礎的知識や技能(記憶力)→学んだ力
 ○ 自ら学ぶ力や学び方(思考力)→学ぶ力
 ○ 問う心・やる気(意欲)→学ぼうとする力
 従来、学んだ結果としての学力が強調されてきた傾向があるが、「応え」を求めてなされる本来の「学び」においては、「学ぶ力」や「学ぼうとする力」としての学力こそ重視されるべきであろう。
 学習という概念には、「学ぶ(Study)」と「習う(Learn)」という異なる2つの要素が含まれている。日本では、学習を「手習い」や「おけいこ」と言い慣わしてきたように、どちらかと言えば教えてもらって習うことを学習としてとらえる傾向が強かった。
 しかし、自分なりの納得を求め、自分なりの夢の実現に向けてねばり強く取り組むことを意味する本来の学習では、むしろ自ら探り身につけていく「学び取り」こそ強調されるべきであり、そのようなことが可能になるような学習の仕組みこそめざされるべきであろう。すなわち、L型(Learn)の学習からS型(Study)の学習への転換である。
 また、私はこの転換にもう一つの意味を付加させたいと考えている。
 学習を語る時に「勉強」という言葉が日常的に使われるが、これは前へ前へと一方向に進む制度の時間の中で遂行されるものであるが、「学び」は行きつ戻りつして往還する時間において遂行される。さらに「勉強」は「終了」のスタンプで次の段階へと移行するが、「学び」は絶えず「始まり」を準備して次の段階へと推移する。
 つまり「勉強」は直線的(Linear)な学習であり、「学び」は螺旋的(Spiral)な学習であるという意味合いもこめて、L型の学習からS型の学習への転換を指摘したいのである。
 これまで私たちの活動の多くは、教授活動と言う言葉があてはまるように、「教える・伝える・習熟を図る」ことが中心であった。しかし、ここで見るように「学ぶ」ことに於いては、学習者である子ども自身が「探る・発見する・気づく・つくる」といった学習への主体的な動きをプロデュースすることが私たちの活動の基盤となる。子ども自身が受信型の学習から発信型の学習へと学習をつくり変えていけるように指導の在り方を転換すること、それが指導観の転換のなかみとして浮かび上がってくるし、そのように教師自身が意識を改革していくことが重要なのである。

1-3 学習を構想する
 子ども自身が「学習の主役は自分自身である」という意識を持って、よりよく自己をコントロールしながら、くじけずにねばり強く課題解決に取り組んでいけるようになることが私たちの願いである。
 それは『自分にとって大切な学習、自分に深くかかわる学習という認識をもって、心ゆくまで粘り強く取り組める学習環境の中で、トライ&エラーを積み重ね、自分なりの知の体系を構築していける学習』を通してこそ可能であると思われる。
 そのような学習を通して、音楽に直接触れ、音楽に働きかける経験を通してこそ、望ましい子どもの育ちにつながるはずである。
 いま「経験」と書いた。
 「経験すること」をドイツ語では「Erfahren」と表現しているが、もともとの意味は「旅をしながら探索すること」である。すなわち、『それまで慣れ親しんだ場を離れ、未知なる新しいものに立ち向かう行為』こそが経験のなかみであるが、その行為を通して「自分自身をつくり変えていくこと」「自分の中の知の体系を組み替えていくこと」が学習の柱とならなければならない。「旅」になぞらえて学習が語られる所以である。
 その旅を引き合いに出して言えば、従来の学習のありようは「ツアー」でしかなかったのではないか、というのが私の実感である。
 旗を持ったガイドの後をついて周り、ガイドの説明を熱心に聞き取り、大事だと指摘されるところを懸命に見て覚えて周るツアーは、子ども自身の感動や不思議、疑問や心の弾みを基盤とした内発的動機や探求心の発露とは無縁のものである。
 そこで私は、学習そのものを知的な冒険活動と位置づけ、同じ旅でも冒険的な旅、つまり「探検」を核とした学習活動を構想したいと考えているのである。
 「探検」の本質は,「未知の事態との遭遇,挑戦,闘い,克服の連続過程」にあると言える。そして、「探検」ではその過程で,未知の事態と遭遇し,自らの智恵と腕とを働かせて挑み,闘い,そして克服するという経験を積み重ねて,「隊員」がよりたくましく成長することが期待できる。
 つまり,「探検」を通じて,自分の智恵と腕に対する自信を深め,さらに次の「探検」への意欲を高めることにつながるのである。
 そのように学習活動を「探検」という概念でとらえると,「子どもたちの学習活動を構想する」ための観点が明確になってくる。
 子どもの知的好奇心や知的冒険心を刺激し、しかもそれが「自分のしたかったこと」「自分にとって意味のあること」「おもしろいこと」として意識され、挑戦し克服しようとする動きが生じるような学習を構想できれば、よりたくましい「学び方」を身につけた子どもの育ちに貢献できると思われるからである。
それは教科「音楽科」の学習を構想する上でも同じである。

2 音楽の学習

2-1 「生きる力」と音楽の学習
 新しい指導要領は、完全学校週5日制のもとで、ゆとりの中で特色ある教育活動を展開
し、子どもたち一人一人の「生きる力」を培っていくことを基本的なねらいとしている。
 「生きる力」とは、単なる能力としての「力」を指すのではなく、自分の人生を切り拓き、よりよく築き上げようとする「意志や意欲」、よいものに向かおうする「志向や構え」も含めた概念としてとらえるのが妥当であり、文部省の言う「それはZest for Living(生きる妙味)である。」からも窺える。
 そこでは、まず何よりも自分自身が「生きる主体」として創造的に文化に参加したり、自分を取り巻く社会に能動的に働きかけたりして自分の人生を積極的につくり上げ、自己実現が図れるような人間の育ちが求められていると言ってよい。
 自分が自分の行動の主役となって、積極的・能動的に「生きる」ことに価値を見いだす社会がこれからの社会であると考えられるが、中でも自分を外に向かって押し出していく「自己表現活動」は益々その意味を大きくして行くであろう。
 インターネット上で、ホームページを作成・公開し、多くの人々に自分の考えや行為を
見てもらおう、わかってもらおうとする人は多いが、これなどもその顕著な表れであろうし、パソコン通信のネット上に自分のつくった音楽を登録しておいて、多くの人々に聞いてもらおうとするのもその表れであろう。
 そのような自己表出の欲求は、単に表現する活動のみならず、表現を支える感性の働き(よさに気づき、味わう感覚)に深くかかわると私は考えている。
 藤岡は、次のように述べている。

 自己との関係で体制化されている「学びの場」は
 いつも学習の必要性や必然性と結びついている。
           〜中略〜
 「自分の考えをわかってもらいたいと切実に感じている」文脈
 では自然に創造的になったり、論理的になったり、批判的に吟味
 したり「してしまう」のである。


 自分の行いを見つめるメタ認知の構えは、自ずと感性の働きを伴っており、選択や価値判断、想像力などの創造性の育ちにつながるであろうし、そのことによって情操(よさに向かおうとする感覚)の育ちにつながるはずである。
 教科「音楽科」は、そのような「創造的に音や音楽に働きかける活動」によって、生涯
にわたって音楽とかかわり音楽に親しんでいける人間を育成し、自己実現をめざして豊かな人生を歩んでいける人間を育んでいける大切な作用を担っているのである。
 従来、音楽科では「うまい表現」「よく訓練された表現」を求めて、教授活動を展開す
る傾向があった。
 かつて佐野は次のように指摘した。

  子どもの個性を生かした創造的な音楽学習へ結びつけるために、表現活動を、単に上手で的確な表現
をめざす活動としてとらえるのでなく、子ども一人ひとりが音楽する自己の意味に気づき、自己を変革し、
自己を実現していく過程としてとらえる必要があろう。
  そして、いずれの場合でも、子どもが主体的に表現しかつその表現を受けとめ享受できる場を
準備、設定することが音楽教師の重要な課題となる。


この指摘は、ずいぶん昔になされたものであるが、指摘の内容そのものは今に生きる核心をついたものであり、その当時から現在進行中の教育改革への動きが兆しを見せていたことに注目すべきである。
 そのような音楽の学習を組織できてはじめて、「生きる力」の育ちに寄与できる「生きた経験の場」としての音楽の授業となるであろうし、それが生涯学習時代、そして総合学習時代の音楽科のめざす姿として認識されなければならないだろうと私は考えている。

2-2  参加を後回しにしない学習
 私はかつてこのように書いたことがある。

  一人ひとりの子どもが、自己を意識しながら、そして自分が参加していることの意味を感じながら取り組むことを通して、音や音楽に自分なりの意味づけや価値づけをしていく活動、自己の中に音楽の意味を組織し直していく活動が音楽の学習である。

 私たちは音楽を愛好し、進んで音楽のよさを味わい触れつづけていこうとする子どもたちを育てたいと願っている。そのためには何より音楽にかかわっていける「自信と勇気」を獲得することがまず大切になるはずである。
すなわち、音や音楽で自分の何事かを伝えられるということ、またそのことによって自分が外界の変化の源となれることの喜びや成就感による効力感の高まりを保障すること、さらにそのことによって「自分が音楽する意味」を感じ・わかり、自己表現の力を伸ばそうとする意欲(やる気・やれる気)が持てるような学習を仕組むことができるかどうかが正念場となるだろうと思われるのである。
 そのためには、音や音楽に「直接」触れ、創造に参加し、体験を通して学び取る活動の大切さが浮かびあがってくるはずで、そのような具体的な状況の中でなければ「自分にとって意味のある」学習を仕組むことに無理があることを改めて認識したいのである。
 佐伯*1は、『「文化」とは、本質的に「わかりあい」であり、そこには参加する資格などはない、つまり能力の優劣や有無は無関係で子どもも大人も全てが等しく参加しており、さらに深く参加できるものである。』という主張を前提として、学校とは『文化に参加しつつ、文化への参加の仕方を学べる場』であると述べている。
 これまで、学校は「文化への参加」に先立って、参加するために「文化について習う」ことが大事だとされ、まず勉強することが優先されてきた。しかし、「参加」を切り離した学習は、子どもにとって意味のある文化とはならない。
それは加藤*2の次のような指摘からも言える。

 「子どもは、個性的、創造的な音楽との関り合いを通して、音楽という文化現象により深く近づくことができる」あるいは「個性的、創造的な関り合いなしには、音楽が子ども自身にとって意味のある文化とはならない。」という指摘は重要である。


私たちは、音楽という文化に参加することを活動意識の柱とした学習活動を仕組み、その中で体験的に「音楽のよさ」や「音楽へのかかわり方」「音楽の意味」などについて学び取れるようにしたいものである。今、「体験的な活動の重視」ということが言われているが、それは単に自分の体を使って実際にやってみるというだけの意味ではない。
「参加する」という文脈の中で語られていることだ、ということに着目せねばならない。 そのように、参加を後回しにしない音楽の学習をぜひ構想したいものであるし、それがなければ、どのような新しい楽器や教育機器を教室に持ち込もうとも、子どもにとって意味のある学習とはならないことを銘記したいものである。

3 電子機器の導入

3-1電子機器の特性
 シンセサイザーをはじめとする電子機器の特性を列挙すると次のようであろう。
  ○固有な音色を持たない
  ○多様な音色を駆使した表現が可能である
  ○単一の奏法で多様な楽器音による演奏が可能である
  ○さまざまなパラメータを操作し、音楽を作成・編集することが可能である
  ○音楽の種々の情報を目と耳で確かめることが可能である
  ○鍵盤楽器の演奏技能から自由である
  ○演奏データ(音楽データ)の管理が容易である
  ○時間と空間に縛られない取り組みが可能である 
 これらの特性は、コンピュータによってより顕著なものとなる。
 つまり、楽器の奏法に習熟しているかどうかにかかわりなく、誰でも音楽の情報を操作し、音楽づくりに取り組むことができるし、MIDIを介することで、他の電子機器と同期させたり、演奏情報をやりとりしたりできるのである。
 これらのことによって、次のような効果が期待できるであろう。
 

学習内容を『技術の指導』から『音楽への参加の呼びかけ』へと 転換できる
「つくる・ためす」などの創造的な学習を無理なく仕組むことができる
自分の夢や希望の実現に向けた活動としての学習(個性を生かした学習)を仕組むことができる

 
 電子機器は、情報機器である。音楽をつくる上での種々の情報を選択・操作することだけで、音楽づくりに取り組むことが可能であり、それゆえ、演奏技能の優劣にかかわりなく誰にでも音楽への参加の余地があるし、演奏が得意な子どもにも音楽を「見直す」チャンスを与えてくれるのである。

3-2音楽をつくる
 音楽に創造的に取り組むことは端的に言えば「音楽をつくる」ことであると言えるが、それは単に「ふしづくり」などの作曲を指してはいない。
 音楽の成立する要件を構造的に表してみると次のようになるであろう。
【音楽の成立する要件】*1
SOUND
(TONE)


TIMBRE DURATION PITCH VOLUME
(音質) (持続時間)
TEMPO


TONE COLOR RYTHM MELODY HARMONY DYNAMICS

TEXTURE

FORM
(MUSIC)

このように見ると、音楽は、『ランダムな音をそのパラメータを有機的に組織する』ことで意味のあるものとして成立しているのだということが明確になってくる。
そして、このように考えると、音楽を成立させているすべての過程に、人間の創造的行動の関与する機会があることがわかる。重要なのは、その過程で、どんな音質を、どんなリズムを、どのピッチを、どんな強さを、どんな音色を選択するかは、各人の欲求によるのであり、意味のある音を各人の表したいイメージのために構成することで音による自己実現が直截に行える可能性が見えてくることである。それが、音楽を「つくる」活動であると考えているが、これまでは、演奏表現の技術に束縛され、それらの選択や操作による表現活動は困難に思われていたが、電子機器は誰にでもそのことを開放し、自在に音楽を「デザイン」できる機会が出現したのである。

4 電子機器活用の場面
  
上のように見てみると、活用の方法や活用場面はいろいろと思い浮かぶであろう。教えるのではなく、電子機器を活用した参加型・発信型の学習を通して、音楽について「考えたり」「発見したり」「つくったり」できる学べる学習を構想するのである。
たとえば、学級のホームページに乗せる自己紹介のページを飾る短いBGMを自分の手でつくる学習などはどうだろうか。音楽の学習が音楽の授業だけで終わらず、外の世界や自分の生活に開かれ、自分にかかわったおもしろい活動として問い続けることが可能だ。
気に入ったものが後でできれば、どんどん更新していけるので、これで終わりということはないからである。常に「自分にとって納得できるよいもの」をめざせるのだ。
もしかすると、そのホームページを覗いた誰かから、思いがけないアドバイスやアイディアがもらえて、さらによりよいものにしていけるかも知れない。
 楽曲は、新規に作曲してもよいし、既習の楽曲(歌唱曲や鑑賞曲)に手を加えたものでもよい。それらの曲のデータがMIDIファイルとして管理されていれば、自分のつくってみたい曲を読み込んで手を加えて新しい命を吹き込むことができる。
 つくった曲をMIDIファイルで保存しておけば、ピアノプレーヤーやSDX3000などのシンセサイザー、あるいはSE7000やSE4000などの指導用オルガンで読み込んで演奏可能であるから、それに合わせて歌うことも他の楽器を演奏して一人アンサンブルを楽しむことだって可能である。もちろん、「伴奏くん」などの機器で読み込んでも同様のことができるから、ホームページづくりの活動ではなく、器楽の個人練習や合唱のパート練習などでも楽しい活用の場面をつくることができる。
 そのようなことができるということは、たとえば「自分の演奏したい曲」の伴奏部分を自分がコンピュータなどを利用してつくり、つくったオーケストラの伴奏に合わせて演奏できる「カラオケづくり」も可能であるということである。
 オーケストラの伴奏は、子どもがつくるばかりではなく、先生がつくって学習に供することも考えられるだろう。
 私は、かつて中学1年生に『ソラシド名曲集をつくろう』と呼びかけ、「楽しかった」「もっとしよう」という声を多く聞くことができた経験がある。
 まだ慣れないアルトリコーダーでも自分の楽器として親しんでもらえたらと思って考えた題材であるが、それは私がつくったオーケストラの伴奏に合わせて演奏できるような、「ソ・ラ・シ・ド」の四音だけによるふしをつくり、できた曲をコンピュータに合わせて演奏し、確かめたり試したりしながら遊んでみよう、というものであった。
 電子機器は、子どもだけでなく教師が授業づくりに活用しても楽しいのである。
 それはコンピュータでなくてもよい。SDX3000などのシンセサイザー、SE7000などの指導用オルガンには、シーケンサーの機能もついているので、それを利用して音楽をつくり、フロッピー・ディスクに保存することでも実現可能である。
 また、キーボードやマウスを使って入力する作業は時間がかかって大変だ、ということであれば、スキャナと呼ばれる画像読みとりの機器を使って楽譜をコンピュータに読み込み、それを音楽データに変えてくれるソフトもある。これもいったんMIDIファイルとして保存してしまえば、後でそのデータに手を加えて新たなパートを加えたり、音色を変えたりテンポを変えたりして自分の「望む音楽」に近づけていくことができる。
 話を元に戻そう。
これはホームページづくりに参加するということでなくてもよいだろう。
 学校放送で自分たちのつくった曲を放送して全校の友達に聞いてもらおうとか総合学習で調査したことをクラスでプレゼンテーションする際のBGMづくり、学習の記録としてまとめたビデオテープづくりにかかわった活動などでもよい。
 また、音楽集会や文化祭などでの発表をめざした活動などにも電子機器は大いに活躍できそうである。
 学校生活を自分たちの手でつくるという意識を持って音楽づくりをする中で、さまざまなことを学び取っていけると期待しているからである。すなわち、具体的な「参加」の状況の中で、創造性を働かせる活動を通して、生きた知恵としての音楽へのかかわり方について学んでいけるであろうと考えているのである。
 そのように、活用の場面はアイディア次第でどんどんふくらんでいくが、「学ばせたいことを学びたいことに変える」上でも電子機器は効果的であるし、子ども自身が学習をつくりあげていく上でも大いに効果的であると考えているのである。
 「どのように活用したらよいか」と問うではなく、自分が「こんなことをしてみたらおもしろそうだ」「やりがいがありそうだ」と思えるように、まずは先生自身が挑戦してみることこそ大切なのではないだろうか。

◆終わりに◆
 コンピュータを核にすることで、自分のめざす表現に近づくために「音楽のさまざまな情報」を取捨選択して何が必要かを見極めて手を加え、新しい価値付けをしていく活動を通して、自分にとっての音楽の意味を考えたり見つけたりしていくことが可能になるし、それは歌ったり演奏したりする表現活動や、聴いてそのよさに気づいたり味わったりする鑑賞活動にも生きて働く力となるであろうと私は考えている。
 それは一つには、電子機器を活用することで「音楽のつくり手」「演奏者」「聴き手」になった「かのような」なりきる感覚を味わい、そのことで音楽に働きかける自信や勇気あるいは効力予期としての「やれる気」の獲得が可能になるからだと思われる。
 自分の世界の広がりや力の広がりを実感することで、益々好奇心や向上心が刺激され、「こうしてみたらどうだろう」「こんなこともできるだろうか」といった探検の旅に出かけることが可能になるのは、歌う技術や鍵盤楽器の演奏技能にかかわりなく、コンピュータやシンセサイザーの力を借りて、しかも情報の操作のみで「音楽に働きかけること」ができるのだ、という「自己の可能性の広がり」への期待かも知れない。
そしてもう一つには、そのような過程を経て「つくる」ことを経験すれば、「自分ならこうする」「こんな良い方法があったのか」「自分には思いつかなかった」などの共感や反省を「ついついしてしまい」ながら、創造的・想像的に音楽に触れる構えが身につくからだと思われるのである。
そしてそのような力や構えは、それだけでは終わらずに歌ったり楽器を演奏したりする具体的な表現活動の中でも生きて働くであろうし、文化の「創造」に取り組む姿勢は音楽に限らずさまざまな生活場面でも発揮されるに違いないのである。
 それが音楽科のめざすべき「生きる力」の育ちということではないだろうかと思われてならない。