始業式や入学式も無事に済んで、平成11年度がスタートしました。
 これから1年間、よろしくお願いいたします。
さて、この1年間は、2002年からの新学習指導要領に基づく新しい教育課程による教育活動の展開に向けた準備期間、来年度は充実期間になるだろうと私は考えています。
 短距離走で言えば、今年は走者がスタートライン後方で100メートルのランニングをどうするかイメージしている状況、来年度は『位置について』の号令でラインに並ぶ状況になぞらえて表現することができるでしょう。
 いきなり走り出す前に、100メートルをどう走るか、そのためにいま呼吸をどう整えるか、体をどうほぐすか、走りのイメージをどう思い描くかはとても大切なことです。
 それがこの1年間だと思われるのです。
 新学習指導要領の理念は、何と言っても『学校の再生』です。
明治以来、変わりなく続いてきた「教え・教えられる場」としての学校から、「学び取り育つ」場としての学校への転換が教育改革の命題なのです。
それは、学校を変える、あるいは学校が変わるというとらえに立てば『変革』と表現できるでしょうが、『本来、学びとはそうしたものだ』ととらえる考え方に立てば、あるべき姿に立ち戻ること、つまり『再生』だと言うことができるでしょう。
単に人類の文化遺産を効率的に教え・伝えることでは学校はたちいかないし、その方法を論じてみたところでついに子どものものにはなりにくいだろうという従来の学校に対する強い反省から教育改革はスタートしています。
1980年代なかばから始まったその動きの底にあるのは、他ならない自分自身の成長に向けて自己を確立し、自立した生き方をめざしていけるような資質や能力こそ、生涯学習社会で「生きて働く力」となるはずだという基本的なとらえでした。
 そして、そのような考えに基づく社会の要請はますます強まり、現在の教育改革につながり、先だって告示された新学習指導要領に結実してようやくその方向づけがなされたところだと言ってよいでしょう。
 方向づけはされましたが、その具体的な実践の道筋はそれぞれの学校にまかされていて、まさにこれからの数年が学校現場における正念場です。
 学校の再生に向けた転換の視点の柱となるのは、『学習者のニーズに立ったカリキュラム開発』と言ってよいだろうと私は思っています。
 いつからか学校は、大人の論理で「いま必要だと思われること」を「将来も必要なこと」と規定して、将来子どもたちが困らないように「あらかじめ」伝えておく作用を、その中心的な活動とするようになってしまい、肝腎の学ぶ者(子ども)の学びへの欲求、知ることへの欲求を無視したり度外視したりして行われるようになってしまったようです。
 本来、人間は旺盛な知的好奇心の持ち主であるという認識から目をそらし、学ばせたいことを教え・伝え・個々の子どもの内に蓄えさせることを主眼としてきたのが学校だと言っても過言ではないかも知れません。
 そこでは、「主体性」も「意欲」も「がんばり」も教える側の都合で論じられることが多く、単に有効な手段として受け止められているような傾向すらありました。
 自分が「教えやすい」ように『もっとやる気を持て』と子どもに要求したり、学ばせたいことがより効率的に伝わるだろうから『もっと主体的になれ』と働きかけたりする、といった具合です。
この数年間の間に、キーワードと見なされる多くの言葉で教育が語られてきましたが、その結果、言葉による理解はされていても具体的には授業の内容は変わっていないという不思議な現象が起きています。たとえば、主体性を語る先生が「それは子どもを前面に出して、活動させることだ」などと言っている言葉に象徴されます。
 『前面に出す』にしても『活動させる』にしても、その主体は指導する「先生」であって、子どもは「出させられ」「活動させられ」る客体でしかありません。
根っこの部分が変わっていないのに、表層的な理解で対応しようとすると、このようなちぐはぐな現象が起きてしまうのではないかと私は思っています。
 学校の主役は学ぶ主体としての自分たち子どもなのだ、とまずもって子ども自身が実感できる学校。
 学ぶ喜びや楽しさを味わい、その結果、困難を克服する努力を惜しまずに悩み苦しむことも喜びであり、自分自身をひらき広げていけるうれしい体験だと感じながら進んでものごとに取り組んでいけるような学校。
そのようなやりがいのある体験を通して、豊かに感性や知性を自ら磨きのばしていける学校。
それがいま求められていると言ってよいでしょうし、その理解ができてはじめて学校が生まれ変わることができるだろうというのは多くの研究者の指摘するところです。
 大きな変革へのスタート・ラインに立とうとしているこの一年間、この職員室だよりを通して先生方とさまざまな問題について考えてみたいと考えています。
どうぞよろしくお願いいたします。


 少し古い話題になりますが、数日前にテレビや新聞で立川談志の独演会で酒に酔って居眠りをしてしまい、会場の外に出されてしまった男性が起こしていた裁判に負けてしまった、という報道がにぎやかにされていました。
というのは正確ではないですね。
 そのときのトーンは、『男性が負けた』のではなく『談志側が勝訴した』という談志側に立った「やったね」「よかったね」のニュアンスが濃い報道ぶりに思われたからです。
 そのニュースを見ながら、釈然としない思いを持ったのは私だけでしょうか。
 本当にその審判でよかったのかなあ、としっくりこない漠然とした違和感に未だにとらわれているのですが、先生方はいかがですか?
 だって、談志はれっきとした『噺家』でしょう?
眠ってしまった男性にすれば、談志のおもしろい落語を楽しみに会場に出向いたのだろうと思われます。(勝手な想像ですが・・・)
 ひょっとしたら、せっかく楽しみにしていたのにかかわらず、幕が開いてみたら期待したほどおもしろい内容ではなかった。そこでお酒の働きも手伝ってついつい睡魔に襲われて眠ってしまった、ということだって考えられますよね。
自分の話のつまらなさを棚に上げて、お客様である聴衆を責めて会場から追い出すなんて、あってよい話ではないだろうというのが率直な感想で、責められるべきはむしろ談志の方じゃないの?と素朴に思っていたのですが・・・。
仮に、授業中によそみをしたり、居眠りをしたりする子がいたとしても、先生方はその子を責めたりはしないでしょう?
 おそらく責める前に、自分の授業の何がその子に『飽き』を起こさせているのか、自分の準備のどこに手落ちがあったのか、集中させることのできなかった原因は何か、といったことについて、まず反省するのではないでしょうか。
 私は、長いこと音楽にかかわってきました。
子どもたちの演奏する音楽会などでは、よく「お互いに静かに聴き合いましょう」という指示や説明がなされますが、私はそのような注意をすることすら子どもに対して失礼だろうと思っています。
なぜなら、『よい演奏』をすれば「静かに」などと言わなくても、低学年や幼稚園の子どもですら一心に耳をそばだてて懸命に聴き入ってしまう様子を幾度となく目にしているからです。
授業だって、子ども一人一人が『ひとごとではない』と思えるような投げかけや手だてがなされていれば、あるいは心に響く話であれば、また共感できるような話題であれば、静かに聴こうという指示や指導は不要ですよね。
 それがプロとしての私たちのよって立つところでしょう?
それは決して小手先のテクニックや磨かれた『話術』によってではなく、子どもを見る目から生まれてくるところの構えにかかわるものだろうと思っています。
なぜなら、訥々とした語り口でも雄弁に子どもたちに訴えることのできる話はできるからですが、立川談志の心のどこかに「聴かせてやる」という驕りがあったとすれば、どんなに『上手に』話したとしても聴衆を沸かせることなどできないだろうし、楽しませることなどできないはずだと思っているからです。
いやしくも『噺』のプロであれば、会場に詰めかけた今日のお客さんたちは、どういう年齢層か、どういう話題を好みそうか、どんなことに興味を示すか、について話のスタートのほんの数分でとらえ、どうくすぐるかの企てをとっさに立てるはずです。
いわゆる『つかみ』です。
そのことにしくじってしまった談志が、逆についつい居眠りをした男性を責め「やる気がなくなった」と高座を降りてしまうなどもってのほか。
そう言えば、私が中学生の頃にそういう先生がいないでもありませんでした。
「みんなが一生懸命やろうとしないから、先生も一生懸命教えようという気が起きません。」と自分の指導のまずさやつたなさを高い高い棚に上げて、授業を放棄してしまうというとんでもない英語の先生に教わったことを、いま思い出しました。
 いま振り返って考えてみれば、それは自分の準備不足や考察不足、教材研究不足のために起きてしまった「授業の失敗」に対するいらだちをどこにぶつけてよいかわからず、ついつい子どもにその矛先を向けてしまったのではないかと思われてなりません。
子どもは、先生のためにがんばるわけではありません。それは落語家の顔を立てるために真剣に一言ももらさず聴くぞ、という聴衆などいないのと同じです。
お客さんは噺を楽しく聴いて、心から笑いおもしろがりたいから演芸会場に足を運ぶのですし、子どもたちは学びたい、学んで自分の世界の広がりを味わいたいし楽しみたいと思うから学校に来るのです。
眠ってしまうお客さんを責める前に、眠りを吹き飛ばすような話をするのが落語家の仕事なのに、この裁判はどうなっているのでしょうか。
大勢の弟子をかかえ指導している『噺家のプロ』であるなら、自分の話芸を楽しみに来てくださる聴衆を責めてはならないはずですし、自分の失敗の原因を他に求めて「勝った、勝った。よかったね。」とはしゃいでしまっては誇りも何もあったものではないでしょう。たとえ裁判に勝ったとしても、本人も心に傷を負ってしまっているのではないでしょうか。
ひるがえって私たちは、子どもの学びへの欲求を満たし、知ることの快感、世界が広がることのうれしさや楽しさを保障するために日々活動していますが、そのためにはまず、この立川談志に見られるような『聴かせてやる』という驕りを持たず、子どもをあるがままにとらえ、自分の準備を用意周到に整えることから始めることが何より大事なのではないかなあ、とつくづく考えさせられた次第です。



 毎年のことながら、連休になるとテレビやラジオで道路や鉄道の混雑状況が放送され、旅行疲れの家族の表情がクローズアップされます。
 どうやら日本では休暇と旅行がワンセットのようで、休みが取れたりすると「どこかに出かけなきゃ」という強迫観念めいた思いに突き動かされてたくさんの人があちこちに出かけるようです。
 ずいぶん前に堺屋太一がこんなことを書いていました。

         【したいことがわからない】
 経済の成長で日本人の「可処分所得」は随分増えたが、幸せを感じる第二の要素
 である「長期可処分時間」は容易に伸びない。
 そんな中では、たった一週間でも長く休みが続くゴールデンウィークは、貴重な
 「長期可処分時間」である。
 ところで、この「長期可処分時間」、本当に「したいこと」ができただろうか。
 これは結構難しい問題だ。
 経済的な理由や各種の用件で、「したいこと」ができなかったという人は仕方が
 ない。問題なのは、暇も金もありながら、何がしたいのか分からなかった人や、
 したいことをやったつもりなのに楽しくなかった、という不幸な人である。

 普段は忙しくて行けそうにないある場所に行きたくて、連休で休みが取れたので行ってこよう、という明確な意志が根底にあって、『ようやく念願が叶った。行けてよかった。』というのであれば幸せでしょうが、ご近所は皆さん旅行に出かけられたようだから、うちでもどこかに出かけなければ、というような強迫観念に駆られて出かけ『これが本当に自分のしたかったことだったのだろうか?』と疑問に思うのであれば、ちょっと不幸せですよね。
 でも先生方はきっと『自分のしたいこと』を満たすような充実した連休をお過ごしになられたことと思います。
 閑話休題、このような連休を迎えるといつも思うのですが、どうも私たち日本人は休暇とかレジャーを『〜しなくてよい時間』ととらえる傾向がありそうです。
 普段は忙しいけれども、仕事を離れてのんびりできる時間。
しなくてはならないことから解放される時間。
等々といった具合です。
 学校週5日制が話題になった当時、議論の中心は『受け皿をどうするか』といったことで、これも余分な時間があると「〜しなくてよい」という気分から子どもたちは有効な過ごし方をしなくなってしまうだろう。学校で過ごすことの変わりに何か有効な生活面での受け皿を設定しておかなければ無駄に過ごしてしまいそうで心配だ。という気持ちの表れではなかったかと思われます。
 どうやら人間を怠け者とする見方をベースにしているのではないか、と私には思われてならないのですが、先生方はいかがでしょうか。
生涯学習社会の実現に向けた今の学校改革の基調となっているのは、そういう人間観ではなく、人間とはもとと好奇心旺盛な『学びたがり』『知りたがり』であるという見方です。ですから、学びたいときにはいつでも(若かろうが老人だろうが)学べる、学びたいことがあればその機会や場を社会全体で保障しよう、という理念に立っているのです。
 生涯学習について論じている文章の中には、変化の大きい社会の動きについていくためには、生涯にわたって勉強することが大切だ、という論調が目につくのですが、その意味で捉え方が違っているとしか言いようがありません。
 生涯学習とは、そのような『〜しなければならない』という考えをベースにしたものではなく、逆に学びたい者の意志や意欲を尊重しよう、学ぶチャンスを社会が準備してやりがいや生きがいの感じられる社会にしていこうという考え方なのです。
 週末には今とても関心のある絵手紙の制作の続きができるぞ、楽しみだ。とか自分のライフワークにしようとしている万葉仮名と韓国語のかかわりについての調査の時間がとれそうでうれしい。とか家の花壇づくりが待ち遠しい。といった具合に自分のしたいことのために自分の時間として楽しく使い、したかったことが満たされる社会が『生涯学習社会』なのです。
 そのような社会で生涯にわたって生き生きと楽しく幸せに生活していけるような基礎を家庭や学校で培うことが望まれていると言ってよいでしょうが、そのためにはまず可処分時間としての『自分の時間(余暇)』を『〜しなくてよい時間』『〜から解放される時間』としてではなく『〜してよい時間』ととらえられるような教育の姿勢・構えが大切になるのではないかと考えています。
『〜してよい』ととらえられる背景には、当然『〜したい』という欲求があるはずですが、それが生じ意識されるためには休暇を迎えるまでの間にその子が(その人が)どのような生活や学習をしていたかということが大きくかかわってくるでしょう。
 それまでの生活の中で、深い関心事が見つかった、とか問題点に気づいた、とか放っておけない(できれば今すぐにでも解決したい)ズレが感じられた、おもしろそうな話題にひきつけられたということがあれば、体がいくつあっても足りないほどの充実したわくわく・どきどきの余暇の時間を過ごせるはずなのです。
なぜなら人間はもともと、そのような知的好奇心に満ちあふれた存在だからです。
『学びたがり』で『知りたがり』『したがり』である人間が、その傾向を思い切り発揮しながら生活していけるように、週末やゴールデンウィークなどの長期休暇を『〜してよい時間』ととらえられるようになれば、かつての受け皿論議など無用でしょう。
そして現に、土・日の休みに地域や社会で何かイベントを組んで、子どもたちが無駄に時間を過ごしたり、時間を悪用したりしないようにしよう、などといった意味があるとは思えないような議論はもう聞かれないようです。それはとてもよいことだと思っていますが、そのような論議が復活しないようにするためには『〜してよい時間』と思えるような教育の再認識がすこぶる大切なのではないかと体を休めながら思いました。



 学校の再生に向けて、もっとも注目を集めているのは『総合的な学習の時間』の設置だと言えるでしょう。
 もうこの頃では、『合科的な学習』と『総合的な学習』を混同してとらえてしまうむきはないようですが、つい数年前まではその違いすら明確にとらえられていない傾向がありました。 
ご承知のように『合科』は、あくまでも教科の論理をベースにしています。そして一方の『総合・・』は、子どもの生活の論理をベースにしようとしています。
 教科の論理をベースにしているということは、『ある一定の知識や技術』を教え・伝えることをまず優先させます。(少なくても従来の教科観で言えば、という条件付きで)
 これに対して、子どもの生活の論理をベースにするということは、子どもの生活から湧き起こる子どもらしい「不思議」「感動」「疑問」「驚き」を起点とし、自ら見つけだした課題や自分なりの解決方法などを尊重した学習になる、つまり学習者が主役として学習をつくりあげていくことが第一義として期待されます。
 その意味で『合科』とはその質もめざす方向もまったく異なるものだと言えます。
 しかし、教科の学習であっても、子どもの内発的な意欲が尊重され、課題や方法を選択したり決定したりすることを重視することがもともと大切であることは疑いようがありません。ですから、本来の学習観や教科観、つまり子どもがイニシャティブをとって学習を自らつくりあげていくことを尊重する見方に立てば、『合科・・』も『教科』も『総合・・』も何ら変わりがないのだ、ということができます。
 しかし従来、教科の学習においては、『学ぶ(Study)』ことよりも『習う(Learn)』ことにかたよりがちで、そこでは自主性や主体性も「先生の教えに素直に従って、習い身につけること」を基調としたいわば『積極的な受容性』ともとれる言われ方をしていたように思われます。
 他ならない自分にとって意味のある学習として、そして『ヒトゴトではない』あるいは『タダゴトではない』と思える疑問や課題の解消・解決に向けて、まさに放っておけない切実な探求活動をついつい起こしたくなったときに、主体的な学びが始まると言ってよいでしょうし、それこそが主体的な学習活動であると言ってよいでしょう。
 私は、その間の事情をこんな例で表現しています。
 学習活動を旅に譬えて、本来の学びとは『ツアーではなく探検』なのだから、そのあるべき姿に戻そうではありませんか、と。
 『ツアー』とは、旗を持ったガイドの後をぞろぞろとついて歩いて、ガイドの「皆さん、ここにある○○はこれこれしかじかのものです。とてもよいもの(大切なこと)ですから、よく見て覚えておきましょう」という説明を聞いて回ることが主で、自分の見たいこと、自分が行きたいところは後回しにしてもっぱらガイドの指示に従うことが求められる旅のことをイメージして表現しています。
 一方『探検』は、秘宝探しに向けて地図を自分で整え、予測のつかない危険や妨害に備えてどんなアイテムが必要かを自ら見極め準備し、多少の困難にも打ち克って自らの旅をつくりあげる過程で自己成長していく体験の旅をイメージしています。
 そこでは、目的地にたどり着ける保障もないかわりに、未知の事態との遭遇と克服による『他ならない自分自身で獲得した知恵や技術』を核とした『生きる上での主体性や力』の育ちが期待できそうです。
 仮に秘宝が獲得できなかったとか目的地にたどり着けなかったとしても、その旅の過程で身についた、探索の仕方、戦い方、地図の見方、困難への対処の仕方、同じ旅を続けるパーティーとの協同の仕方などは、かけがえのない知恵、転移可能な力や構えとして生きて働くことが期待できます。
 総合的な学習で最も強調したいのは、そこなのです。
 知的な冒険が可能な活動の時間として、そして自分自身が喉から手が出るほどに欲しているものを目指せる時間として構想できるかどうかが正念場だと言えます。
 私たちが総合的な学習について研究実践を始めたのが、昭和60年。
 それは現行の指導要領を策定していた時期と重なっていますが、実践をもとにしたさまざまな提案の結果、現行の指導要領に具体化されたのが生活科でした。
 言ってみれば、低学年に押し込められてしまった形ですが、本来の総合学習の趣旨からは首を傾げたくなってしまうものに様変わりしてしまいました。
 どこの学校でも「○○まつり」が行われ、どこの学校でも市販の同じような「生活科教材」を使った学習活動が展開されるなど、お仕着せのマニュアルに沿った活動が展開されるようになってしまったからです。
 総合学習の時間にはマニュアルはありませんし要りません。
 それぞれの学校や児童・生徒の独自性が発揮されるべきだし、その意味で各学校にまかされていて、本来総合的な学習とはそうあるべきなのです。なぜなら、一人一人の子どもがまさに自らの手でつくりあげていく創造的な学習をねらっているからです。
 そこで主体性や創造性を発揮したくなるような学習環境を整え、時には地図になり時には羅針盤になり、またある時には子どもに問い返す障壁となったりして学習の自立を促す支援者としての教師の位置づけが重要になってくるのです。
 子どもを連れ回す『ガイド』ではなく『地図』や『手引き』、あるいは『学びのモデル』として、未知の事態に共に立ち向かう少し先輩の同伴者になれるかどうかが総合的な学習成立の鍵となるのです。
 そのような総合学習の実践を積み重ねることで期待できるのは、私たちの学習観が変わるだろうということです。つまり教科の学習も自然と総合的な学習のあり方に傾いていくだろうということです。総合的な学習をやればやるほど「私たちはなんて不自然な学習を子どもたちに強いてきたことか」という自省の念がわき起こってくるというのは、私たちもそうでしたし、いま実践研究をしている学校でもよく聞かれる言葉です。
子どもが「わくわく・どきどき」しながら展開していけるように、私たちに何ができるかが問われていると言えますが、私たちにとっても学校がますますおもしろくなりそうだと期待を感じさせてくれる動きではありませんか。



 どこの地区の研修会に行っても新しく設置されようとしている『総合的な学習の時間』に対する戸惑いが感じられ、特に「教えること」に力点を置いてきた中学校の先生方にその傾向が強いようです。
研修の折にもお話ししたように、この教育改革は「学び手の主体性」を重視し、いっそうそれを伸ばしていくことを通して生涯学習社会で「生きて働く力」を育て、「生きる力」の育ちを保障しようという考えをベースとしています。
 そこで、自分なりの学びを切り拓いていけるような自由な時間としての『総合的な学習の時間』が設置されたのだ、ということをまずもって理解し、その視点から子どもにとっての望ましい学び取りがどのようなものかを考察し、構想していくことで混乱や戸惑いから解放されるのではないかと考えています。
 子どもたちが自分の問題として、関心を軸に進んで取り組み、ものごとに積極的に働きかけ、探索し、あれかこれかトライ&エラーを繰り返しながら知的な冒険を積み重ねて自分なりの知恵を身につけたり、知識の体系を組み替えたりしていけるようにするのは、学習環境であると考えています。
 学習環境というと何やら物理的な空間の構成をどうするか、といったことが思い浮かびますが、学習環境とはそのようなものではなく、教師の働きかけや学習の計画、集団の風土なども含めた質的な内容こそ大切だと思っています。
 就中、学習の主題が子どもの「内発的な動機」を生み出せるものになっているかどうかは重要で、誤解を恐れずに極論すれば、主題が適切なものであれば、学習の途中で余計な指示や助言を必要としないほどに、子どもたちは先生の予想を越えて広がりのある学習を展開していくものです。
 だから、まず主題としての『テーマ』を工夫しましょう、と申し上げたのですが、その折も折、先日届いたばかりの今月号の「教育展望」に同様の指摘をされている先生の文章を見つけましたので、ご紹介します。

今回の教育課程の改定の眼目は、いうまでもなく総合学習の時間の創設にある。
  総合学習の時間はテーマの設定に始まって、その名称まで各学校に委ねられて
  いる。学校裁量を生かすには恰好の舞台である。
  それだけにテーマをどう設定するか、時間割にどう組み込むか、各学校の戸惑
  いは大きい。学校現場にとってはまさにその力量を問われているのである。
  とりわけ重要なのはテーマの設定である。中教審答申以来、いくつかのテーマ
  が例示されてきたこともあり、先進校の実践にはそのうちの一つを選んでとい
  う体のものが多い。学習指導要領は「児童・生徒の興味・関心に基づく課題、
  地域や学校の特色に応じた課題など」を含め、学校の実能に応じた学習活動
  に期待している。
  例示されたものの中から学校としてどれかを選ぶというより、児童・生徒が
  どういうことに関心や興味を持っているかというところから出発するのが望
  ましい。加えて、テーマはどのようなものにせよ、まずは地域や学校の実態
  を踏まえて考えるという姿勢を貫くことだ。教師の期待や願いが先行して、
  児童・生徒が受け身に終始するようでは、せっかくの総合学習の時間もかつ
  ての特設「学校裁量時間」の二の舞になりかねない。


移行措置を控えて、いわゆる先進校、とりわけ研究指定校には全国から参観
   者が詰めかけ、受け入れに大わらわという話をよく耳にする。ただし、こう
   した参観や視察がどれほど自校の実践に役立つかは正直なところ疑問である。
   とりわけ総合学習の時間は、教科を越えて学校の教育計画全体に関わること
が多いので、数時間の授業を見ただけでその極意を会得できるといったもの
ではない。
特定の先進校の実践をそのまま模倣したり、理論書に盲従してあわてて自校
   にも取り入れようなどとはしないことだ。これまでの学校では、ユニークな
実践が世間の関心を集めればほとんど必ずといってよいほどそれに追随する
学校が続出し、とどのつまりはどの学校もさして代わり映えしない横並びに
終わり、そのうちには流行も下火になるというのが通例だった。
これでは教育改革の名に値しないし、学校再生の道にも通じかねる。  
   【教育改革に向けて学校の再生】
              下村哲夫(早稲田大学教授)
              教育展望1999,7/8月合併号 pp.12..13

 私の指摘したことを、はからずも裏付けていただいたような心持ちですが、それはともかく、子どもの興味・関心を支えとして、学ぼうとする意志や意欲を思う存分発揮できるような学びを展開していけるような『文化への参加の誘い』としての「テーマ」を練りに練って行こうではありませんか。
それこそが『総合的な学習の時間』の成功の第一のカギとなるはずです。
私は、8月に行われるある研究団体のシンポジュームのパネラーとして参加することになっています(今そのアブストラクトの作成に追われているのです)が、そこでも話題の中心は「総合学習時代の教科の在り方」とそれにかかわる「コンピュータなどの電子機器に望むこと」になりそうです。
 どこに行っても関心の的の総合的な学習ですが、これを「真に子どもにとって意味のある活動の時間」としていくために、そして単なる流行で終わらせないようにするには、私たち自身が自信と勇気を奮い起こして創意・工夫していくことこそ大切だと思われてなりません。1学期が終わろうとしている今、2学期からの実践に向けて夏休みの間に考察・吟味を楽しんでみようではありませんか。


 従来、教育の場で展開される学習活動は、個人の能力の伸長にその最大の目標を置いて行われてきました。
子どもにとってみれば、自分の力をどこまで伸ばせるか、教える側にすれば、どこまで子どもたちに力をつけてやれるか、といったことが最大の関心事だったし、現在でも状況はそう大きく変わってはいないでしょう。
 しかしこのところ、研究者の間では『もうそろそろ学校教育の役割は、社会や国の役に立つ人間の育成にあると宣言してもよいのではないか』という意見が出始めています。
 自分自身に最大の関心を持ち、自分の力をどこまで伸ばせるか努力を惜しまず頑張ってきた結果、「利己的な学歴指向の学習による弊害」(ドーア)が生じ、それが現代社会の大きな病根となっているというのです。
 その上、日本の国民は戦前から戦中にかけて『家族のために』ひいては『国のために』戦い、終戦を迎えてみればその尊い犠牲は決して『国のため』ではなかったという報われない苦い経験を味わったことによる反動からでしょうか、「他の役に立とうという意志を持つことは不利益である』という感覚が社会に蔓延してしまったようです。
 それらのことから、利己的な思惑が価値判断の大切な部分を占めてしまったようです。
 それがこれまでの学校の弊害、ひいては社会の弊害の一因ともなっているのではないかというのが彼らの意見です。
 そこで、学習で獲得した知能を、利己的な目的の達成のために使うことばかり考えずに、自分の属する地域社会や国をよくするために使うことを考えるような社会的風潮を育てることが、私にはどうしても必要だと考えるのである。と主張するのは、河野重男お茶の水女子大学長です。
 時を同じくして経済同友会では、「選択の教育をめざして」という報告書の中で、自己実現時代に望まれる人間像について次のように論じています。

   1、社会に貢献できる人間であること。
   2、自己表現能力の豊かな人間であること。
   3、相手を理解し、尊重する人間であること。
  
 社会に役立つ、つまり自分を取りまく環境に貢献できる人間とは、「誰かに喜んでもらえるのがうれしい」「役立つ存在であることが幸せだ」と感じることのできる人間のことでしょう。
 そう考えてみると、これはやはり「幸福を実感している自分」に気がついている姿で、貢献する対象としての社会や相手を思いやる気持ちというよりも、役立つうれしさを実感する自分を核にした感情のようです。
 気の毒な人にあたたかい手をさしのべる援助や被災した町の復興を支援するボランティアの活動も、実は「そうすることによって喜んで下さる人がいて、喜ぶ顔を見るのがうれしい」し「自分がその喜びの原因となれている」という感情によってつき動かされ、ついついそうしてしまうのでなければ本物にはなり得ないでしょう。
 バスや電車の中でお年寄りに席を譲るという行為も、『それがよいこと(価値有ること)だから』という気持ちでするとすれば、どこかに偽善のにおいがして気後れがしてしまい、素直に行動を起こせなくなってしまうでしょう。
 しかし、以前に受け持った子どもの日記に書かれていたことは、「目の前に立っていたおばあさんに席を譲ったら、『ありがとう』ととても喜んでもらえた。私は自分の心がやさしくなっていることに気がついて、とてもうれしかった。」という内容でした。
 『喜んでもらう』ためではなく『自分がうれしいから』そうするのだ、という心情からは偽善のにおいがしません。一見、頗る利己的(自分のうれしさのために、という意味で)に見えますが、嘘も偽りもなく他者の役に立っているという意味で、それこそ『奉仕の精神』の根っこにあるべきものだと言えるのではないでしょうか。
 自己と社会とは、対極で相対するものではなく、個人や個性の問題も集団としての社会の位置づけの中でとらえられるべきものなのではないでしょうか。
 そこから、思いやりやいたわりの心などが育ってくるはずです。

 ここまで書いてきて、司馬遼太郎の『21世紀に生きる君たちへ』という小論(これは国語の教材にもなっているはずです)を思い出しました。

     〜 略 〜
  鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。
  人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というの
 は、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。
  もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分にきびし
 く、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを
 訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくので
 ある。そして、″たのもしい君たち″になっていくのである。

  以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすこ
 とができない心がまえというものである。
  君たち。君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持た
 ねばならない。
  同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばなら
 ない。
  私は、君たちの心の中の最も美しいものを見つづけながら、以上のことを書
 いた。書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているよう
 に感じた。

 私たちは、子ども一人一人が、さまざまな体験や学習を通して「よりいっそう自分になっていくこと」を保障することを仕事としていますが、そのためには、何よりも『かけがえのない自分を大切によりよく育て』ることにより、『他に貢献できるような存在として在りたい』という憧れが持てるような環境づくりをすることが大切なのではないでしょうか。


私たちは、子どもたち一人一人がよりよく学んでいけるように『わかる授業』を展開するための工夫をしようとしています。
 わからなければ問い続ける意欲もわかないし、学習に対する自信も喪失してしまうと思われるからです。
「どうせ僕なんかやってもわからないんだから」とやる気を失くしてしまわないためにも『わかる』こと、さらにはその実感をベースにした自分の知的可能性に対する自信を膨らませてもらえるようにすることが何よりも大切なのです。
 そこで、『わかる授業』を仕組むことに苦心するのですが、その意味は単に『覚えやすい』あるいは『目に見えやすい』といったものではないはずです。
 なぜなら、『わかる』ということは、子どもなりに考える手がかりを得るとか探求心が刺激されるといったことからスタートし、自分のそれまでの知の枠組みの中にしっくり組み込まれる形で、「ああそうか」「この方がうまく納得がいくぞ」と感じられ、「それならこういう場合はどうなのか」と新たな問題が自分の内に生まれてくることだからです。
 先生の指導技術(ワザ)で,その時は「わかった」かのような気分になっても,後で考えてみたら「何が問題でどう考えたら他の問題に置き換えられるのか」「大切なことは何か」といったことが「自分なりの納得を伴って思い起こせない」ような『わかる』は、理解を伴った『わかる』ではなく、いつ忘れても不思議ではない不安定な記憶としてのあいまいな『覚え』なのです。
 いま私たちや子どもの周りには、たくさん情報があふれています。
 インターネットによる情報検索の容易さはその象徴でしょう。
 「こんなことを調べたい」と思えば、インターネットの膨大な情報の中から即座に該当する項目やそれに関するホームページを百科事典をひくよりもずっと短時間に見つけだすことが可能です。(正確な情報かそうでないかは別にして)
 調べること・探ることが手軽に効率的に行えるようになったということは、とても喜ばしいことには違いありませんが、それが本来の『わかる』にどうつながるかといったことについて、あるいはつなげるためにどのような手だてが必要かといったことについては、これから研究しなければならないことでしょう。
 『わかりやすい』ことはとても大事なことですが、その道筋や獲得までの手続きが容易であるということが真の『わかる』や『わかり方』につながればこんな簡単な話はないのですが、どうもそうはいかないのが学習者の心理だと思われるからです。
 その一因は、『わかりやすい』ということが「自分で考えなくても良い,自分で編み出さなくても良い」という状況をつくり出してしまうことにあると考えられます。
 親切丁寧に「一から十」まで用意周到に準備された環境は「自分で工夫し,探し,見つけだし,解決する」ことの必要性がまったくない,という意味で子どもにとっても先生にとっても楽で覚えも早いかも知れません。中には、そのことで『わかったかのような錯覚』を持ってしまう子どももいるかも知れません。
 しかし,そのような抵抗のない環境が、わかり方を身につけ、探究の仕方を自己のものとして生かそうとする資質の育成に有効か,と言えばそうではないように思われるのです。 『わかりやすさ』に心を砕くあまり,子どもたちから考える楽しさや見つける楽しさ,気づくおもしろさを奪ってしまい,ついには『自分なりの智恵』を築くことへの意欲を損ねてしまわないようにしたいのです。
 そこで大切なのは,『わかる授業』といった時の『わかる』の意味の捉え直しだと考えています。
 解決したい問題の『答え』がわかる,といった従来のとらえから,課題が見える,解決への道筋が見える,解を得た時の自分の力や世界の広がりが見える,といった『わかり方』にかかわる見えやすさがここでは大切になると考えられます。
 しかも,この場合の『見える』は目に飛び込んできて『見えてしまう』という見え方では困るのです。どこまでも『しっかりと見,目を凝らして見なければ見えない』見え方でなければ,子どもの『自分が見つけ,自分が取り組み自分で解決する』という指し手感覚を生かすことができないし、自分で見つけたこととしての手応えが感じられないと思われるからです。
ですから『しっかりと見つめたくなる』『目を凝らして見つけたくなる』ような授業の仕組みこそ,本当の意味の『わかる授業』なのではないかと考えています。
ある抵抗値を持った障壁や障碍があるからこそ、挑戦への意欲もわくし克服の喜びも感じられるはずです。さらには、もっと高い壁を目指そうとする意志やそこで獲得した知識や技術を使ってみようとする構えが生じることも期待できます。
 そのような知的興奮に支えられた『わかる』『わかろうとする』学びを構想するためには、『わかりやすさ』よりもどのような値の抵抗をどう仕組むかに心を砕いて、子どもの挑戦意欲と克服への意志を支えとした学びをコーディネートしていくことが大事になるのではないでしょうか。
総合学習時代の教科のあり方を考えた時には、「教えられずに学ぶ子ども」の姿がまず思い浮かびますが、それは「子どもにあずけられる授業」の具体的な学習の様相でもあります。
子どもに「あずける」ためには、そのようなコーディネート役が先生の主な働きとして浮かび上がってくるでしょう。つまり、授業が始まるまでに大方の仕事は終えているような下準備としての役割です。
これからの授業づくりには、どのような値や種類の抵抗を設ければ、やる気が生じるか、粘り強く問い続けるに耐えうる「問い」が生じるかについて詳細に検討し、授業を構想していくことにこそウェイトが置かれることになるだろうと思われてなりません。



私は、かつて次のように書いたことがありました。


       〜 略 〜
 困難な局面に立ち至った時に「自分なら乗り越える努力を惜しまないぞ」と
がんばれる自分を信じることができたり、できるかどうかはともかく克服への
意欲を持って立ち向かえる自分を意識したりできること、それは「自信」であ
ると言えます。
 (子どもたちが)そのような自信や勇気を獲得し、生きる構えを身につけた
り能力を伸ばしていけるように「お手伝い」するのが私たちの最大の責務であ
ると言えますが、「お手伝い」である以上強制的な命令や指示は無縁なものと
して意識されるべきでしょう。
すずめの学校の先生は「鞭をふりふり」教えましたし、「まだまだいけない」
と子どもたちを督励しコントロールしています。しかし、本来の学習を「お手
伝い」することを考えた時、それでは困るでしょう。
 私たちは現実に今「生きて学ぶ」存在、新しい自分自身を見いだし切り拓き
育てていく存在の一人として、「生きること」や「学ぶこと」の嬉しさ・楽し
さ・おもしろさを自分の姿をもって伝えていきたいのです。
 探求すること、発見すること、つくること、築き上げることを求めてあれか
これか試し確かめることなど、人間にとって本来「生きていくこと」は「学ぶ
こと」でありその楽しさや幸せを実感することである、ということを身をもっ
て示すことが、子どもにとって何よりも良いモデルとなるはずなのです。
 それが、ひいては自己実現に向かおうとする子どもたちの育ちにつながる最
も効果的な道筋であると思われるのですが、いかがでしょうか。
 すずめの学校の先生ではなく、「誰が生徒か先生か」わからないよう、共に、
しかし学べる環境づくりが確かにでき、期待へのモデルとしてのあり方や姿を
示せるメダカの学校の先生が望ましいのではないかと、この頃ますます強く思
うのです。
   柳橋小学校「リサーチ」H.9.4.26


 これを書いてからもう2年も経ってしまいましたが、教育の枠組みや教育観の大きな転換が求められているこれからの教育では、ますますそのようなことが大切になることでしょう。それは多くの研究者の指摘するところです。


子どもが自分なりの「よさ」をもとめ、自分なりの仕方で、経験や体験を
通して学び、その過程で学ぶ力、意志を育てていくといったといった教育
のパラダイムの転換が求められている。
このことは当然教師に従来とは異なる新しい資質を求めることになるのだ
が、それは教師自身の学習の経験について質的な転換を図ることを欠いて
は実現されない。
教師自身も「よさ」をもとめて自ら学ぶ経験をもたねばならない。
教師は訓練される客体ではなく「気づき」を通して自己成長を図る能動的
な存在なのである。 藤岡完治(横浜国大教授)
       「新しい学校を創る教師の資質をひらく」教育展望 '94.3月号 P.28


 学校の役割の転換が求められるように、めざすべき教師像もまた、変更
を迫られている。完成された状態で子どもの前に立つのではなく、「その子」
にあった支え方を模索するなかで、教師自身が学び、成長する存在となる
ことが求められている。
  子どもが学び続けていくように、教師もまた、実践のなかで学び続け、
成長し続けていく。 新井孝喜(茨城大学助教授)
    講演:【「生きる力」を育てる学習指導】より


真正の文化に直接触れる機会が飛躍的に増大していくとなると、教師の
役割について、従来とは違った意味を考えないわけにはいかないのである。
そこで考えられることは、教師もまた「学び手」になる、ということで
ある。つまり、真正の文化に対して、教師は、子どもと「ともに学ぶ」存
在になり、子どもとともに世界の意味の広がりと深まりを味わい、感動し、
好奇心をかきたてるのである。
ただ、子どもよりは多少とも「先輩」であるから、おもしろさがわかるだ
けでなく、おちいりやすいつまずきや、誤解の可能性を警戒する用心深さ
を備えている、という点が、子どもとは違うのである。佐伯 胖(東大教授)
                           教育展望 1994,10月号 p.14,15


 『教えること』を核として教育活動を展開してきた私たちですが、これからはむしろ子どもたちの『学びをコーディネートすること』をその活動の柱としていくべきだと考えられますが、そうなると『教え方』よりも私たち自身が見つけたり気づいたり方法を模索したり編み出したりすることをおもしろがれて、それを自らの言動で示し続けられることの方がよほど大切な資質となるかも知れません。
 それが、私の書いた「メダカの学校」のメダカの先生の意味ですが、総合的な学習の時間をよりよく構想し、ひいては新しい学校づくりに寄与するためにはそのことが何よりも欠かせないのではないか、と思い続けているのですがいかがでしょうか。



現在、総合的な学習の展開を構想する上で、「ポートフォリオ評価」に注目が集まっているようです。そこで、今回のリサーチはそれを話題にしたいと思います。

 1 ポートフォリオとは何か
ポートフォリオとは画家や写真家が自分の作品をファイルする「紙ばさみ」や「箱」などの文書入れのことです。
彼らはこれに作品をファイルして,売り込みのときなど,自分の仕事の実績として相手に見せながら説明をするわけです。
そこには、自分の思いついたアイディアメモや他人から寄せられたメッセージなど、自分の作品の完成に至る過程で生み出されたさまざまなものを投げ込み蓄えていくことができるので、自己評価に大いに役立つだろうという考えのもとに美術界や産業界のアイディアが教育界に取り入れられたものです。

2 なぜポートフォリオなの?
これまで、教師は自分が教えたことがどれだけ子どもに伝わったか、どれだけ子どもが達成できるようになったかを「測定」し「成績」をつけるために
評価をしてきた傾向があります。
しかし、これから展開される「総合的な学習」ではいわゆる「評価」はしないということが言われています。
それは『評価→評定=成績づけ』という範囲でとらえた「評価」はしないよという意味で言われているのであって、たとえ「総合的な学習」と言えども
本来の「評価」はなされるべきだと考えています。
本来の評価とは,教師にとっては「指導の反省や実践の改善」、子どもたちにとっては「自分がどの程度の力がついたかを確認して、さらに前に進んでいくためのもの」なのです。
もし、「評価」をしない教育実践が行われるとすれば、教師にとっては「教えたつもり、教えたはず」という指導となり、子どもにとっては「学んだつもり、
学んだはず」という学習となり、両者ともに「ひとりよがり」「ひとりずもう」の活動になってしまうでしょう。
とくに総合的な学習では評価が行われないと、子どもたちの学習活動は質的な向上がないままに、「はい回る」だけの活動になる危険性があります。
ですから「評価」は必要なのです。
ただし、子どもたちの主体的な活動が全面にわたって重視される総合的な学習では、そのような活動を把握する評価方法として、従来教科で行われているような測定といった意味でのテストによる方法では明らかに限界があります。
そこで総合的な学習にふさわしい評価法が求められており、ポートフォリオ評価が役立つのではないかというわけです。

3 ポートフォリオ評価って?
さて、『ポートフォリオ評価法』では,子どもたちの学習の文脈に即して,学習のプロセスと結果から生まれた「作品」を意図的に蓄積していきます。
ここで大切なことは,蓄積していく「作品」は,完成品だけでなく,その完成 に至る試行のプロセスをうつしだしたものも含まれるということです。
具体的には,メモ書き,聞き書き,他の人からのアドバイス,イラストなどがあげられます。
  そして,蓄積した作品を比べたり,整理したり,取捨選択したり,さらには先生,仲間,親や地域の人々に紹介・発表したりすることで,子ども自身が
自分の学習を振り返ることも重要な特徴です。
少し難しく言いますと、「メタ認知を働かせて,自己評価できる」ということになります。
こうして,子どもたちは,学習とともに評価の主体者にもなっていくわけです。
  つまり、「ポートフォリオ評価法」では,子どもの自己評価を促すとともに,教師にとっては子どもたちの自己評価も含めて,より深く子どもの学習をとらえることができるようになるのです。
そして,その中で教師は子どもたちと協力して,学習の新しいめあてを創り出していける存在になれるのです。

4 どのように評価が行われるの?
『総合的な学習』では,子どもたちの身近なことがらから問題を見つけて探究活動を展開していきます。そのような探究活動をすすめる中で,たくさんの作品が生まれます。
例えば,絵や文による観察記録,インタビューの記録,集めた資料,成果をまとめた冊子,発表会の準備と本番で生まれる資料などです。
こうした作品を一人ひとりの子どもたちのポートフォリオに蓄積していきます。
この「容れ物」としてのポートフォリオについては,ファイル,箱など,様々なものが使われているようです。
アメリカでは専用のファイルも開発されているそうです。
  さて,これらの蓄積された作品を見ることで,教師は一人ひとりの学びの足跡をたどることができたり,子どもたちが多面的な力を発揮していることを把握することができます。
また,こうした作品を素材にして,子どもたち相互の学習を活性化させることもできます。さらに,子どもたちは,いろんな機会を利用して様々な人たちと協力し自己評価を行う中で,学習の進展に対する達成感が持てるようにもなります。

5 具体的にはどのようなことが考えられる?
総合的な学習では、まずもって「問いを発する力(発見する力)」の育ちが求められるでしょう。
    そこでは、子ども自身が「不思議」や「驚き」に気づき、その解決に向けて持て  る力を存分に発揮しながら伸ばしていくことが期待できるし、それが「学ぶ力」の核になると考えられるからです。
そこで、
(1)「不思議だな」「変だな」と子どもたちが思うささいなことをメモ(絵でも良い)させる
(2)新たな疑問が生まれたら,それもまたメモさせる
(3)このような走り書き程度のメモ類を作品として蓄積していく
(4)そして,ある程度作品の性格や量が決まり出したら,それを蓄積・保管する「容れ物」を用意する
(5)このような作品が蓄積されてくると、子どもたちの問題や関心のありようを把握できると共に,一定量の作品が蓄積されたら,子どもたちと一緒に作品を振り返って話し合う時間を持つことができる

 こうして「ポートフォリオ評価法」の初歩ではあっても,確かな一歩を踏み出すことができるでしょう。まずは教師だけでなく,子どもたちも,ポートフォリオ評価法に慣れていくことが必要だろうと思われます。さらには,保護者や地域の人々にもポートフォリオ評価法を理解してもらう期間も必要になってくるでしょう。
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これから始めてみようとする場合,最初からあれもこれもと考えずに,特に力点を置きたい点にしぼって行うことが長続きするコツだと思いますが、このように見てくると「ポートフォリオ評価」と呼ばれるものは決して目新しいことではなく、より確かな評価や子どもにとって意味のある評価をめざそうとする教師なら工夫の一環としてやってきたことだということがわかりますね。
それをさらに一歩押し進めて、システム化したもの・名付けたものがポートフォリオ評価と呼ばれるものであるととらえ、実践を深めていくことが子どものよりよい学習につながるはずです。



若い人たちを対象にした住みたい場所に関するアンケート調査で、住居選択の第一条件は「コンビニが近所にあること」だったそうです。24時間開いているコンビニは、確かに便利で、たとえ夜遅くに欲しいモノや手に入れたいモノができてしまった時でも、日常使う用品の多くを扱っていますので、まさにconvenience(好都合,便利,便宜;利益,便利)な店です。
スーパーマーケットやデパートなどのように大きな店を構えず、小さな店を数多く設けていますので、どこかのコンビニをうっかり通り越してしまった時でも「もう少し歩けば(車で走れば)いずれまたコンビニがあるだろう」と安心して構えていることもできます。 つまり私たちは店を探す必要と心配から解放されたと言って良いでしょう。
 『小さい』と言えば、駅のホームのKioskは一坪ちょっとの狭いスペースに
たばこ、郵券類(切手、印紙、宝くじ、テレホンカード)、酒類、新聞、雑誌、菓子、飲料、食料品、電気用品、さらには雑貨<医薬品(乗物酔い止め、頭痛薬、胃腸薬、目薬など)、写真用品関連(DPE含む)、生活小物雑貨ほか>などの数百もの商品を効率よく並べて、お客さんの用に供しています。だから忘れ物をしたとしても何とかなりそうです。
 また、あるホームのKioskが混雑していても、同じホームに別の店がいくつかありますから長い時間を待たされることもありません。しかも売店の人の手際のよさといったらありません。こちらがお金を用意する間に、もう釣り銭を準備して品物を渡してくれるといったタイミングのよさで、それが多くのお客さんをさばく秘訣になっているようです。
 つい何年か前までは、私たちの意識の中には『大きいことはいいことだ』という思いが大きな位置を占め、学校ですら盛んに統廃合して大きくしようとした時代がありました。
 私たちは、どうやらこれまで『大きさ』や『広さ』を価値の中核に据えてそれを志向してきたような気がします。『グローバルな視野から…』とか『マクロなものの見方を…』とか『国際的な規模で…』といった具合に見方・考え方のベースにそのような『大きさ』や『広さ』への強い思いが位置していたような気がするのです。
 ところが、先に見たように私たちは自分が利用する時には、決して大きさだけを求めているわけではなく、むしろ小さいことによる利点を積極的に受け入れ、活用し、その便利さを享受している場面が多いことに気づきます。
今や大きさを誇ったデパートは軒並み経営不振。大手のデパートの中には、店じまいするところまで出ています。そのような不振をかこっている店々は、「サービスを受ける消費者」が、大きさではなく「どれだけ迅速で便利なサービスを受けられるか」を賢く見て取っていることにもっと早く気づくべきだったのではないかと思っています。
 早稲田大学教授の佐佐木幸綱氏は、数年前のある文章の中で次のように述べています。

 まあ、どうでもいいことと言えばそれまでだが、いま、ごく若い世代の
間に少しずつ出はじめている〈全国版〉ではなく、〈地方限定〉をよしと
する価値観に私は注目したいのである。国際化を重視し、全国規模をよし
とするそういう私たちの価値観が揺らぎはじめているのではないか。そう
思われるからである。
 経済優先、商売的価値観からすれば、国際化、全国規模がいいに決まっ
ている。しかし、個人の側から見れば、それだけがいいわけではない。
 大きいことはいいことだとの見方は、市場には当てはまるが、個人にと
っては決して便利ではないからである。個人の生活、個人の便利さを第一
に考えるならば、小さいことの方がどうもいいらしい。私たちは少しずつ
そういうことに気づきはじめているのではないか。
       雑誌「教育展望」巻頭言 '97 4月号

 この数日、新聞やテレビは石原慎太郎東京都知事が打ち出した「外形標準課税」の話題を盛んに報道しています。各党派の東京支部は、本部のつまり中央の意向をよそに賛成の意を表しており、今日にでも都議会を通過しそうな勢いです。
 中央集権の政治から地方の政治への移行を象徴するような好事例とでも言えそうです。
 そして、それはまた佐佐木先生の言う「全国版から地方限定」への価値観の移行とも相通じるものがありそうです。
 閑話休題、ヨーロッパでは、どうやら社会全体の意志が従来の日本とは逆に働いているようで、銀行などは一店舗の面積を小さくし、人員を思い切って少なくしようとしているようです。そして、このように小さな店舗が町に何カ所もあり、その分、利用者にとってはすこぶる便利に機能しているようなのです。
小・中学校や幼稚園にもこの原理は働いていて、クラスを小さく、学校を小さく、と考えているようで、ふつうの学校だと、一クラスは10人ほど、一つの学校は100人以内がほとんどで、「統合」よりも「分割」が話題になるそうです。
小人数だから誰もが参加意識と帰属意識を持つことができ、「自分はここにいる」という自覚を持って生活ができるばかりでなく、少人数だからこそ「一人一人がよく見える」「一人一人への支援が確かにできる」、つまり十分なサービスを迅速に施すことが可能であるということがその理念の核にあることに着目すべきでしょう。
 こうして見ると「大きさ」は、サービスという面から考えれば良いことばかりではなく、不利な点が多く浮かび上がってきそうですが、だからこそ徒に「大きさ誇り」をせず、その不利をカバーするように努めることが私たちにとってもっとも大切なことではないかと思われてなりません。地方だと思われているところ、ちっぽけだと思われているところの子どもの方がずっとたくさんのサービスを受けて幸せな毎日を送っているのかも知れないのですから。